自分の目の前の彼が、とても愛おしい。
さっきからずっと、手にしたカップの中身を覗き込んだり、傾けたりしている。もう中身は殆どない筈。窺うようにそろりと上がった視線に、自分の視線を重ねたらすぐにさっと反らす。
『そんなに緊張しなくても……』
空の色にも似た、碧い瞳が瞬きをする。忙しなく動いたかと思えば、そっと瞼の裏にその姿を隠したり、またゆっくりと辺りを見回したり。意味もなく彷徨う視線。額に掛かる髪の毛が風にそよぐ草みたいに揺れて、頬は恥ずかしげにほんのりと色付いている。髪の毛から覗く耳朶も、心なしか赤い。薄紅の唇が言葉を探すように、薄く曖昧に開かれていた。
触れてみたくなった。
アンジールはローテーブル越し、向かいに座るザックスにそっと腕を伸ばした。俯いている彼の頬にそっと掌を添える。ピクリと小さく震える体。掌から彼の緊張が伝わってくるようだった。
「ザックス」
触れた頬が思った以上に熱くて、でも心地良くてずっともっと触れていたいと思った。
リビングのソファは今は背もたれ代わりとなっていた。ソファには座らず、ラグマットの上でふたりはそっと寄り添うように座っていた。
ザックスは自分の右隣に座るアンジールの肩に、頭を預けるように凭れた。手は、キスをした時からずっと繋ぎ合ったまま。少しだけ力を入れてきゅっと握ると、すぐにアンジールが握り返してくれて、それが何だかとても嬉しかった。自分の右半分がとても温かくて心地良くて、ドキドキするけれどやっぱり嬉しかった。
ザックスは繋いでいるアンジールの手をじっと見つめる。
「俺の手がどうかしたのか?」
気付いたアンジールが、ザックスの顔を覗き込むようにして聞いた。そっと反対の手で、彼の額に掛かる髪の毛を退かす。髪の毛の生え際が綺麗な額が現れて、吸い寄せられるように小さくキスを落とした。視線の少し下にある碧い瞳が嬉しそうに瞬く。
「この手で、あの大きな剣を振るうのだと思うと……凄いなって」
自分の指と組み合わせるように繋いだ指は、男性らしく太く、でも節がスッと綺麗に浮き出ていた。自分より大きくて、強く逞しい掌。部分的に皮が厚くなっているのは、剣の柄を握り締めるから。同時に彼がどれ程、剣を使ってきたかを物語っていた。
でも、同時にとても優しくて温かい掌だった。いつだったか、初めてアンジールに頭を撫でられた時、とても嬉しかったのを良く覚えている。いきなり頭を撫でられた事に不思議と嫌悪感などはなく、驚いたものの嬉しかったのだ。それはまるで、小さい時に父親に褒められた時の事にも似ていて。
「お前も、いつか振るえるようになるさ」
「ホントに? いつか、持たせてくれる?」
瞳をキラキラと輝かせながら、脳裏にアンジールの剣を握る自分の姿を思い浮かべた。
「あぁ、持たせてやる。それまで、頑張れよ」
「うん」
頷いたザックスの笑顔があまりにも可愛らしくて、アンジールは何度目か分からないキスをその唇に落とした。そのまま啄むようなキスを繰り返して、頬にちゅっとキス。いつしか繋がれていない方の腕でザックスを抱き締めるようにしていた。
「なぁ、アンジール」
ザックスが繋いでいた手を解いて、アンジールの背中におずおずと腕を回す。アンジールは両腕で、改めてザックスを抱き締める。お互いが一番近くにいて、相手の息遣いしか聞こえてこない。
「俺……、頑張るから」
「あぁ」
「だから……、ずっと見てて」
「勿論。ずっと見てる」
ぎゅっとしがみつくように、ザックスはアンジールに体を寄せた。胸に溢れる「好き」という気持ちと、彼の体温と匂いを感じながら、その心地良さに目を閉じる。アンジールの手がザックスの背中を、あやすように落ち着かせるように静かに撫でる。
「ザックス……」
アンジールの呼び掛けにザックスが肩口から顔を上げた。そのこめかみに、ちゅっと音を立ててキスをされると、ザックスはサッと頬を赤く染めた。
「ここ、赤い」
ふわりと頬を撫でられると、ザックスはその顔を隠すように再びアンジールの肩口に、顔を押し付けるように埋めた。アンジールは微笑みながら、腕の中のザックスの体を愛おしげに抱き締める。
『好きだよ、好きだよ……大好き』
胸の中で何度も何度も言いながら、ザックスはアンジールの背中に回した腕に力を込めた。
「……ん」
ザックスはゆっくりと目を開けた。見慣れない緑色が飛び込んでくる。指先には柔らかな感触。
