香魂 其ノ弐


 板張りの廊下には、等間隔で油皿が置かれていた。まるで漆塗りのような照りを見せる廊下を歩き、開いている扉の先へ進めば迷わず奥へと進めた。すると、部屋の天井に渡した竿から自分の衣が吊されていた。床には火鉢が置かれ、部屋の空気を暖め、衣を乾かしている。アンジールは手にしている肌着を同様に竿から吊るす。
 先の扉の内側では薄い布が揺れていた。暖簾をくぐるようにして中へ入ると、そこには不思議な光景が広がっていた。
 天井から所々、薄い布が幾枚も垂れ下がっている。それは微かな空気の流れを捉え、緩やかな線を描いていた。交互に垂れ下がる布は、まるで花弁のようだとアンジールは思った。
 奥から小さく物音が聞こえる。アンジールは奥へ進む前に、声を掛けてみる事にした。
 「着替え終わった。大変助かった、有り難う」
 物音が途絶えた。布の内側から彼の声が涼やかに聞こえる。
 「奥へ入って」
 「では、失礼する」
 幾枚もの布をくぐり抜けると、視界が開けた。随分広い部屋のようだ。手前に座卓や棚の類が置かれている。奥に衝立があり、その上の天井からも布が垂れ下がっている。どうやら寝台が置かれているらしい。必要最低限の物しかない、簡素な部屋だった。だが、置かれている調度品は古さは否めないものの、作りは凝っていて見事なものだった。
 彼は棚に置かれた香炉らしきものを覗いている。そっと蓋を摘み上げて中を見ると、小さく息を吹きかけたようだった。蓋を閉じるとやがて、細かに施された細工の隙間から細く煙が立ち上った。煙はゆっくりと天井へ向かって上昇し、やがて霧散する。香の香りが仄かに部屋の中へ広がり始めた。
 彼がアンジールを見た。
 「少し待ってて」
 垂れ下がる布を翻して、隣の部屋へと消える。暫くして戻った彼は、盆を手にしていた。ふたつの茶器が載せられている。座卓の側へ静かにしゃがむと、ふたり分の茶器を座卓へと乗せた。仕種でアンジールに座るように勧める。
 「衣の大きさは大丈夫か?」
 彼は茶器の中を覗き込み、茶の香りを確かめる。満足いくものなのだろう、その唇に綺麗な笑みが浮かんだ。
 「あぁ、丁度良かった。本当に助かった、有り難う。申し遅れたが、俺の名はアンジール。中央から植物調査の為に地方を旅をしている」
 アンジールは礼と自己紹介を済ませ、目の前の茶器を両手で小さく持ち上げて礼をすると、中の茶を啜った。仄かに花の香りがするような茶で、雨で冷えた体に染み入るようだった。思わず「美味いな」と呟くと、目の前の彼はとても嬉しそうに微笑んだ。その表情は、何だか彼を幼くさせた。彼が手にしていた茶器を、座卓にことりと置いた。
 「俺の名はザックス……、ここにはひとりで住んでいる」
 「ひとりで? こんなに広い屋敷に?」
 アンジールは思わず聞き返してしまった。ザックスと名乗った青年は、それを嫌がるでもなく、淡々と話した。
 「あぁ、父も母も既に亡くなった。身内と呼ばれる者はいない……」
 「済まない。余計な事を聞いたな」
 アンジールは彼に詫びた。碧い瞳が僅かに細められる。
 「いや……気にしないで。そういう訳で、使っていない部屋は埃だらけだが……、雨が止むまで気兼ねなく過ごしてくれ」
 そう言って、ザックスは茶器に口を付けた。
 暫しふたりで、静かに茶を啜る。明かり取りの窓から雨の音が良く聞こえた。相変わらず激しく降っているようだった。時折、空が光った。
