朝夕の空気に幾分涼しさが加わっても、日中はまだまだ残暑が厳しかった。夏という季節が、まだ終わってなるものかと踏ん張り留まっているようだった。
アンジールからの手紙は、少しずつ増えていた。ザックスはオフに街まで出て、アンティークショップで文箱を買った。たまたま覗いた店内で、手紙を入れるのに丁度良い大きさの箱だと思い手に取ったら、年老いた店主が「それは昔、手紙や文書を保管していた文箱だ」と教えてくれた。表面は滑らかで艶のある加工が施されており、オリエンタルな雰囲気の青紫色の花がとても綺麗に描かれている。カキツバタという花らしい。
ザックスは気に入って、値段を聞いた。しかし、予想以上に高価なものだったので、「気に入ったけど予算オーバー」と苦笑いで言った。
「でもお兄さん、若いのになかなか渋い好みだね」
「そっかな。手紙を入れるのに丁度良いと思ったけど……、でも綺麗な箱だな」
「おや、手紙を入れようと思っていたのか?」
店主はずり落ち気味の眼鏡を指で上げると、ザックスに尋ねた。ザックスは少し恥ずかしそうに言う。
「あぁ……、大事な手紙なんだ。結構増えてきたから、箱か何かに入れておこうと思って」
「大事な人からの手紙なんだね?」
「え……あぁ、うん。そうなんだ」
ザックスはニッと笑った。店主は少し考える素振りをして、ザックスと文箱を交互に見た。そして、薄暗い店の奥へと消え、何かを手にして戻ってきた。店主が持ってきたのは薄桜色の布だった。煩雑な机の上を、多少強引に広くすると布を広げた。
「これはな、風呂敷と言う布だ」
ザックスが不思議そうに見るのを尻目に、店主は先程の文箱を風呂敷の上に置くと、あっという間に包んでしまった。それをザックスの腕に乗せる。
「持って行きなさい」
「えぇっ!? ちょっと、」
ザックスは店主に腕の中の包みを返そうとする。しかし、店主はそれを断った。
「大事な人からの手紙には、相手の気持ちが込められている。この文箱で、大切にしまいなさい。お代は気にするな。久し振りに良いお客人に出会えた、それだけで満足だ」
眼鏡の奥の瞳が、柔らかく微笑んだ。ザックスは何度も丁寧にお礼を述べて、店を後にした。その腕に、大切に文箱を抱えながら。
* * *
部屋に戻ったザックスは、今日までにアンジールから届いた手紙を全てローテーブルの上に並べた。封筒の裏の隅には、受け取った日付を記してある。
手紙の本文は、長い時もあれば通信文のように短い時もあった。時折、便箋が砂や泥で少し汚れていたりすると、ザックスはアンジールが遠征先にいる事を思い知った。
しかし、本文の長短に関係なく、手紙は遠征先からとしてはこまめにザックスの元へ届いた。
一通ずつ大切に手に取りながら、ザックスは文箱に手紙を入れていく。ふと、ある封筒を手にした時、ザックスは動きを止めてそれに見入った。裏の日付は、アンジールが遠征に出発してから約一ヶ月後。
「……嬉しかったな」
ぽつりと呟いて、ザックスはこの手紙を受け取った時の事を思い出した。
アンジールが出発してから最初の一ヶ月が、実はザックスが思っていた以上に結構辛かったのだ。情けない事に、時折ふいに寂しさに襲われてどうしようもなくなったりした。それは特に、一日を終えて眠りに就こうとする頃、前触れもなく訪れた。
どう表現して良いか分からない。でも、確かに感じる胸の奥のざわめきと不安。眠りたくても眠れなくて、静まり返っている空間が何だか怖い。気を紛らわすようにテレビを付けたりしても、却って空しくなるだけだった。夜が永遠に続くかと思われた。
ザックスは、そんな自分を嫌悪した。
『寂しがったらダメだ。悲しくなんかない』
何度も何度も自分に言い聞かせるようにして、最後は疲れて眠ってしまうような夜も一度や二度ではなかった。
そんな頃、アンジールから届いたこの手紙は、まるでそんなザックスを優しく抱き締めるかのような文面だった。
『強がったりしていないか? 無理に笑ったりしていないか? お前は時折、頑張りすぎてしまう場合があるからな。俺はそれが少しだけ心配だ。
もし、お前が寂しいとか悲しいとか、そういう気持ちになる時があって、そんな自分を嫌悪したりしていたら。
ザックス。寂しいと思うのも、悲しいと思うのも、それは当たり前だ。だから、そう思う自分を責めたり、ダメだと思ったりするな』
便箋を持つ手が震えて、ポタリと涙が落ちた。インクが滲むといけないから、慌てて手の甲で涙を拭った。
「アンジール……、アンジー……ル」
ザックスは泣いた。噛み殺していた嗚咽は、やがて切なげに静かな部屋に響いた。
我慢しなくて良いんだ。我慢する必要なんてない。この胸を締め付ける感情は、当たり前だから。寂しくて当たり前だ。悲しいのも当たり前だ。だって、側にいない。触れられない。こんなに惹かれ合っているのに。
ふたりがそれぞれの場所で見上げる空は必ず繋がっているけれど、今は離れているのだもの。手を伸ばしても、届かない。
こんなに胸を締め付ける狂おしさは、彼を大好きだから。誰よりも何よりも、大好きだから。そう思えば、この寂しさも悲しさも、夜の闇に溶けて優しく自分を包んでくれる。
「好、き……あんたが、大好き、だ……こんなにも」
自分が嫌悪したこの気持ち達を、捨てなくても消さなくてもいいんだ。全部、胸に抱いていれば良い。時々は泣いても良いよな。そしたら、また自然に笑えるから。俺、頑張れるから。
ザックスはアンジールからの手紙を胸に抱き締めながら、自然に涙が止むまで肩を震わせて泣き続けた。
何だかもうとても前の事のような気がして、ザックスは目を細めた。
「この手紙に、凄く救われたんだ」
そっと封筒を撫でて、文箱に入れた。全ての手紙を入れ終えて、ザックスは静かに蓋をする。描かれているカキツバタにそっと触れた。
『カキツバタの花言葉は、「幸福」・「贈り物」だ。お客人の文箱として、ピッタリの花言葉だろう』
店を後にする際に、店主が言った言葉を思い出した。
「あぁ、ピッタリだ……」
大切な贈り物が入った、カキツバタが鮮やかな文箱を見ながら、ザックスは嬉しそうに微笑んだ。
20150328