pure 08


 瞼で覆われた瞳が小さく動く。綺麗に揃った、少し長めの睫がほんの僅かに震える。それはじっと息を凝らして見つめていないと、分からないほどの小さな小さな震え。
 ピクリ。
 小さく、でも今までの動きと比べると一際大きく、瞼が動いた。
 「……ん」
 閉じられていた瞼に、光の筋が入る。触れ合わせていた上下の睫がそっと離れて、奥から綺麗な碧色が僅かに顔を覗かせる。薄く開いては閉じて、また開いて。じれったいまでにゆっくりと時間を掛けて、瞼の下から碧色の瞳は朝の光の中にその姿を現した。
 視点が定まらないように、ザックスは暫しぼーっとしている。目を開けているのに、まるで視界に何も映っていないように。頬に触れる感触は、滑らかで心地良いもの。体を包み込み温かさは、起きるのが勿体ないくらい今暫く感じていたいもの。そして、微かな重みは……。
 『あ……れ、』
 「おはよう」
 ここが自分の部屋ではないと気付いたと同時に、アンジールの声がザックスの鼓膜を震わせた。自分を柔らかく抱き締め、覗き込むように見つめてくる彼は、もうかなり前から起きていたようだった。
 「お……おはよ」
 起き抜けの少し掠れた声を恥じながら、ザックスはブランケットに顔を埋めるようにする。何だか恥ずかしかった。きっとアンジールは、自分の寝顔を飽きもせずずっと見つめていたに違いない。「起こしてくれても良いのに」とも思ったが、彼の事だからそんな事をしないと分かっていた。
 寝起きを見られるなんて、初めてではないのに。任務中、移動車両の中でも何処でも眠ってしまう自分に、「そろそろ起きろ」と言われながら起こされるのはもう何度も。でもそれはあくまでも、任務中の話。今回は状況が違う。
 ここはアンジールの部屋で、アンジールのベッドで、こうして一緒に寄り添って、一晩中お互いの温もりや呼吸を感じながら眠ったのだ。「おやすみ」という彼の囁きとキスを、眠りの淵で感じたのを微かに覚えている。凄く、満たされた眠りだった。
 寝起きの頭であれこれ考えていると、アンジールの掌が頭を撫でる。ザックスは知らず知らずの内に微笑む。この感触が大好きだった。
 「良く眠れたか?」
 「うん……とても」
 ザックスの前髪を後ろに流しながら、アンジールは「だろうな……、あんな事したのに起きずに寝てた」と意味深な事を言いながらクスリと笑う。
 「……何したんだよ」
 ザックスは頬を膨らませながら、ブランケットをぎゅっと握った。でも、アンジールにその手を取られて、仰向けに返される。彼の顔が近付いてきたと思ったら、唇に口づけられた。
 「んっ……」
 いつもより触れる肌が温かいのは、ついさっきまで眠っていた所為なのか。アンジールがザックスの唇を小さく吸って、舌先で歯列をなぞるとザックスの鼻に掛かったような吐息が漏れた。
 「……はぁ」
 「もう少し、軽いものだったが、な」
 寝ている間にされたキスの事を言われて、ザックスは頬を赤くした。「おはようのキス」を何だか情熱的に感じてしまって、実際はそうでもないのにザックスは酷くドキドキしてしまった。
 『アンジールのバカ』
 心の中でそんな事を呟きながらも、本当は物凄く嬉しくて堪らなかった。だって、目覚めたら大好きな彼がすぐ隣にいて、こうして「おはよう」と言ってくれて、キスをしてくれるなんて。
 ずっと、ずっと朝がこうなら良いなと思う。明日も明後日も、ずっとアンジールの隣で眠りについて、そして目覚めたいとザックスは温かなベッドの中でそう思った。
 「今、何時頃?」
 「九時過ぎだ。腹減ったか?」
 少し笑いながら、アンジールの掌がザックスの腹部をするりと撫でる。空腹ではなかったけれど、寝ている間に乾燥してしまった喉を水分で潤したかった。
 「いや、平気。ちょっと喉乾いた」」
 ザックスが言うと、「ちょっと待ってろ」とアンジールがベッドから降りる。寝室を出て、キッチンへ向かった。ベッドはギシリと小さく音を立てて、ひとり分の重みが減る。ザックスはシーツをそっと撫でた。
 アンジールがトレーに、グラスとボウルらしき物を乗せて戻ってきた。サイドテーブルにトレーを置いて、起き上がったザックスにグラスが手渡された。冷えた水は微かにミントの香りがする。ザックスは「へぇ……」と新鮮に思いながら、喉を潤した。アンジールは半分ほど開けていたカーテンを、全て開ける。眩しいまでの朝の光が、キラキラと室内に溢れた。
 「それ、何?」
 再びベッドに上がったアンジールにグラスを手渡しながら、ザックスはボウルを指差す。
 「苺だ。食べるか?」
 「あ、欲しいかも」
 アンジールが頷きながらグラスの中身を飲む。自分が手渡したグラスに、彼が自然に口を付ける。何でもない事が、今朝は何だかとっても嬉しくて少しくすぐったい。
 ボウルの中には、少し小振りの苺が入っていた。ザックスは「何だか可愛いな」と呟きながら、手を伸ばす。するとアンジールはザックスの前からボウルをそっと除けた。
 「あーっ!! 何でっ?」
 抗議の声を横に、アンジールがひとつを摘んでヘタを取る。指先で摘まれた赤い小さな果実は、そのままザックスの口元へ。
 「え……」
 無言で微笑みながら、自分の口元へ苺を差し出すアンジール。ザックスはにわかに頬を染めた。甘酸っぱい香りが微かに鼻腔を掠める。
 「ほら」
 促されて、ザックスはアンジールの摘んだ苺を口に含んだ。冷えた果実を噛むと、瑞々しさと苺の甘酸っぱさが口内に一気に広がる。アンジールの掌がそっとザックスの頬を一撫でした。
 「苺を食べるお前が、可愛い」
 「なっ、何だよ、それ……、バカにしてんのか?」
 ザックスは拗ねたような恥ずかしがっているような、何とも言えない微妙な顔をしながらアンジールを少しだけ睨んだ。
 「俺がお前をバカにする筈ないだろ? そう思っただけだ」
 先程より上気した頬に、アンジールはちゅっとキスをした。
 苺という何とも可愛らしい果実を食べるザックスが、アンジールにはこの上なく本当に可愛く映ってしまったのだ。しかし、可愛いだけではなかった。小さな苺を自分の指先から唇で受け取る。可愛さに、どこか危うさを秘めた色気を帯びて、それら相反する二つが同時に存在する事にアンジールは頭の奥がジワリ熱くなったのだ。
 「は、恥ずかしいだろ……」
 ザックスは照れ隠しと言わんばかりに、ボウルの中身の苺を食べる。でも、さすがに自分ばかり食べるのも申し訳ないので、そっとアンジールに差し出す。彼が自分にそうしたみたいに。指先の苺が彼の口内に入り、僅かに覗いた舌先の熱さを感じた。濡れた熱さ。
 「苺、好き?」
 自分の口元を見つめながら言うザックスに、アンジールは「好きだ」と言いながら口づけた。
 『俺も、好き』
 口づけは甘酸っぱくて、ザックスは胸の奥がきゅんとした。