 アンジールは改めて、目の前のザックスを見た。自分より年下であることは間違いないだろう。一見、その雰囲気から大人びて見えるが、先程の笑みからでも分かるように、良く見ればまだ何処か幼さを残している。それでも、年の頃は十七〜八ぐらいであろうか。前髪がさらりと額に掛かっている。そして、この碧い瞳。このような色の瞳を持つ者がいるとは。見つめれば吸い込まれそうな碧は、空の色にも良く似ていた。髪の毛の隙間から小さく覗いている耳朶には、何やら石がはめ込まれているようだった。
 女物の衣を纏う体は華奢なように見えても、体格は間違いなく男性のものである。でも、袖や襟から覗く肌は雪のように白くて、それこそまるで女性の肌のようだった。衣の鮮やかな朱に、肌の白さが一層際だつのだ。
 「あの大剣……」
 ザックスがぽつりと呟いた。
 「あんた、剣を扱えるのか?」
 「あぁ、それなりにな。あの剣は、我が家に代々伝わる物だ」
 「でも、剣士じゃないのだろう?」
 「あぁ……、剣を振るうよりも、植物を見ている方が好きだな」
 「あんた……面白いな」
 ザックスがくすくすと笑った。お互い、茶器から上げた視線が宙で絡み合う。ザックスはアンジールの蒼い瞳を見た。深い蒼は果てしなく広がる湖のようで、綺麗な蒼だと思った。
 さり気なくアンジールが部屋の中を見回すと、二輪の牡丹が生けてあった。
 「あそこに生けてある牡丹は、庭に咲いていたものなのか?」
 そっとザックスの後ろを指差す。衝立の近くの床に、牡丹の生けられた平たい花器が無造作に置かれていた。ザックスは頷きながら立ち上がると、その花器を手にして戻ってきた。座卓の上が、俄に華やかになった。
 アンジールは目の前に置かれた牡丹を見つめた。
 「庭で咲いている牡丹の群れの美しさに、非常に感動した。あぁ、やはり美しいな……全く以て美事だ。お前が育てているのか?」
 ザックスはやや俯き気味で、無言のまま頷いた。アンジールの「やはりな」という声を聞くと、その目を微かに細めた。
 「植物調査をしているなら……あんた、やっぱり花が好きなのか?」
 手にしている茶器の滑らかな表面を撫でながら、ザックスは尋ねた。
 「あぁ、植物全般が好きだが……花は良いな。花ならやはり、牡丹が一番だ」
 ザックスの視線の先には、牡丹の花弁にそっと触れるアンジールの指先があった。その指先から、視線を反らす事が出来なかった。
 彼の指先が、花弁の表面をそっと撫でている。幾枚もの花弁をそっと摘むようにしたかと思えば、ゆっくりと優しく掻き分けるようにして、内側を静かに覗き込む。萼片を撫で、茎を辿って葉に触れる。
 優しく愛おしむような視線で牡丹を見つめるアンジールの姿に、ザックスは小さく息を飲んだ。そして、密かに呼吸を速め、体温を上げた。
 「花はな、」
 まるで独り言のように、アンジールが語り始める。
 「とても美しく、時には力強く咲き誇る。でも花弁一枚一枚は、非常に繊細で傷付きやすい。だから、そっと優しく丁寧に触ってやらねばならない。それに、気持ちを込める程、花は綺麗に咲いてくれるものだ……ちゃんと応えてくれる」
 そこまで話して、アンジールはザックスの方を向いた。
 「牡丹をこんなに美事に咲かせるお前に、こんな事を話すのもおこがましいな」
 アンジールは小さく笑った。
 香の香りに俄に牡丹の香りが混ざり、濃密な空気がふたりを包み込む。まるで、時の流れが止まったようだった。
 「なぁ……、牡丹、好きなのか?」
 アンジールは手元から顔を上げて、ザックスを見た。大きな碧い瞳が揺れていた。不思議な雰囲気を纏っている青年だと思った。アンジールは優しく笑って頷いた。
 「どの花よりも、一番好きな花だ」
 「そうか……」
 ザックスは控えめながらも、とても嬉しそうに笑った。その笑顔は何処か、微かに妖艶さを滲ませている。
