寝室に移動する時も、ザックスはアンジールから離れたがらなかった。手を繋いだまま、部屋の中を移動する。今夜は体の何処かしらで、常に彼に触れていたかった。ベッドに上がり、枕を背当て代わりにして座ると、ザックスが繋いだ手をぎゅっと握った。
「明日から暫く留守にするが……留守中も頑張れよ」
「うん」
「この部屋は、お前が使っていい。普段通りに使えばいいさ」
「うん」
「……寂しいか?」
ずっと下を向いたばかりのザックスが、はっと顔を上げた。額に掛かった髪の毛を、そっと払われた。
「うぅん、大丈夫。平気だ」
いつものように、ザックスが笑おうとした時。
「お前は強いな」
「えっ……?」
アンジールがザックスの額に唇を付ける。
「俺は、寂しい。情けないけれどな……」
「アンジール……」
額から唇を離して、アンジールがザックスの顔を覗き込んだ。そのまま、柔らかい頬にちゅっとキスをする。
「ひとつ、頼みがあるんだ」
「何? 俺に出来る?」
「勿論。何か……お前のものを、ひとつくれないか。ずっとお前だと思って、持っていたい」
「俺のもの……」
ひとつしか思い当たらなかった。でも、これで良いのだろうか。そっと自分の左耳に触れた。
「アンジール、俺には……このピアスしかない。でも、あんたには」
ピアスホールがないのに、ピアスを渡してどうする。ザックスは、他に何かないか懸命に考えた。
「俺に、はめてくれるか?」
「えっ?!」
アンジールの目は真剣だった。ザックスが思わず息を飲んでしまう程に。
「でも、ピアスホールが……って、まさか」
「お前が開けてくれ」
「アンジール……でも」
「頼む。俺の我が侭を……、聞いてくれ」
彼の言葉に、ザックスは目を閉じた。あぁ、こんなにも愛しい人なんて、この世界中でもう彼以外、いない。大好きで大好きで、この胸が切ない。
ザックスはアンジールに向かって、静かに頷いた。
アンジールはサイドテーブルから、持ち帰ったばかりの救急セットを取り出す。中から太めの針と消毒薬、脱脂綿を取り出した。滅菌パックされた針を手渡される。
「冷やした方が、良いかな」
「いや、構わないさ」
アンジールの上を跨いで座ったザックスが、彼の左耳を指先で触る。傷ひとつない滑らかな耳朶に、自分が針を通すと思うとさすがに少し緊張する。針を刺す大体の位置を確認した。
「本当に……、良いの?」
「あぁ、開けてくれ」
揺るぎない口調に、ザックスも決意する。今は自分の顔の位置より、少し下にあるアンジールの唇に口づけた。滅菌パックを破り、中から針を取り出す。銀色の針が、照明を受けてスッと光った。左耳の後ろ辺りにタオルを当てる。
『あ、消毒……』
消毒薬を取るのがもどかしくて、ザックスはアンジールの左耳の耳朶をそっと口に含んだ。舌先で舐めて、静かに顔を上げる。
「少し、痛いよ」
「あぁ」
部屋が静まり返る。酷く静謐で、室温が下がったような感じがする。ザックスが目を細めて、アンジールを見つめる。その表情は慈愛に満ちたようでもあり、また恍惚としてうっとりとしたようでもあった。アンジールはそんなザックスの表情に、満足そうに微笑むとそっと瞼を閉じた。
アンジールの滑らかな耳朶に、針の先を当てる。そのままザックスは、指先に力を込めた。
「ん……っ」
アンジールが、僅かに声を上げる。その声にザックスは、情事の最中であるかのような錯覚を覚えた。プツリと、針が皮膚を破る音が確かに聞こえた。指先が感じる抵抗がなくなり、一気に耳朶の裏側まで針を通す。そっとタオルを退かして、針先が耳朶を貫通しているのを確認すると、ゆっくりと針を抜いた。穴が開いた部分に、小さな小さな赤い粒が生じる。ザックスは針を使用済み用ケースの中に入れ、素早く消毒薬を手に取り、脱脂綿に含ませる。そして、アンジールの耳朶を撫でるように拭いた。脱脂綿が、僅かに赤く染まった。
「開いたか?」
「うん。待ってて、すぐこれを入れないと……」
ザックスが自分の左耳から、碧い石が煌めくピアスを外した。そのまま、アンジールの真新しいピアスホールに、それをパチンとはめた。
「ジンジンするだろ?」
「少し、な」
「俺のピアスは、ファーストピアスにしても大丈夫な素材だから」
アンジールが自分の左耳に触れる。ジンジンとして少し熱いそこには、今までになかった感触。アンジールが嬉しそうに笑うのを見て、ザックスは彼の頬を両手で包んだ。
「このピアス、あげるんじゃないからな。……だから、絶対返して。必ず返して」
泣きそうな顔のザックス。アンジールはその愛しい彼の頭を静かに撫でた。
