エントランスをくぐり、もう必要なくなった眼鏡を外す。心持ち足早に、アンジールとザックスはエレベーターホールに向かった。軽やかな音と共にドアが開き、滑り込むように中へ入る。ボタンでフロアを指定して、ドアを閉めた。
ザックスはアンジールからつかず離れずの位置で、エレベーターの階数表示を見上げていた。手を繋ぎたい気持ちを隠して。
途中で止まる事なく指定のフロアでドアが開く。静かな廊下を進んでアンジールの部屋の前で立ち止まり、ザックスはそっと周囲を見た。相変わらずガランとしていて、何だか物凄く静かだった。
初めてこのフロアに来た時は、とても緊張してしまった。1st専用の居住フロアなんて憧れで夢で、目標だから。まさか2ndの自分が来るなんて、思ってもいなかった。自分に宛がわれた部屋のある2ndのフロアなんて、絶えず物音がして賑やかこの上ない。1stと比べて人数も多いし、何だか学校の寄宿舎みたいな雰囲気だった。
アンジールがカードキーを操作するのを、ザックスは一歩後ろで静かに見ていた。
この部屋に来るのは、今日で2回目だ。
ロック解除を知らせる電子音が小さく響き、アンジールがドアを開けた。さり気なく背中を押されて、先にドアをくぐる。
「どうした? さぁ、入ってくれ」
「う、ん……おじゃまします」
律儀に挨拶をするザックスに、アンジールは小さく笑った。そのうち彼には「ただいま」と言って欲しかったし、言わせたいと思った。
玄関を上がったものの、ザックスは奥に進まない。アンジールがどうした事かと思ったら、ザックスの指先がアンジールのそれに触れて、そっと握ってくる。思わずザックスの方を見ると、彼は恥ずかしさを滲ませながら小さく笑っていた。
「手、繋ぎたい」
「あぁ、繋いでいよう」
アンジールはザックスの指先を握り返した。手を繋いで、リビングに入る。
「コーヒーでもいれるから、座っててくれ」
「ありがと」
アンジールはジャケットを脱ぐとキッチンへ入った。ザックスは部屋を見渡す。初めて来た時にはかなり驚いたが、アンジールの部屋はとても緑が多い。大小さまざまな観葉植物の鉢植えが、部屋のあちこちに置かれているのだ。ここミッドガルでは植物自体が珍しいので、ザックスはアンジールの部屋を「小さな森みたいだ」と思った。
元々植物が好きで、観葉植物を育てるのはアンジールの趣味らしい。「長期の遠征の時は、水やりを頼むのが大変だけどな」と言いながら、鉢植えに水をやっていたのを思い出す。
「なー、アンジール」
「何だ?」
「鉢植え、水やっても良い?」
ザックスはフローリングの床に置かれている小さな如雨露を手にした。
「あぁ、良いぞ。頼んだ」
ザックスは洗面所で如雨露に水を入れると、鉢植えひとつひとつに丁寧に水をやりながら、部屋の中を回る。色んな形の葉っぱがあって、良く観察するととても面白い。
アンジールがコーヒーをいれたのと、ザックスが水やりを終えたのは、ほぼ同時だった。
リビングのローテーブルにふたつのカップを置く。向かい合って座り、ザックスがふたつのカップの中身を見比べる。そして、少し拗ねたような顔をした。
「俺のはカフェオレ?」
「前に『苦い』って言ったのは誰だったっけ?」
「うー……、そうだけどさ。ちょっとミルク多すぎない?」
「安心しろ、苦くない。それに砂糖も入ってる」
アンジールはクスクス笑いながら、ブラックが入ったカップに口を付けた。砂糖も入っているらしいカフェオレを、ザックスは「子供じゃないっての」とぶつぶつ言いながら飲む。でも、ミルクと砂糖の配分が絶妙で、物凄く美味しかったのがちょっと悔しかった。
「なぁ、アンジール」
半分以上中身が減ったカップが、コトリと音を立ててローテーブルに置かれる。
「ん? 何だ」
アンジールもカップを置いた。まだ中身はあまり減っていない。目の前のザックスを見る。逐一、小さな変化を見せる彼が愛おしくて、本人は怒るかも知れないがとても可愛らしい。今だって、耳の縁をほんのり赤くしてる。アンジールは頬杖を突きながら、言葉の続きを待った。
「隣、行っても……良い?」
返事をする代わりに少しだけ体をずらして、自分の隣をポンポンと叩いた。ザックスはローテーブルを回り込んで、アンジールの隣に座る。すると、両腕でふわりと抱き締められた。