 空になったボウルが、コトリと音を立ててサイドテーブルに置かれた気がする。目を閉じているから分からないけれど、そんな気配がした。
 ちゅっ。
 小さな音を立てて唇が離れた。でもすぐに再び塞がれて、そのままベッドに押し倒された。アンジールの手が、ザックスの両頬に包み込むように触れて、サラサラと髪の毛を梳く。
 「ふっ……ぁ、ん」
 漸く唇が離れたと思ったら、ザックスは思わず小さいながらも声を上げてしまった。その声が妙に色めいていたものだから、アンジールが耳元でそっと「色っぽいな」と囁いた。
 「ッ!!」
 ザックスは顔を真っ赤にして、思わず背を向けてブランケットを頭から被ってしまった。
 『何て声出してんだ、俺……っ』
 自分でも思った。でも、アンジールに指摘されてしまった事が、更にザックスを恥ずかしがらせた。胸が酷くドキドキする。顔が熱い。きっと耳も赤くなっていて、見られたらそれも指摘されるに違いない。そう思うと居たたまれなくて、ザックスは被ったブランケットをぎゅっと握り締めた。
 「ザックス」
 アンジールの呼び掛けに、返事はない。
 「ザックス……」
 アンジールはそっとブランケットを捲る。髪の毛の間から覗く耳は赤みを帯びていて、それが予想通りで小さく笑う。そのままブランケットごと背中から包み込むように、ザックスを優しく抱き締めた。
 「怒ったか?」
 「…………」
 自分を抱き締める腕に、少し力が入った。
 「すまなかった」
 『あ、』
 耳の後ろに、ちゅっとキスされる。小さな音が、やけに大きく聞こえた。
 「機嫌を……直してくれないか?」
 『んっ……、ぁ』
 首筋に彼の吐息を感じる。唇が肌に触れるか触れないかの距離は、何だかとてもくすぐったくて、そしてもどかしい。項をつつと指でなぞられて、髪の毛を下から上へ掻き上げられる。背筋がゾクリとした。それは不快なものではなく、不思議と心地良かった。
 何度も自分の名を呼ばれる。耳朶にキスをされて、唇で挟まれると体の中心が切なくなる。こめかみやその周辺を緩やかに愛撫されて、ザックスは密やかに体温を上げた。