「……えっ!!」
ガバッと音がせんばかりに飛び起きた。同時に掛けられていたブランケットが体の上からパサリと落ちた。
『えっ!? 俺、寝ちゃった……!?』
ここは間違いなくアンジールの部屋。一体どのくらい寝てしまったのだろうか、全く見当が付かなかった。でも、窓の外はもう夕方を通り越して夜だった。ザックスが時計を確認しようと、部屋の中を見回した時。
「起きたのか?」
アンジールがリビングにやってきた。彼はエプロンを着けている。
「えっと……ごめん、俺、寝ちゃったみたいで。今、何時?」
「もうすぐ19時だ。夕食作っているから、もう少し待っててくれ」
そう言えば、さっきからとても美味しそうな良い匂いがする。ザックスが思わず鼻をクンッと鳴らすと、「今日はロールキャベツにしたんだ」とアンジールが笑う。
「俺も手伝う、ホント……ごめん」
アンジールと抱き合っていて、そのまま寝てしまった事に申し訳なさと同時に恥ずかしさが込み上げる。触れ合っている温もりが物凄く心地良くて、つい目を閉じたら知らず知らずのうちに眠ってしまっていたのだ。
「気にするな。それにしても……」
「ん?」
アンジールの手がザックスの頭を撫でる。そのまま耳元に顔を寄せられて、「可愛いのな、お前の寝顔」と悪戯っぽく囁かれた。
「えっ! ちょっ……、何言って……」
遠征中などに寝顔なんて見慣れている筈なのに。例え揺れるヘリの床でも、硬い地面の上でも、気付けばどこでも眠れてしまうザックスに感心した事は一度や二度ではない。そうやって見慣れている筈なのに、そういう時とは全然違う。当たり前ながら違っているのだ。
眠ると言ってもいつでも起きられるように、絶えず神経を張り詰めているような状態のそれとは違う。さっきまでのあどけなくて、とても無防備な寝顔は年齢相応の、でもどこか幼ささえ感じられて可愛らしかった。
「その様子じゃ、覚えていないな」
「な、何!? 何をっ!!」
アンジールの意味深な言葉に、ザックスは面白いようにあわてふためいた。そんな彼を横目に、アンジールはキッチンへ戻る。
『思わずキスしたんだが……』
抱き付いたままのザックスから、いつしか規則正しい寝息が聞こえてきた。小さく呼び掛けても、そっと体を揺すっても起きない彼を、アンジールはラグマットの上に横たわらせた。上からそっとブランケットを掛けやると、ザックスは無意識の内に顔を埋めるような仕種をした。
アンジールは暫くそんなザックスの様子を見つめていた。日々の任務や訓練で体は疲れているのだろう。休める時には休ませてやりたかった。
やがてザックスが、小さく声を上げて寝返りを打つ。ブランケットが体からずれる。
正直、目の前で無防備に眠る彼の晒された首筋に、鬱血の跡を残してみたいと思った。滑らかそうな肌に指を這わせてみたいと思った。でも、それ以上にザックスが大事で仕方なかった。
『俺も何処まで、我慢出来る事やら……』
自分がある程度年齢を重ねていて良かったとまで思ったりして、アンジールは思わず苦笑してしまった。
コンロの上で湯気を上げている鍋のフタを取る。一際大きな湯気が上がって、ロールキャベツが姿を現した。今日のロールキャベツはとても美味しそうに仕上がった。ふたりで食べると、更に美味しくなるに違いない。
「ザックス、出来たぞ。盛り付けを手伝ってくれるか?」
ブランケットに顔を埋めながら、まだ座り込んだままのザックスにアンジールは楽しそうに声を掛けた。
「どうだ?」
「凄く美味しい! アンジールって料理上手いよな。それにこんなロールキャベツ、初めて」
テーブルに向かい合って座りながら、ふたりで夕食のロールキャベツを食べる。ロールキャベツと言っても、種となる挽肉をキャベツ一枚ずつで包むのではない。中心の種となる挽肉からキャベツ、挽肉、またキャベツと、交互に包んで大きな一つのロールキャベツを作る。最後は紐で十字に縛って鍋で煮込む。出来上がったロールキャベツを包丁で切ると、挽肉とキャベツの層が幾つも重なったものが出来上がるのだ。今日はスープを、いつものコンソメベースからトマトベースにしてみた。
ザックスが嬉しそうに言う。
「俺さ、トマト味好きなんだ。だから余計に美味しい」
「そうだと思って、トマトベースにしたんだ」
「そうなの?」
アンジールの言葉に、ザックスは思わず手を止めた。俺、トマト味が好きだって事、アンジールに話したっけ?