 アンジールは思った。きっとザックスは、自分が育てた花を褒められて嬉しいのに違いないのだと。
 では何故。
 目の前の彼は、頬を上気させているのだろう。何故、首筋を朱く色付かせているのだろう。
 そして、何故碧い瞳を熱く潤ませているのだろう。
 ザックスは小さく息を吐いた。目の前のアンジールの指先は、丹念に牡丹の花弁に触れ続けていた。


 「客間は長い間使用していない」と申し訳なさそうに告げるザックスに、アンジールは「気にしないでくれ」と言って部屋の隅で横になった。冷え込む季節ではないので、布団がなくとも問題はない。それに調査で地方を回る間、野宿もすれば宿場での雑魚寝もしょっちゅうだ。
 アンジールは荷物を頭の下に置いて枕代わりにして、体を横向かせて腕を組む。瞼を閉じれば、雨の音が聞こえた。日中の疲れがあるのだろう、すぐに音は消えていった。
 暗闇の中に幾つもの花が咲いている。辺りは暗いのに、まるで花自体が発光しているかのようだ。周辺がぼんやりと明るい。花々の中に、ゆらりと人影らしきものが浮かび上がる。
 誰かいるのか?
 影が静かに振り返る。刹那、碧が網膜に焼き付いた。
 「……っ」
 不意に何かの気配に気付いて目を開けると、天井から吊されている布が揺れている。そして、ザックスが立っていた。彼の後ろの床に置かれた燭台が、部屋の中を小さく朧気に照らす。
 夢を見ていたようだ。一体今は、何時だろう。既に日付は変わっているとは思うのだが、全く見当が付かなかった。この天候の所為だろうか、時間の感覚が良く分からない。アンジールは上半身を起こして、佇んでいるザックスを見上げた。
 「どうした?」
 「せめて、これを……」
 自分の側にしゃがみ込んだザックスが、遠慮がちに言う。そして、おもむろに帯を解くと一番上に着ている衣を脱いで、そっとアンジールに差し出した。布団の代わりに使ってくれとの事だろう。しかしその仕種は、男性なのに余りにも色艶めいていて、アンジールの理性を強く揺さぶるものだった。
 差し出された衣から、ふわりと仄かに良い香りがする。香のような花のような、嗅いだ事のない独特の甘い香り。
 アンジールは目の前のザックスを見た。薄い衣から覗く白い肌は、燭台の明かりに照らされて陰影色濃く、更に琥珀色にも見える。伏し目がちの瞳がちらりと自分を見上げ、そしてまた伏せられた。一瞬見た碧色が揺らめいていた。
 アンジールが差し出された衣を手にした。先程までザックスが着ていた為、微かに温かい。衣の下で、お互いの指先が触れ合う。するとザックスは体を小さく震わせた。
 その、まるで怯えるような仕種に、アンジールの理性が焼き切れそうになる。
 咄嗟にザックスの手を掴もうとしたが、寸でのところでするりとかわされた。そのままザックスは軽やかに身を翻して、部屋の奥の寝台へと駆けた。燭台の灯りが音もなくふっと消えて、辺りが再び薄闇に包まれる。
 幾枚もの布の向こうへと消える彼を、アンジールは衣を握り締め、立ち上がり追いかけた。部屋を横断するほんの僅かの距離なのに、とても長く感じた。果てしなく走っているようだった。衝立の向こう側から小さく明かりが漏れていた。美しい螺鈿細工が施されている衝立を除けると、布が目の前を遮る。寝台を隠し覆うかのように布が垂れ下がっていた。その向こうに、ぼんやりとうずくまる影が見えた。
 天井から流れ落ちる布を上げ、寝台に上がる。そこはかなり大きく、広いものだった。寝台というより、部屋自体が一部分高くなっているような感じだ。アンジールは、まるでザックスを隠すかのように覆う布を手繰り寄せ、掻き上げる。その度に、甘い香りが濃くなっていくようだった。そして、最後の布を捲り上げた。