 『ザックス……』
 自分の腕の中でブランケット越しでも、アンジールには彼の変化が分かった。顔を覗き込むと瞼を閉じているものの、切なげに眉を顰めて、僅かに開かれた唇からは熱っぽい吐息が零れ始めた。触れている肌も、うっすらと色付いて熱い。声にすらならない声を上げ、微かに身動ぐ。
 『クソ……ッ』
 アンジールは後悔していた。よもや、ザックスがその体をこんなに艶めかしくさせるとは、思ってもみなかったのだ。恥ずかしさ故に拗ねてしまった彼に機嫌を直して欲しくて、抱き締めてキスをして、じゃれ合うように触れようと思っていたのに。いつしか、その肌の上に本気で唇を滑らせていた。みるみるうちに変化する体に、彼に「もっと触れたい」という思いが強くなるばかり。誰よりも何よりも愛おしくて、大事に大事にしたいのに。
 もっと触れて、抱き締めて……、
 『抱きたい』
 アンジールは自分の鼓動が早まるのを感じた。耳の奥でドクドクとうるさい音を打ち消すかのように、ザックスを抱き締める腕に力を込めた。


 『ど、どうしよ……』
 ザックスは泣きそうになった。この胸があまりにもドキドキして、今にも破裂してしまいそうだった。恥ずかしいけれど、とても恥ずかしいけれど、自分に触れるアンジールの唇や指先を、どうしようもなく求めてしまう。熱い熱い、体。切なさを含んだ熱さに、ザックスはその身をひとり静かに焦がす。この熱さを、どうしていいのか分からない。でも、彼ならきっと鎮めてくれる。
 『お……俺、』
 もっと触れて、抱き締めて……、
 『抱かれたい』
 ザックスはぎゅっと目を瞑る。同性である彼に「抱かれたい」と思う自分の気持ちに戸惑いを感じつつ、この心と体が彼を求めて止まない。ただ、この体の内で広がる愛しさと熱だけが、真実だった。


 戸惑い揺れる気持ちを胸に、でもどうにも出来なくて、お互いが無言の内に時間だけが静かに流れた。
 背後から抱き締める。抱き締められる。
 朝の光の中、長い時間いつまでも、ふたりは動けずにいた。




 20100504