朝未き。夜はまだ明け切らず、夜明け前のほのかな明かりの中に、星が少しずつ消えていこうとしている。
アンジールはベッドに座りながら、紫煙をくゆらせていた。額に掛かる前髪を掻き上げようとして、二の腕の傷が目に飛び込んできた。真新しい赤い筋が刻まれている。腕の他に背中と胸元にも、同様の筋が無数に。
『随分派手に付けたな……』
アンジールは苦笑しながら、シーツに埋もれるように眠っているザックスを見つめた。
情事の最中、ザックスはアンジールの体に、自らの爪跡を刻み続けた。特に背中は抉ったような深い爪跡が、中心の背骨部分から脇へ向かって伸び、血が滲んでいる。みみず腫れになる事は間違いないだろう。それ程、見るからに痛々しそうなものだった。
自分の体にギリリと爪を立てるザックスに、アンジールは決して「止めろ」とか「痛い」等は言わなかった。痛みを感じなかったと言ったら、それは嘘になる。背中に腕に胸元に、容赦なく爪を立てられる度に、アンジールは無言でその痛みに耐えた。何故ならそれは、ザックスの声にならない思いの表れだから。自分のものであると主張するように付けられた爪跡は、間違いなくザックスしか付けられないもの。もう単なる情事の色っぽい痕跡ではなく、もっと深くて重い意味を持っていた。
アンジールの肩口には、うっすらとではあるが歯形も残されている。飽和する思いと強すぎる快楽故に、歯を砕けんばかりに食い縛り、あるいは舌を噛み切りそうだったザックスに、アンジールは己の肩口をザックスの口に当てた。ザックスは無意識に本能に従うように、目の前に晒されたアンジールの肩口に噛み付いた。ガブリと歯を食い込ませ、震えながら涙を流す姿に、アンジールは痛みさえ忘れて愛しさを感じたのだった。
ザックスの指先がピクリと動き、その睫が微かに震える。ゆっくりと瞼を上げて、ぼんやりと視線を彷徨わせる。
「水、飲むか?」
アンジールの問い掛けに、ザックスは無言で頷いた。そっと上向かせて、口移しで少し唇を湿らせてやる。指先で摘んだ鎮痛剤を口に含ませ、再び口移しで水を飲ませた。ほんの僅かに、唇の端から水が伝い落ちる。つい少し前まで、伝い落ちるそれは唾液だったり精液だったりで、アンジールの脳裏に淫猥な光景がフラッシュバックする。
「……ありが、と」
今にも閉じてしまいそうな目をして、ザックスはアンジールの腕に指を伸ばした。そっと握って口づける。
「まだ早い、もう少し眠れ」
指先がきゅっと握られる。アンジールは小さく笑った。
「大丈夫、見ててやるから」
その艶やかな髪の毛を優しく撫でる。ザックスは幸せそうな顔で、再び眠りに身を任せた。
* * *
瞼の裏に光を感じて、ザックスは覚醒に向かう。微かに空調の音が聞こえる。ブランケットの肌触りがさらりと気持ち良い。昨夜はあんなに暑くて熱くて……。
「…………」
目の前には見慣れた部屋の風景。でも、隣に手を伸ばしてもシーツはさらりと冷えていた。良く知った熱がない事に、今日が遠征当日の朝と思い知る。ザックスはベッドサイドの時計を確認しようと、ゆるゆると腕を伸ばした。すると。
「あ……」
右手首に紅いリボンが巻かれている。それはいつか、お互いを結び合ったリボン。「ずっと繋がっていたい」と言った自分に、アンジールは笑いながらもリボンを結んでくれた。あの時初めて、優しく腕の自由を奪われた。物凄く恥ずかしかったが、同時に酷く乱れた。こんな愛され方もあるのだと知った。
動く度に、紅い繻子はシュルシュルと小さく音を立てる。ザックスは手首に巻かれているリボンに、思わず頬を寄せた。かなりの長さがあるリボンは、その先がサイドテーブルの引き出しに伸びている。情事の気怠さが色濃く残る体を起こして、引き出しをそっと開ける。リボンは封書に巻かれていた。
つい、指先が小さく震えてしまう。のり付けされていない白い封筒を開くと、そこには一枚の便箋が入っていた。丁寧に二つ折りされた便箋をそっと開く。カサリと乾いた音がした。
『I want you to know whatever you do I will always be here』(お前が何をする時でも、俺がお前の側にいるという事を知って欲しい)
良く知ってる筆跡で、中央に一文だけ綴られている。
「アンジール……」
その短い一文、けれどアンジールのザックスへの愛に溢れた一文を、ザックスは何度も何度も読み返した。そう、自分達は何処にいても繋がっているのだ。大切に便箋を封筒に戻して、改めて時計を見遣る。
まもなく八時になろうとしていた。今頃はもう、アンジールはヘリの中だと思った。ザックスはブランケットを纏って、体の痛みを感じながらも窓辺へ立つ。太陽は天空の天辺へ向かって駆け上がり、抜けるような青空。夏の眩しい朝だった。
20111002