pure 03


 ザックスは自室のベッドの上で、見慣れた天井を見上げていた。時刻は間もなく午前一時。アンジールの部屋と比べると格段に狭く、しかもごちゃごちゃと乱雑な部屋。
 ザックスは片付けが得意ではなかった。取り敢えず、「何処に何がある」を自分が把握していればそれで良かった。それとは対照的にアンジールの部屋はスッキリと片付けられていて、驚くと同時に居心地の良さを感じた。それは、「片付けられている」という理由だけではなかったが。
 窓の外から明かりが消える事はない。眠らない都市、ミッドガル。夜でも人工の明かりが溢れる。部屋の中は薄明るい。ベッドサイドの照明が、ザックスの顔半分を小さく照らしていた。
 「…………」
 そっと指先で唇に触れながら、昼間のキスを思い出す。アンジールの優しい唇の感触が、ザックスの唇に蘇る。舌先で唇を小さく舐められて、差し込まれた舌が自分のそれに緩やかに絡まった。そっと小さく吸い上げられて、喉の奥が鳴ってしまった。お互いの口内を探るように辿り、生温かさに酔い痴れた。歯茎を舐められた時の、何とも言えないあの感触。背筋が甘く痺れて、気持ち良かった。
 知らないキスを、教えてくれた。
 「初めてじゃないのに……、あんなのは初めてだ」
 ザックスは胸の奥がきゅんとした。頬が微かに火照るのを感じる。きっとそれはシャワーを浴びた後だから、なんて自分に言い訳してみるけれど。もう分かってる。アンジールとのキスを思い出して、体が火照っているのだ。
 この時間はさすがに日中と比べると静かだった。それでも時折、何処からともなく物音が聞こえてきたりする。天井も壁も大して厚くはないのだろう。
 ザックスは体を横向きにする。足元ではブランケットが、今にもベッドから落ちそうになっていた。額に洗いざらしの前髪が落ちる。そっと指先で払うと、アンジールがそうしてくれる時の事を思い出した。自分の額に掛かる前髪を、そっと退かしてくれる時の彼はいつも優しい笑顔だ。
 「初めて……、か」
 ザックスは静かに瞼を閉じる。そして思い出す。アンジールと初めてキスをした時の事を。


 あれは前回、初めて彼の部屋を訪問した時だった。
 とても緊張した。まず、1st専用の居住フロアに2ndの自分が来るなんて、夢にも思っていなかった。アンジールが自室のドアを開けて、中に入るように促した。緊張からなのか、それとも変な遠慮からなのか、思わずザックスは躊躇うような素振りを見せた。
 「遠慮するな」
 アンジールが自分の後ろから声を掛ける。
 「う、ん」
 それでもザックスは、自分の足元を見下ろしたままだった。格好悪いと思いつつ、どうして良いのか分からず体が動かなかったのだ。
 「入りにくいのか?」
 そう言いながらアンジールが先に入り、ザックスを振り返る。漸くザックスが一歩進んで中に入ると、後ろでドアが静かに閉まる音がした。
 「お……、おじゃま……します」
 辺りを見回しながら、ザックスが律儀に挨拶をする。アンジールはそんな彼の姿に、微笑ましい気持ちになった。
 「さぁ、どうぞ」
 短い廊下からリビングへ入る。
 「凄く、広、い……」
 自分の部屋より、格段に広い部屋。これが1st専用の部屋なのかと、ザックスは驚きの余り声を出さずに立ち尽くす。
 部屋全体がスッキリと綺麗に整えられている。そして何よりザックスが驚いたのは、緑が多い事だった。観葉植物の鉢植えが、部屋のあちらこちらに置かれていた。緑が溢れる部屋。良いなと思った。自分の故郷も、緑に溢れる場所だから。
 「ザックス、コーヒーで良いか?」
 「あ、うん」
 物珍しそうに部屋を見回すザックスにクスリと笑いながら、アンジールは湯を沸かし始めた。
 「なぁ、アンジール」
 「何だ?」
 キッチンから振り返ると、ザックスは鉢植えを覗き込み、緑色のツヤツヤした葉に触れている。