「やっと来てくれたな」
「え?」
アンジールがザックスの頭を、優しく撫でる。
「いつ隣に来てくれるかと、待ってた」
「何か、ずるい……」
でも、嬉しい。ザックスはアンジールの背中に両腕を回した。ここではもう、周りの目なんて気にしなくても良い。手を繋いで、こうして抱き締められて抱き締める。
こめかみにアンジールが小さくキスを落とした。ザックスも、真似てこめかみにキスをする。抱き締めて、お互いの頬を寄せ合う。
「お前って、良い匂いするのな……」
アンジールがザックスの首筋に、そっと顔を埋めるようにした。
「って……、どんな?」
「風とか水とか……そんな感じ」
「随分と抽象的だなぁ」
自分の事を言われつつ、どんな匂いだろうと想像してみたけれど、ザックスには良く分からなかった。でも、アンジールが「良い匂い」と言ってくれるのは、悪い気はしない。
そんな事をぼんやり考えていたら、いつの間にかアンジールの唇が首筋に当てられていて、ビクリとしてしまった。柔らかい唇の感触が少しこそばゆくて、時折ちゅっと音がした。
「ア、アンジール」
ザックスの呼び声に、アンジールが彼の首筋から顔を上げる。そこには顔を赤らめさせたザックスが、困ったような焦ったような顔をしていた。
こんなにも素直に赤くなるなんて。その見た目とは裏腹に、信じられないくらいに初々しくて透明だ。その唇を艶やかに濡らしてみたいし、その肌を薄紅に染めてみたいと思った。
アンジールはザックスの頬を撫でて、彼の手を取る。お互いの指先を組むようにして両手を繋ぐ。それはさり気ない、小さな拘束。
「キス、して良いか?」
「う、ん……」
その瞼が静かに閉じられて、睫が綺麗に整列する。アンジールはザックスの唇に、そっと触れた。そして、啄むようなキスをする。とても小さく唇を吸って、同じように食んで、それを何度も何度も繰り返した。
「ん」
ザックスが身動いでも、その腕はアンジールに捉えられたまま。されるがままの唇に、ザックスは頭の芯がぼうっとしてくる。アンジールがようやくキスを止めると、ザックスは僅かに潤み始めた瞳でアンジールを見つめた。何か言いたげに唇が微かに動くけれど、寸前で飲み込まれて何も言葉は出てこない。
「お前に、教えたい」
蒼い瞳を細めて、アンジールが囁く。ザックスは胸の奥が、熱くきゅんとした。そして、そっと言葉を紡ぐ。
「……教えて」
アンジールはその赤く染まった頬に触れて、そのままこめかみから指を差し入れて髪の毛を梳いた。そして、顎に手を添える。ザックスはそっと瞼を閉じた。
「口、開けて」
言われたままに、その口を小さく開く。唇を重ねられて、生温かいものが口内に触れる。それがアンジールの舌先だと気付いた時には、自分の舌先を小さく舐められていた。無理強いはしない動きが、温かくて優しい。ザックスはいつしか、自らアンジールの舌先に自身のそれを辿々しく絡め始めた。
『あ……』
今までに、キスをした事がない訳じゃない。でも、こんなキスは知らない。
ザラリとした感触。歯茎を舐め上げられて、思わず引っ込みかけた舌を緩く吸われる。ザックスはアンジールを真似て、彼の歯茎を舌先で舐めた。不思議な感触だと思った。同時に体の奥がジンとする。
『どう、し……よ』
ザックスはアンジールのシャツの袖を僅かに引っ張る。すると、アンジールはゆっくりと唇を離した。目の前のザックスの唇は唾液で濡れ、その瞳は碧く潤んでいる。その体を抱き締めようとしたら、ザックスがアンジールに抱き付いた。首筋に熱い頬をピタリと付ける。アンジールは彼の頭を優しく撫でた。
「ザックス……、嫌だったのか?」
無言。でもその項は真っ赤だった。アンジールはザックスに気付かれないように、小さく笑った。
「なぁ、ザックス。もう一度、」
「聞かなくて、良いよ……」
顔を上げたと思ったら、消え入りそうな声で小さく呟いて、ザックスは自分からアンジールに唇を重ねる。うっすらと開かれた唇から、赤い舌先を小さく覗かせながら。その様がとても色めいていて、アンジールは思わずザックスをぎゅっと抱き締めた。
「んっ」
力強い腕に抱き締められながら、ザックスは初めて知った熱いキスを体に刻み込み、その甘さと心地良さにうっとりと酔い痴れた。
20100228