ゆっくりとひとつずつ、増えていった。まるで、その事自体を楽しむかのように。
現にザックスも、そしてアンジールも、その都度小さな幸せを噛み締めていたのだ。
ザックスはアンジールの部屋に生活の拠点を移した。自身の部屋はそのまま物置状態となったが、どうせまだ荷物も残っているし、今日みたいに同期の仲間達数人と集まって喋ったり飲んだりする場所には丁度良かった。
生活雑貨等の荷物が減った所為で、幾分か小綺麗になった部屋を見て、「お前、以前はもっと汚かったよな」なんて失礼な事を言う友人。少しむくれた表情をしながら、「俺はやれば出来るんだよ」と言いつつも、心の中でクスリと笑ってしまった。
話題の映画や店の情報、誰某の恋愛話からお約束の色めいた話題、下らない話題で真剣に盛り上がる。そして少しだけ仕事の愚痴も。今日は遠征中の携帯食について、「もう少し種類を増やして欲しい。あと、味の向上は重要課題」というものだった。確かに正直、美味しくはないのだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。気付けば、間もなく日付が変わろうとしていた。
「俺、朝早いんだよな……」
「あっ、俺もだ」
ひとりの言葉を合図にして、今夜の会は少し早めのお開きとなった。同期と言えども、こうしてお互い時間の都合が付く時は余りない。その証拠に、一番仲の良いカンセルは一昨日から短期の遠征に出ていて、今日この場は欠席だ。残念ながら仕方がない。そして会のお開きは、楽しかった分だけ少し名残惜しいのも事実。
「ザックス、またな。今夜はサンキュ」
「んじゃ、お疲れー」
ひらひらと手を振りながら、皆それぞれの部屋へと向かう。
「おうよ、お疲れー」
友人達を見送りながら、僅かに体がフワフワするのを感じた。少し、飲み過ぎてしまったのかもしれない。幸い自分は、明日はオフ。部屋のテーブルに残された幾つもの空き缶の中身を洗い、トレーの上に散らばったつまみの残骸を処分して、僅かな洗い物を手早く済ませる。
「これで良し、と」
ザックスは今一度、部屋を確認する。そして、静かに部屋を出た。
通い慣れた通路。さすがに妙な緊張感は感じないようになったが、それでもやっぱり1st専用の居住フロア独特の雰囲気には、身が引き締まる気がした。
目的の部屋の前で立ち止まる。壁に取り付けられているパネルに触れると、カチャリとロックが解除される音が聞こえた。内側から開かれるドアの隙間に、ザックスはその身を中に滑り込ませた。
「ただいま」
最近漸く慣れた彼への「ただいま」、それでも胸の奥がきゅんとして、何処かこそばゆい。
アンジールはそんなザックスの気持ちを感じ取ったのか、その大きな掌で目の前の頭を優しく撫でた。
「おかえり、ザックス」
滑らかな額にキスを落とすと、ザックスが嬉しげに目を細める。短く抱き締め合って、ふたりはリビングへと入った。ローテーブルの上に置かれたグラスには、琥珀色の液体が少し入っている。
「皆とは楽しめたか?」
ソファに座りながら、アンジールが話しかける。
「うん!! あんな風に過ごしたのは久し振りだったしね。バカ話で盛り上がった」
そのバカ話の内容を思い出したのか、ザックスはひとりクスクスと笑い出す。そんなザックスに、アンジールは「良かったな」と笑って、そのままふわりと抱き締めた。唇を寄せた頬はほんのりと上気して、耳も僅かに赤い。そして、フルーティーなアルコールの香り。
「結構、飲んだだろ」
「え!? 何で、」
ザックスは何故か慌てたようにアンジールから体を離すと、訳もなくあたふたする。そんな彼の頬に、アンジールの指先が触れた。
「赤くなってる。それに、」
アンジールの顔が傾いたかと思ったら、そっと唇に彼の唇が押し当てられた。舌先が口内を優しく一舐めして、静かに離れた。
「甘い匂いと味がする……」
ザックスの顔を覗き込むようにして、アンジールが蒼い双璧を細めた。その様が妙に色気に満ちていて、ザックスは恥ずかしさにその頬を一段と赤く染めた。
「あっ……えっと、ちょっと……いつもより飲んだ……かな」
確かに、いつもより飲んだとの自覚はある。飲んだものは、アルコール度の大して高くないサワーやら甘いワインやら。それでも友人達と楽しく会話をしながら飲んだので、知らず知らずのうちにそこそこの量は飲んでいたのだ。
ザックスはそんなにアルコールに強い訳ではない。それとは対照的に、アンジールは強かった。ザックスと一緒の時はそんなに量は飲まないものの、彼がアルコールに強い事は自然と分かった。今夜だって、あのグラスの中身の琥珀色は、ザックスには到底美味しく飲めない度数のものだ。ザックスと一緒にいる時は大体同じものを飲むのに、こうしてひとりでいる時はザックスの飲めないものを飲むのだ。
