衣ごと優しく抱き寄せて、唇を重ねた。ひんやりとした薄い唇に、己の体温を移すかのような口づけ。
ザックスの指先がアンジールの衣の袖を掴む。そして自分の胸元、衣の合わせ目にアンジールの掌を押し当てる。
「……そっと、触れて」
「しかし、」
まだなけなしの理性がアンジールの内側に存在していた。それについ先程見た、まるで怯えたようなザックスの姿が脳裏に浮かぶ。
「…………」
小さな吐息が耳を掠めて、首筋に柔らかい感触。次の瞬間、アンジールはザックスの体をきつく抱き締めた。
衣を脱ぎ去って現れた、ほくろひとつない綺麗な体がゆっくりと熱を帯びる様を見て、アンジールは息を飲む。荒々しく掻き抱いてしまいたいのを我慢して、花に触れるように優しく丁寧に触れる。その度に目の前の肌は粟立ち、声にならない熱い吐息を漏らす。布に囲まれた空間は、ゆっくりと確実に密度を上げた。
同性を抱くのは初めてだった。なのに、不思議と嫌悪感は感じない。かといって、女性を抱いている時とは明らかに異なった。気付けば、もっと触れたくて、そして自分を受け入れて欲しくて、見上げてくる碧い瞳に愛しささえ感じた。
「あぁ……、う、ん……ぁ」
投げ出された肢体をくねらせながら発せられる声音に、情欲が揺さぶられて否応なしに体の中心が熱くなる。
甘い香りがアンジールに纏わりつく。香りは濃密さを増すばかり。思わず香炉の方を見たら、もう一筋の煙も上がってはいなかった。アンジールはもしやと思い、ザックスの首筋に顔を埋めた。甘い甘い香りが鼻腔をくすぐった。この香りは、そう……
「お前……牡丹の香りが、する」
香りだけではなかった。白い肌にうっすらと浮かんだ汗を舐めて、口づけて柔らかい口内に舌先で触れたら、甘いのだ。
ザックスは、その体から牡丹の香りを漂わせていた。そして、濡れた皮膚は舐めると蜜のように甘かった。
お互いの体はいつしか熟れて、ザックスは苦しげに且つ悩ましげに眉を顰めた。腰が揺れている。アンジールはザックスの耳朶を甘噛みしながら、少し躊躇いがちに小さく囁いた。
「ここに……挿れても、良いか?」
指先を最奥へそっと宛がうと、ザックスは無言で頷いた。既に何度か指で解されたそこは、熱を求めてわなないている。
「あんたになら……見せて、あげる」
「何を?」
「この目で、確かめて」
ザックスの指先がアンジールの目元に触れた。その指先は、いつの間にか爪紅を施したように朱く色付いている。目元を辿り、薄い瞼をそっと撫でる。深い蒼色の美しい瞳が自分を見ている。熱く見つめられて、ザックスは素直に肌を震わせた。
それまで仰向けに横たわっていたザックスが、体を返して俯せになる。恥ずかしげに振り向いて、唇が小さく動いた。
「…………」
気付いたら、底なしとも思える熱い熱い内へ、身を投じていた。
自分でも良く耐えていると思う。ザックスの背中に覆い被さり、じれったい程ゆっくりと腰を動かして、彼の熱い内を感じる。昂ぶった熱に絡み付く内壁がとてつもない快感をもたらして、アンジールは小さく呻き声を上げた。同時にザックスが艶めいた嬌声を上げる。
「あっ、あぁん……やぁっ」
投げ出された腕が、何かを掴みたがるように彷徨う。アンジールは咄嗟に腕を伸ばして、掌を重ねて指を絡ませた。すぐにきつく握られる。
「あ、ん……なぁ」
ザックスが何か言いたげに振り向いた。アンジールはザックスの頬に自分の頬を寄せる。そして、触れるだけの口づけを何度も繰り返した。
「……ザックス」
「ぁ……」
それはとても心地良い響き。彼に自分の名前を呼ばれる。たったそれだけの事が、この上なく嬉しかった。もっと、もっと呼んで欲しい。
「も、一度……呼んで」
「ザックス」
「もう、一度」
アンジールは体を起こすと、繋がり合ったままザックスの体を仰向けにした。そして、ザックスの頬を両の掌で包み、熱く潤んでいる瞳を覗き込む。
「俺の事も、呼んでみろ」
「え……、あ……」
「俺の名前、忘れたのか?」
ザックスは首を左右に振った。忘れる筈なんかない。ただ、彼の名前を口にするのが、何故だかとても気恥ずかしいのだ。ひとり、もう何度も何度も胸の中で呼んだ筈なのに。
「……アンジー、ル」
