静かだった。ただ、お互いの耳の奥で、自分の鼓動だけがうるさく響いていた。指先ひとつを動かすだけでも、何かが崩れてしまいそうで、その事にお互いが怯えているようだった。
ただ触れたいだけなのに、もっと触れたいだけなのに。どうして、こんなに苦しくて切ないのか。
きっとお互いの間に存在する、儚くも越えがたい何か乗り越えてしまえば、この苦しさと切なさから解放される。
でも。
もう、戻れないかもしれない。あの笑顔を見られなくなるかもしれない。この手で、彼を穢してしまうかもしれないという恐怖。
それでも。
「ザックス……」
アンジールが抱き締めていた腕を解いて、ザックスを覗き込むように見下ろす。僅かに潤んだ瞳で、そっとアンジールを見る。アンジールは優しく微笑んだ。横向きの彼の肩をそっと押して、ベッドに仰向けに返した。すうっと碧い瞳が自分を見下ろすアンジールを見つめる。朝の光に照らされて、キラキラと澄んだ透明な碧。こんなに綺麗な碧色はまさに奇跡で、この世の何処にも存在しないとさえ思った。それが目の前で自分を見つめている。
「…………」
そっと顔を近づけると、ザックスは碧い瞳を瞼の裏に隠した。唇に触れるだけのキス。すぐに離して、もう一度。すると、ザックスの唇がうっすらと開く。アンジールはそっと唇を舌先で舐めた。緩やかに、でも確実に深まる口づけに、ザックスは頭の芯がぼーっとしてくる。
「……ん」
ザックスの唇から微かな吐息が零れたのと、自分の顔の横に突いたアンジールの肘にそっと触れたのは同時だった。アンジールの手がザックスの頬に触れて、愛おしげに口づける。顎のラインを指が伝い、滑らかな喉元を撫でる。
「ぁ……」
鼻に掛かった声に惹かれるように、アンジールはザックスの唇に深く口づけた。その声を、吐息を、全て直接感じたかった。熱く濡れた口内を舐め上げると、ザックスは小さく体を震わせて、その指先をアンジールの腕に沈める。怯え戸惑う舌に触れて、緩く吸い上げると、喉の奥からくぐもった声が聞こえた。
ちゅっ。
音を立てて唇が離れると、ザックスは熱い吐息を漏らす。瞼の下から熱に潤んだ瞳が姿を現し、ゆらりとアンジールを見つめた。
「ザックス……」
触れる頬は熱くて、ほんの微かに胸元が上下している。
『あ……、どうしよ、う……』
ザックスは自分の体が分からなくなりそうだった。アンジールに口づけられて、そっと体を愛撫されて、その先を求めて熱くなるばかりの体を恥じた。ザックスは思わずきゅっと目を瞑った。両手で顔を覆うようにした時、手首を緩く掴まれた。
「あっ」
アンジールが自分を見つめていた。優しい笑顔で。ザックスは両腕を伸ばして、アンジールの首筋に回した。そのままぎゅっと抱き寄せると、自分の肩口にアンジールが顔を寄せるのが分かった。
耳元に彼の吐息。もっと、もっと感じたい。
アンジールはザックスの耳にキスをする。耳朶に触れながら、掌で肩のラインを何度も往復する。浮き出た鎖骨の形を確かめるように指先でなぞり、窪んだ部分を緩く押した。自分の首筋に回された両腕に、ぎゅっと力が込められた。
「…………」
アンジールはそっと体を起こして、ザックスの顔を見た。きつく閉じられた瞼、忙しく上下する胸元、微かに、でもずっと震えている体。アンジールは蒼い双璧を切なげに細めた。
ちゅっ。
こめかみにキスをされて、それを合図にしたようにザックスは目を開けた。アンジールと目が合うと彼は微笑み、掌でおもむろに頭をガシガシと撫でられた。
「え……」
きょとんとするザックスを優しく見つめて、そっと抱き締める。
「朝食、食べるか?」
「えっ……う、うん」
アンジールの指先が、ザックスの額に掛かる前髪をそっと退かす。
「米は炊いていないから、パンで良いか?」
「う、ん」
「よし、じゃあ作るか」
そのままベッドを降りたアンジールは、キッチンへ向かった。ザックスは起き上がって、寝室を出るアンジールの背中を無言で見つめた。やがて、キッチンから微かに水音が聞こえ始めると、ザックスは俯いてきゅっと唇を噛んだ。そのまま立てた膝に顔を埋める。
『良かったのに……』