 「植物、好きなの?」
 「あぁ。見るのも育てるのも好きでな……趣味みたいなものだ」
 実際そうだった。実家の庭には、色々な花や葉が一年を通して賑やかに咲いていた。母親が好きなのだ、土をいじり植物を育てる事を。幼い頃からそんな環境で育ったので、自分も知らず知らずのうちに植物を育てるようになっていた。今でも時折、園芸雑誌などを買ってみたりする。親友で同郷のジェネシスからは、「年寄り臭い趣味だ」なんて言われた事もあったが。
 「へー、そうなんだ」
 ザックスは部屋の中の鉢植えを、ひとつひとつ見て回る。全体が細くて繊細なものもあれば、葉の一枚一枚が肉厚なもの、花はないのに良い香りがするものなど色々だ。時々知っているものがあって、少し嬉しくなったりした。
 「ザックス。ほら、コーヒー入ったぞ」
 ふたつのカップを持ちながら、アンジールがリビングにやってくる。ローテーブルに静かにカップを置いて座る。フローリングの床には、深い緑色をした毛足の長いラグが広い範囲で敷かれていた。ザックスがローテーブルを挟んでアンジールの向かいに座る。
 「何だか、草の上に座っているみたいだ」
 「そうか?」
 「うん」
 嬉しそうに微笑みながら、ザックスは掌でラグを撫でる。さらさらとした感触が心地良かった。その様子をアンジールは目を細めて見つめる。カップからは、湯気とコーヒーの良い香りが漂っている。
 「熱いから気を付けろよ」
 アンジールの言葉に「ありがと」と言いながら、ザックスはそっと口を付けた。一口飲んで、僅かに眉を顰めた。それにアンジールが気付く。
 「どうした? 口に合わなかったか?」
 「えっ……いや、そうじゃ……なくて」
 ザックスはカップを両手で包んだまま、恥ずかしげに視線をカップの中に落とした。苦かったのだ。実はコーヒーは飲み慣れていなくて、たまに食堂で飲む時はいつも砂糖とミルクを入れていた。
 『可愛いな』
 困ったような顔をしているザックスを横目に、アンジールは立ち上がるとキッチンへ戻った。ザックスが顔を上げると、棚から何かを取り出して戻ってくる。目の前にコトリと置かれたのは、ひとつのビンとスプーンだった。
 「カップ、貸してみろ」
 「う、うん」
 差し出されたカップの中に、アンジールはビンの中身をスプーンに取って入れる。クルクルと数回掻き混ぜて、再びザックスにカップを戻した。茶色の粉が溶かされたコーヒーは、見た目は何の変化はない。
 「飲んでみろ」
 ザックスが一口飲む。さっき感じた苦みは薄れて、少し甘くなっていた。これならずっと飲みやすい。そのまま続けて飲んだ。
 「美味し……」
 まるで、ぷはっと音がしそうにカップから顔を上げてザックスは呟いた。アンジールが頬杖を突きながら笑っている。何だか少し、恥ずかしい。
 「ココアを入れたんだ。飲みやすいだろ?」
 「うん、美味しい……実はちょっと、苦かったんだ」
 ザックスは照れたように笑いながら、「コーヒーって、余り飲み慣れなくて」と言う。素直な笑顔にアンジールは胸の奥が締め付けられるように感じた。
 「でも、ココア入れると美味しいな。俺、これならミルク入れなくても平気だ」
 コーヒーの新たな楽しみ方を見つけて、嬉しそうにカップの中身を飲む。アンジールは自分もカップに口を付けた。


 『……えっと、』
 覗き込んだカップの中身はもう僅か。少し傾けたら、底が見えてしまう。
 さっきからザックスは、アンジールの視線を感じていた。時折思い出したようにコーヒーを飲みながら、ずっと無言で自分を見つめているのだ。
 『恥ずかしい。何か、話とか……』
 たわいのない話でもしようかと思うのだが、どういう訳か頭の中はグルグルしていて、どうしたらいいのか分からない。意味もなく緊張している。