口づけられる直前に見た、彼の笑顔を忘れない。泣きたくなった。こんな気持ちは初めてだった。
好き。
雨に濡れながらも牡丹に心奪われている姿に、一目惚れしたのだ。
許して欲しい。
この人が、もうとても好きなのです。
「あ……あぁっ、ふっ」
激しくしている訳でもないのに、ザックスの胸が忙しなく上下に動く。目縁に溜まった涙が、次々と溢れ出した。俄に皮膚が発熱する。アンジールは異変に気付き、ザックスの内に沈めた熱を引き抜こうとした。しかし、それを拒否するように後孔がきつくアンジールを締め付ける。
「おい、ザックス」
「アンジール……、牡丹、好き……だろ?」
「あぁ」
「……好き、だろ?」
「好きだ」
「もっと……好きに、なったら……いいのに」
「好きだ……もっと好きになる……、」
お前を。
アンジールの顔が近付く。鼻先が触れ合いそうな距離で、彼は苦しげな声で言った。
「すまない……少しだけ、我慢してくれ」
刹那、激しく口づけられた。ザックスの言った通り、アンジールは終始彼に優しく触れて口づけていた。でも、今は違う。凶暴さと紙一重のような激しい口づけに、ザックスは体の震えが止まらなかった。でもその震えは、決して恐怖からではない。歓喜に満ちた震えだった。
内に留まっているアンジールの昂ぶった熱が、再び律動を開始する。最奥を強く突かれて、その感じた事のない快感に涙が溢れて止まらない。
「あっ……、ぁ、ん」
ザックスの指先がアンジールの髪の毛を熱く掻き混ぜ、そのまま耳元に唇を寄せた。そして、途切れ途切れに「見て」と言う。そのまま、ザックスの両手がアンジールの肩を押し返した。合わさっていたお互いの胸元が空気に晒され、アンジールの眼下にはザックスの紅潮しつつも尚白い綺麗な体が横たわる。
その胸元にうっすらと朱が滲み現れる。それはまるで、水底から水面に浮かび上がるように、すうっと。斑紋は徐々にその数を増やしてゆく。
「これは……」
アンジールは摩訶不思議な光景に目を奪われる。
現れ続ける薄朱の斑紋はやがて牡丹の花を描き、ザックスの胸に艶やかに咲く。胸ばかりではない。脇腹から恐らく背中に掛けて、そして滑らかな内股へ色美しく咲き広がる。
「ふ、ぁ……あぁっ……、なぁ……見て」
「あぁ、見てる……牡丹が、咲いてる……とても綺麗だ……、ザックス」
「ん、やぁっ」
アンジールがザックスの名前を告げた途端、ぽぉっと花弁の朱が濃くなった。きめ細かい肌をうっすらと微粒の汗が覆い、朝霧の中でその花弁をしっとりと湿らせているかのようだった。胸元から肩口に掛けて咲く牡丹にアンジールの掌が触れると、表面が火照り、あの真良き甘い香りがふわりと匂い立つ。誘われるように口づけた先は一際朱く、舌先で小さく舐め上げると途端に後孔の締め付けがきつくなった。
布の上に散らされた花弁が、ひらりと宙を舞う。手にした一輪で肌をなぞり上げ、露に濡れた花弁を咥えれば、その唇が妖艶に染まる。唇越しの花弁を小さく囓って飲み込む仕種に、その甘く淫らな蜜を啜りたい欲が己が内で暴れ出す。しっとりと汗ばみ、布に広がる髪を掻き上げて一輪刺すと、まるで生娘のような恥じらいを見せながらも、尚一層深くきつく咥え込む。
もっともっと、お前を甘く優しく淫らに激しく濡らしたくて堪らない。
「アンジ、ール……俺、」
「綺麗に咲い、てる……美事だな……、くっ」
お互いの熱は弾けんばかりに昂ぶっていた。熱く濡れて混ざり合う。寝台が軋み、衣擦れの音が一層高く上がった。
「あんたに、だけ……アンジールだけ、に……、やあぁっ」
「何度も咲かせて、何度も散らしたい……あぁ、堪らないな」
アンジールはザックスを抱き締める腕に力を込めた。その体に大輪の花を咲かせる彼を、もう離したくはなかった。
* * *
後にアンジールは、調査旅行期間を無事終える。
途中で一度中央に戻り、調査の中間報告及び期間延長の申請を出した。期間延長の申請は過去に例がなく異例中の異例だったが、中間報告の素晴らしさとアンジールの熱意が認められて、誰ひとり反論はなく調査期間延長が許可された。
延長を含めて、およそ一年半掛けて調査の全日程を終え、アンジールは中央に戻る。