ザックスの言いたい事を察して、アンジールは微笑む。
「お前、食事をする時、トマト味のものを頼む事が多いだろ。だから、好きなんだろうなって」
確かにそうかも知れない。食堂のランチでもパスタがあるとトマトソースを頼むし、ハンバーグにはケチャップを追加で掛けるし。でもこうやって指摘されると、それはそれで何だか酷く恥ずかしい。
「何か、恥ずかし……子供っぽいよな、味覚が」
ザックスは食事の手を止めた。その目はじっと、皿の中のロールキャベツを見つめている。トマトスープに沈むロールキャベツ。柔らかく煮込まれたキャベツは、甘くて柔らかくて美味しい。
「気にするな。俺もトマト味が好きだしな。それに、」
カツンと小さな音を立てて、アンジールはフォークを置いた。
「お前が好きなもの、一つずつ知りたい」
蒼い双璧を細めて、目の前のザックスを見つめた。そっと顔を上げたザックスが、少し気恥ずかしげに笑う。
「う、ん……俺も知りたい。アンジールの事、もっと……」
その瞬間、アンジールは胸の奥がドクリと音を立てたような気がした。
『お前はそうやって唐突に、俺の心を乱すような事を平気で言ってくれるのな』
決してそれを嫌だと言っている訳でも、止めろと言っている訳でもない。むしろ、心地良い刺激として大歓迎だ。
俺はお前にドキドキさせられるのが、大好きだったりするんだ。
皿の中身を空にしていくザックスを見つめながら、アンジールは自身も食事を再開した。
「朝一で合同演習なんだ。アンジール、参加しないんだろ?」
玄関でザックスはブーツのジッパーを閉めながら尋ねた。
「あぁ、明日は朝から会議だ。まぁ、来週からの遠征の打ち合わせだな」
「早く終われば良いね」
長引く会議は無駄以外の何者でもない。
「どうもご馳走様でした! ありがと、美味しかった」
「それは良かった」
「何だか……寝ちゃってごめんな」
「休める時には、きちんと休む事も大切だ。気にするな」
頭をガシガシと撫でられる。こうされるとちょっと胸がこそばゆくて、でも心地良くて大好きだ。
「うん、ありがと」
ザックスが心なしかソワソワしている。ブーツの爪先で床をコツコツ叩いてみたり、パーカーの裾を握ってみたり。
『そういうところが……全くお前は』
アンジールは小さく息を吐く。気付かれないようにクスリと小さく笑いながら。
「ザックス、どうした?」
「あっ、うん……あのさ……また、来て良い?」
「勿論、いつでも来い」
アンジールの言葉に、ザックスは嬉しげに笑った。そんな彼を見ながら、アンジールは思う。お前がここから出掛けて、ここに帰ってくるようになれば良いな、と。
「それから……あの、さ」
「うん?」
自分を見つめる蒼い瞳は優しくて、胸の奥が甘く切なくきゅんとした。ザックスは拳を握る。あのさ……。
「帰る前に手……繋いで、くれる?」
「……嫌だ」
「え」
予想もしなかったアンジールの言葉に、ザックスの動きが止まる。そして次の瞬間、その瞳が悲しそうな色を宿す前に、体が抱き締められていた。
「手を繋ぐより、こうしたい」
ザックスの髪の毛に顔を埋めるようにして、その体を両腕で抱き締める。ぎゅっと抱き締める。
「アンジール……」
ザックスはアンジールの腕の中で、「うん、俺も」と囁いた。
『帰したくない』
『帰りたくない』
でも。
焦らなくても大丈夫。焦る必要なんて何処にもない。ふたりの時間は今日だけではなくて、明日も明後日もずっとあるのだから。
この胸はずっとドキドキしっぱなしで、時々自分でも情けないくらいに臆病で、それでも大好きで大好きでどうしようもないんだ。
静かにお互いの体を離して、見つめ合う。アンジールの顔が動いたのとザックスが瞼を閉じたのは同時で、「また明日」のキスを交わす。
「……ん」
ザックスが鼻から抜けるような声を漏らした。
「おやすみ」のキスも「おはよう」のキスも、その花弁のような唇に毎日あげたいとアンジールは思いながら、重ね合った唇の感触に暫し酔い痴れた。
20100318