 『何をそんなに緊張して……、でも、可愛いのな』
 目の前のザックスの緊張が手に取るように分かって、悪いと思いながらも笑ってしまいそうだった。カップを持つ指先にきゅっと力が込められていて白くなりそうだったし、カップに口を付けては中身をちょこっと飲んではすぐ離す。視線は泳いで、自分と目が合うとすぐに反らしてしまう。
 頬がほんのりと赤くなってる。髪の毛の隙間から覗く耳も同様に。アンジールは触れてみたいと思った。
 アンジールはローテーブル越し、俯いているザックスに腕を伸ばす。その頬にそっと触れると、ザックスがピクリと体を震わせて顔を上げた。
 「ザックス」
 触れた頬は微かに熱い。
 「アンジー、ル」
 「お前、あったかいな」
 親指でそっと目の下を撫でると、ザックスは恥ずかしげに瞼を伏せる。そして自分に触れるアンジールの掌に、自分の掌を重ねた。そっと首を傾ける。たったそれだけの動作なのに、その瞬間、アンジールは彼をとても愛おしいと思った。
 『あ』
 アンジールの掌が自分の頬から離れたと思ったら、すぐ隣に彼を感じた。さっきまでローテーブルを挟んで正面にいた彼が、今はもう自分のすぐ隣にいる。
 「ザックス……顔、見せて」
 「う、ん」
 隣から覗き込むようにして、そっと頬に触れられる。ザックスはゆっくりと上半身をアンジールの方へ向けた。頬に触れている掌がこめかみから指を差し込み、優しく髪の毛を梳く。何度も何度も。その感触と温かさが心地良くて、ザックスはずっと感じていたいと思った。
 いつしかお互いの手を握り合う。ザックスはアンジールの指先を見つめながら、短く切り揃えられている爪をなぞった。つるりとした滑らかな爪。触れる指先は節が綺麗に出ていて、男性らしい指だった。あの大きな剣を握っている手だと思うと、憧憬の念すら浮かぶ。
 「綺麗……」
 ザックスがぽつりと呟く。「綺麗」という形容詞が当てはまるかどうかは分からなかったけれど、そう言わずにはいられなかった。
 「お前も、綺麗だ」
 そっと顔を上げると、アンジールの視線とぶつかり合う。彼の瞳をこんな間近で見たのは初めてだった。同じ魔晄の瞳なのに、まるで自分とは異なる色。深い深い海のような蒼色の瞳。その瞳に映っている自分。
 音もなくアンジールの額が自分の額に触れる。お互いの吐息をこんなに近くで感じる。耳の奥で鼓動が大きく聞こえた。耳朶が熱い。胸がドキドキする。
 アンジールが自分の名前を囁く。
 「ザックス」
 「な、に……」
 遠近感が分からなくなりそうな距離で見つめ合った。重なり合う視線。湧き上がるこの気持ちを、どうしていいか分からない。ザックスは、何だか意味もなく泣きたくなった。そして、碧い瞳を瞼でそっと覆った。
 静かで優しい沈黙が訪れる。
 唇に、温かくて滑らかな感触。アンジールの唇が、静かにザックスの唇に重ねられていた。花弁が舞い落ちるように、そっと触れるだけ。
 「…………」
 ザックスの指先が、ピクリと小さく動く。その指先を握り返されたと思ったら、音もなく唇は離れた。それでもまだ、触れるか触れないかの距離。
 「断りもなく……、すまなかった」
 アンジールが詫びた。ザックスは彼らしいと思うと同時に、自分を大切にしてくれているのだと強く感じた。彼との、初めてのキスだった。
 「うぅん……、嬉しい」
 透き通るようで、それでいて微かに恥じらいを含んだ綺麗な笑顔を浮かべるザックスに、アンジールは目を奪われた。繋いでいた両手のうち、左手をそっと解いて頬に触れる。親指を薄紅の唇に当てた。可愛らしい花弁みたいな唇。
 「もう一度……キスして、良いか?」
 「うん……」
 再び舞い降りる、優しい温かさ。
 その心地良さをいつまでも感じていたいと思いながら、ザックスは胸の奥から甘い気持ちで満たされるのを感じていた。




 20100309