待っていたのは、ひたすら研究室と書庫に籠もり、報告書を纏め論文を執筆する日々だった。寝食をおろそかにしての執筆に、周りの誰しもが心配したが、その鬼気迫るまでの様子に誰ひとり声を掛ける事が出来なかった。
そして、半年掛けて纏め上げた報告書と論文は優に四桁の枚数を誇り、書き潰した筆の本数は壷一杯となった。量と質が前代未聞の為、審査には複数人が担当したものの、相当の時間が掛かった。その間、アンジールは密かに研究室の荷物を纏めていた。身辺整理を人知れず始めたのだった。
やがて、口頭試問の日程が決まる。審査官の誰もがその内容に絶賛し、アンジールとの間で白熱した質疑応答が三日三晩に渡って行われた。その様子は後に語り草となる程で、当日のやりとりを記した記録文書は、公開と閲覧を求めて研究者達の間で署名活動が行われた程だった。
さながら学会の研究発表の様相だった口頭試問は無事終わり、アンジールの昇進に関する判定審査会議が開かれる。そして、全会一致で教授に昇進する事が確定した。
その頃になると、調査を開始した頃からもう幾度も季節が巡っていた。
アンジールの史上最年少での教授昇進確定に、中央は大いに沸いた。
しかし結局、アンジールが教授に昇進する事はなかった。口頭試問の日を最後に、彼は中央から忽然と姿を消してしまったのだった。
「私が残した全てを後学の為に」と、一筆のみを残して。
薄紅の唇が形良く動く。碧色の瞳が自分を見上げるのが分かる。
「あんた……後悔、してないの?」
「してないさ。ただ人より幾分早く、隠居しただけだ」
「そうだけど……」
「あの日、もう決めていた。それに、言っただろ……」
隣に立つ彼をそっと抱き寄せた。柔らかくふわり漂う薫香。ふたりで見つめる先、庭に咲く牡丹が微風に揺れている。ザックスは静かに瞼を閉じた。
そう。あの日、あの時。
雨の降る夜、差し出した牡丹を受け取った彼と、この世の全てから忍ぶように肌を重ねた。分け合う体温を感じながら、「漸く逢えた」と思った。耳朶に熱い唇で触れられながら、自分を求める彼の言葉に震え、全身で応えた。
雨上がり、身支度を整えた彼は言った。「戻ってくる。その時再び、花を咲かせてくれ」と。
一度も振り返らずに去りゆく彼の背を、いつまでも見つめた。自分の爪跡が残る、その広い背に背負った大剣が小さく煌めいた時、何故だか涙が出た。彼は「待っててくれ」とは言わなかった。でももう自分は、彼を待つ事しか出来なかった。
たった一夜。乱暴に手折る事はせず、この体と心にただひたすら優しさと愛しさを刻み込んだ彼。この瞳から堪えきれず零れ落ちる涙を吸い、しっとりと重くなった髪を梳き、自らの意思で止める事の出来ない声を飲み込んで微笑んだ彼。
いっそ、「待っててくれ」と言って、縛り付けてくれれば良かったのに。残酷なまでの優しさに、ひとり嗚咽を噛み締めた。
風がふたりの衣の裾を揺らす。ザックスの思考が引き戻される。ゆっくりと瞼を開けると、目の前にはずっと変わらない景色。今までと違うのは、自分の隣に彼がいる。
「……戻ってくると、言っただろう」
「う、ん」
「共に暮らそう」
「良いのか? 俺は……」
さわさわ、さわ。牡丹が揺れる。ザックスの戸惑いを感じて、花が揺れる。
「お前はお前だ……それ以外の何ものでもない」
アンジールの掌がザックスの頬に優しく触れる。あの時と変わらずに、そっと優しく触れてくれる。
『花は、そっと優しく丁寧に触ってやらねばならない……』
ザックスの恥じらうように閉じられた瞼の縁には、長い睫が綺麗に並んでいる。アンジールはその瞼に誘われるように唇を落とした。ザックスの目元がほんのり薄紅に色付くのを確認して、小さく微笑む。
「……愛してる」
どちらからともなく発せられた囁きは、微風に乗って庭を渡り、そして碧く澄んだ空へと高く昇る。
ゆっくりとふたりの唇が重なる。俄に甘い香りが漂い、さわさわと牡丹の葉の揺れる音が、まるでふたりを祝福しているかのようだった。
雪肌に浮かび上がりし朱の花
触れれば香気を発し、唇を寄せれば真に甘露
朱の花、或る時は乙女の如く清らかに、また或る時は妖婦の如く淫猥に
されど真の姿、一途な想いを胸に秘め、再びの逢瀬を静かに待つ強き花
内に秘めたる大輪を、咲き乱れさせるは優しき彼唯ひとり
20100807