それがほんの少し寂しくて、同時に大人の彼を感じて胸がドキリとして。ザックスは密かに切なくなったりもした。
今だって、そうだ。
グッと抑え込もうと思った感情が、ジワリと大きくなって頭をもたげる。
『俺、やっぱり酔ってるんだ……』
表に出すまいと思っていたのに、ザックスはその瞳の表面を揺らした。
「全くお前は……」
アンジールは恥ずかしさで僅かに抵抗するザックスを、やんわりとソファの上に押し倒した。
「だって、一緒が良いんだ……」
「無理に一緒にしなくても、良いじゃないか」
「…………」
「でも、何だか嬉しいな」
アンジールは、ちゅっとザックスの唇にキスをした。触れては離れて、何度も繰り返されるキス。気持ちを落ちつかせるような、優しいキス。
「それにな、ザックス」
赤く染まった両頬を、優しく両手で包まれる。見上げてくる碧い瞳はこの上なく澄んで、そして微かに潤んでいた。瞬きする度に、目縁を綺麗に縁取る長めの睫が揺れて、その様はまるで蝶が羽を羽ばたかせているようだった。
アンジールは愛しさと優しさを込めて言った。
「お前が知らない事を、ひとつずつ教えたいんだ。ひとつずつ知って、覚えて欲しい……」
ザックスが無言で小さく頷く。アンジールは嬉しげに微笑んだ。
「俺もお前の事、もっと知りたい……そしてもっと、覚えたい」
頬に寄せられた唇は、そのまま耳元から滑らかな首筋へ。薄い皮膚を緩やかに吸うと、頭上から短い声と熱い吐息が零れ落ちた。
いつしかザックスの腕は、アンジールのシャツを握り締めていた。すると、首筋に濡れた生温かい感触。
「んっ!! あ、あのっ……アンジー、ルッ」
ちゅっちゅっと音を立てながら、唇が首筋を辿る。
「何だか今夜は、甘くて良い匂いがするのな……」
アンジールが息を吸い込むのが分かった。ザックスは途端に顔を真っ赤にした。皆と集まる前に軽くシャワーを浴びたものの、それはもう数時間も前の事だ。
「やっ、ちょっ……と、待っ」
ザックスの腕がアンジールの胸を叩いた。アンジールは名残惜しそうに、首筋から顔を上げた。
「何だ? どうした」
「俺……、風呂入ってくる」
「は?」
「だって……その……、汗かいてるし」
喋れば喋る程、ザックスは恥ずかしさが込み上げた。匂いを気にするなんて妙に女々しいようで、でも酷く恥ずかしくてどうしようもないのだ。これも、アルコールの所為なのか。
突然、ギュッと力強く抱き締められる。アンジールの熱を帯びた声が耳を掠めた。
「ザックス……お前、」
「え?!」
「……堪らないな」
そして唇を塞がれた。微かに異なるアルコールの味がして、それが妙に心をざわめかせる。背中を撫でられて舌を緩く吸われる度に、胸の奥がキュンとした。
『ん……』
このままふたりで、もっと酔ってしまおうか。
そんな事を頭の片隅で思ったら、静かに唇が離れた。顔を覗き込まれる。ザックスは恥ずかしさで赤くなっているであろう、自分の顔を見られたくなくて顔を反らそうとした。でも、出来なかった、目の前の彼の蒼い瞳が、とても幸せそうに、そして嬉しそうに細められていた。
ザックスは静かに瞼を閉じる。そして、うっすらと唇を開けた。
静かに優しく肌を重ね、ふたりは眠りに就いた。
初めて抱いた時と変わらない。ゆっくりと回数を積み重ねても、良い意味で慣れる事なく、すれなかった。相変わらずザックスは恥じらい、時には羞恥で泣きそうな顔になる。その顔さえも愛しくて、アンジールは微笑みながらなだめ、ザックスを抱き締めた。
全てを見られる恥ずかしさと、確実に訪れる快感への期待。アンジールによって与えられる快感を、ザックスはその体に刻み込む。切なくて、時折ほんの少し苦しくて、でもどうしようもない程、嬉しくて。
アンジールの腕が自分を抱き締め、唇が肌を滑り、蒼い瞳が熱く自分を見つめる。自分だけが知っている彼だと思うと、体の奥が熱くなるのを止められない。
「好きだ」と囁かれて、嬉しくて子供のように頷く。本当に嬉しくて嬉しくて、嬉しすぎて思わず泣いてしまうものだから、その度彼は少し困ったような顔になる。でも、嬉しげな微笑みを浮かべる彼を見て、「どうしようもなく彼が大好きだ」と思った。
「なぁ、アンジール……」
「何だ?」
微睡みの中、ザックスはアンジールの温もりを感じていた。
「俺、良かった……」
そのまま広い胸元に頬を寄せて、囁いた。「アンジールに、会えて」と。
これからもずっと、恋をする。
いつまでもいつまでも、透明なままで。
20100719