あのまま抱いてくれても良かったのに。ザックスは心の中で、アンジールを小さく責めた。でも、何処か安堵している自分がいた。それが嫌だった。でも、どうしようもなかった。
大好きだけど、不安だった。同性に抱かれる事に。抱かれたいと思う事に。
『バカだ……』
情けなくて、ザックスは思わず拳を握り締めた。こんなに好きで堪らないのに。心で戸惑っていても体は悲しいほどに正直で、熱を持った自分の体の変化が疎ましい。
「俺……」
ザックスはじっと自分の掌を見つめた。自然な生理現象だと割り切ってしまえば、この手で自分の熱を鎮める事は何らおかしくなくて普通だ。でも、自分が求めているものは違う。彼に触れて欲しくて、彼に触れたくて。大好きだからこそ、心の奥底から思って止まない、たったひとつの思い。
彼と、ひとつになりたい。
ザックスは静かにベッドを降りた。
キッチンではアンジールが朝食の準備をしていた。コンロの上にはフライパンが乗り、ケトルからは湯気が上がり始めている。ザックスはそっと近付く。
「もう少しで出来るから、ちょっと待っててくれ」
気配で気付いたのか、アンジールは振り返らずに手を動かしたまま言った。小鉢にサラダを盛り付けている。ザックスはアンジールに両腕を伸ばして、後ろから抱き付いた。
「ザックス、どうした?」
アンジールが手を止めて振り返ると、腕にぎゅっと力が込められる。背中に額を押し付けたまま、ザックスが小さな声で言った。
「もう少し……さっきのままで、いよう?」
アンジールは驚きつつも小さく微笑んで、自分に回された腕にそっと触れた。そのままガスを全部止めて、沸いた湯をポットに移し、フライパンには蓋を被せた。
「これで良し、と」
振り返って、その体を優しく抱き締めた。俯いている顔は良く見えなかったけれど、その耳朶は真っ赤になっていた。
ふたりで寝室のベッドに逆戻り。ベッドに上がると、ザックスは自分からキスをした。
「ザックス……?」
アンジールの肌にその指先を辿々しく滑らせる。首筋から項、胸元と肩のライン。熱を持ったザックスの掌が、優しくアンジールの皮膚を撫でる。自分がして欲しい事を、無意識にザックスは行っていたのだ。アンジールはそんなザックスを無言で見つめた。やがて、ザックスがアンジールの手を掴んで、指先を組み合わせるように握る。
手を握る、それはザックスがとても好きな事だった。
「アンジール……、俺……どうしよ、う……。どうしたら、いい……」
ぽつりぽつりと呟く。顔を赤く染めて、今にも泣き出しそうな顔でアンジールを見つめる。アンジールの胸の奥がざわめいた。
「ひとつ、聞いても良いか?」
「え? な、何?」
顔を上げると、アンジールが困ったような顔で微笑んでいた。そして、静かに真摯に言った。
「お前とひとつになりたいと思う俺を……、お前は嫌だと思うか? おかしいと思うか?」
「うぅん……思わない」
「俺はお前がとても愛しくて、とても大事だ……大事にしたい……。なのに、抱いてしまいたいと思うんだ」
アンジールはそっと目を伏せる。その表情は少し苦しげで、ザックスの胸を締め付けた。
光溢れる部屋の中が、しんと静まり返る。
「アンジール……、それはちょっと違う……」
「え?」
ザックスが頬を染めて微笑む。
「……『なのに』じゃなくて、『だから』だよ」
言い終えるや否や、ザックスはアンジールに抱き付いた。そして、まるで自分に言い聞かせるかのように叫んだ。
「嫌じゃないっ! おかしくないっ! 俺だって、俺だって……アンジールに抱いて欲しい、抱かれたいって……思うんだ……」
ザックスがそっと体を離して、アンジールを見つめた。その目尻に涙をうっすらと溜めて。そして、切なさと苦しさを押さえるかのように胸元に手を押し当てると、そっと瞼を閉じた。
「もう、我慢したくない……」
アンジールの腕が、ザックスを力強く抱き寄せた。
素直に、心が感じるままに、求めて良かったのに。
どうして、こんなに回り道をしてしまったのだろう。
お互いがお互いを思うあまりに、色々な感情に振り回されていたんだ。
でも、それらは全部、「好き」という気持ちがあるから生まれるもの。
切ない気持ちも苦しい気持ちも、全部「好き」に繋がっているんだ。
そうだよ。きっと、そうだよね。
20100522