「あぁ、勿論。お前に、必ず返すさ」
手を握り合って、キス。額に頬に、何度も何度も触れる唇。ザックスがアンジールの耳朶に、そっと指先で触れる。ずっと自分の耳朶で煌めいていた碧が、目の前にある事が何だか不思議だった。じっと見ていたら、アンジールの指先が自分の耳朶に触れてきた。
「少し……変な感じだな。お前のここに、何もないのは」
「あぁ……ずっと付けてたからね。慣れるまで、少しスースーするかも、……んっ」
アンジールの唇が、ザックスのピアスホールのみの耳朶を挟んだ。舌先で小さく舐められる。
「あっ……、ぁ」
「すまなかったな。……我が侭を聞いてくれて、有り難う」
「ああぁっ……ぁ」
ザックスは激しく首を横に振った。アンジールの優しい言葉に耐えきれず、我慢していた涙が溢れ出した。愛しいとか嬉しいとか、寂しいとか悲しいとか、そういう色々な感情がごちゃ混ぜになって、もう自分でもどうして良いのか分からない。ザックスはアンジールの首筋に、自分の額をぐいぐいと押し付けた。泣くまいとして嗚咽を噛み締めながら、それでも時折大きくしゃくり上げる。
アンジールはザックスの背中を、あやすようにさする。何度も何度も、ザックスの呼吸が落ち着くまでそれは続く。この数日間、寂しいと思う気持ちを胸に押し込んで、強気に笑顔を作ろうとしている彼の姿を見てきた。俺に気を遣って、心配掛けさせまいとして、ずっと我慢してたんだよな。そんなお前が、堪らなく愛しい。有り難う。
「……ザックス」
「……ん」
自分の肩口から、その顔を上げさせる。涙で濡れた瞳が自分を見つめてくる。回されている腕に、力が込められた。アンジールは笑顔で聞いた。
「なぁ、これ、似合ってるか?」
チラッと首を傾げて、左耳を見せるようにした。ザックスが嬉しげな顔になる。
「うん、似合ってる……綺麗」
「お前の碧だ」
目縁に残る涙を舌先でそっと舐め取ると、睫が小さく震えた。こめかみに口づけて、そのまま耳元に唇を寄せる。
「明日、オフ申請したんだな」
ザックスの体が、ピクリと跳ねた。
「……うん」
「何故だ?」
「…………」
何か言いたげに口を開くものの、躊躇って無言で俯く。そして、その頬や耳がほんのりと薄紅に色付いた。アンジールはその様を見て、とても可愛らしいと思った。
理由なんて、聞かなくても分かってる。でも、お前の口から聞きたいんだ。聞かせて欲しい、そのどうしようもなく愛しい理由を。
「あ、明日は、」
ザックスがぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。アンジールはそっと耳を傾けた。
「明日は、アンジールが遠征に出発するか、ら……、だから、こ……今夜は……」
「今夜は?」
「えっと……」
「……聞かせて、お前の声で」
ゴクリと唾を飲み込む音がした。そんなに緊張しなくても良いのに。可愛いな。ほら、その可愛い唇で、待ち望んでる言葉を聞かせてくれ。
「今夜は……ずっと、一緒」
「ずっと、一緒?」
「うん……、その……『ちょっとだけ』じゃ……嫌、だ」
カアァっと頬が熱くなるのが自分でも分かった。自分で言った言葉が、素直に恥ずかしかった。でも、アンジールがじっと見つめている事も恥ずかしかった。
不意に、頭をガシガシと撫でられる。それはまるで髪の毛を掻き混ぜるように。ザックスはビックリした。
「よし、分かった」
アンジールが笑いながら頬を撫でる。
「今夜は、『ちょっとだけ』じゃなくて……、『たくさん』が良いんだな?」
「う、ん……」
頬に触れた手が顎に滑り落ちた。上向かされたと思ったら、熱く深く唇を塞がれた。
* * *
口づけを交わしながら、もどかしげにお互いの服を脱がす。パサリと音を立てて、それらは床に落とされる。空調が効いてひんやりとした寝室に、熱い吐息が次々と零れ落ちる。触れ合う素肌は乾いていて、さらりと滑らかな感触だった。
「アンジール、お願い」
「何だ?」
口づけの合間を縫って、ザックスが請うた。
「空調、切って……」
「でも、切ると暑いぞ」
空調を切ったら、途端に室内の温度は上がり出すだろう。夏の夜は日中の熱を充分に残して、消えないままに再び朝を迎える。冷める事のない、夏の熱。
首筋にアンジールの唇が這うのを感じながら、ザックスは「構わないから」と言う。
「暑くていい……熱く、あつ、く……してよ」
「分かった、熱くしよう……な」
リモコンに腕を伸ばして、空調を切る。ピッという短い音がして、それまで静かに響いていたファンの音が消えた。もう、お互いの音しかこの部屋には響かなかった。
20110529