 そこには燭台の灯りに照らされて、極彩色の幽玄美が広がっていた。
 白い布の上に、幾本もの牡丹の花。そして散らされた花弁。それらに埋もれるようにして、中心にザックスがうずくまっていた。枕元の台に置かれた香炉からは、音もなく煙が上がり、寝台の中をゆらりと漂う。その隣には、布に囲まれた寝台を照らす燭台。灯りが空気の動きに合わせて小さく揺れた。
 体を丸め、アンジールに背を向けるようにして、ザックスはうずくまっていた。薄い衣の裾から覗く足首の白さはまるで陶器のようで、アンジールは眩暈すら感じた。
 赤、紅、朱。そして、布の白。強烈な対比が瞼の裏にきつく焼き付く。
 アンジールはザックスに触れようとした。しかし、寸でのところで動きを止める。彼の体は微かに震えていたのだ。
 『俺は一体、何をしようと……』
 心の蔵がどくりと脈打った。自分を気遣って、自ら着ていた衣を布団代わりに差し出した彼に、自分は一体何をしようとしていたのだ。その手首を掴み、体を引き寄せ、そして……。
 アンジールは唇を噛み締め、きつく目を瞑った。ひとつ、大きく呼吸をする。そして、手にしていたザックスの衣を、うずくまる彼にそっと掛けた。ザックスの体がぴくりと動いた。
 「俺は大丈夫だ。お前の方こそ……雨の夜は冷えるから、暖かくな」
 肩口まできちんと丁寧に衣を掛ける。指先でほんの少しだけ触れてしまったザックスの髪の毛は、絹のようにとても柔らかかった。アンジールは「わざわざ有り難う」と小さく礼を言って、ザックスの側から離れようとした。
 「待って……」
 思いがけず呼び止められて、アンジールは振り返る。するとザックスはゆっくりと起き上がり、静かにアンジールを見上げた。
 「どうした?」
 ザックスは何も言わなかった。じっとアンジールを見つめるその瞳は、まるで彼の心の奥底まで見つめているかのようだった。やがて、身動ぐように体を枕元の方に向けて、何かに手を伸ばす。伸ばされた手の先には、盛り上がった布があった。何かが布を掛けられて置かれているようだ。ザックスの指先が布を静かに取り払う。すると、盆に載せられた一輪の牡丹がその姿を現した。
 ザックスは大事に大事にその牡丹を手に取ると、そっと自分の頬に寄せた。瞼を閉じ、花弁の感触を確かめるように頬を寄せている。そして唇を寄せると、花の中心に向かって何やら呟いているようだった。牡丹だけが聞いているザックスの秘めた囁き。
 その不思議な光景を、アンジールはただただ無言で見つめた。美しく幻想めいて、まるでこの世の物とは思えないような光景だった。
 ふわ、り。
 ザックスの唇から離れた牡丹が、アンジールに向かって差し出された。
 「…………」
 時が止まった。
 美しき牡丹を差し出すザックスの目元は、うっすらと色付いている。その透き通るような碧い瞳は薄闇の中、燭台の灯りに照らされて、ゆらゆらと水面のように揺れていた。その様は、何処か淫靡な雰囲気をも醸し出していて、ザックスという青年のもうひとつの顔を見たような気がした。
 お互いの視線を交わし合ったまま、アンジールの指先は差し出された牡丹に伸ばされる。じれったい程ゆっくりと距離が近付く度に、ザックスの瞳が揺れた。
 やがて指先と花弁が一点で触れ合った。
 「……っ」
 アンジールは、指先が微かに痺れたような気がした。牡丹はザックスの手を離れ、アンジールの手の中に収まる。微かにひんやりとして、しっとりと手に吸い付くような手触りだった。
 「好きって言ってたから、あげる」
 ザックスがおもむろにぽつりと呟く。アンジールは小さく息を吐いて、肩を上下させた。目の前の青年が今は何だか妙に幼く見えた。
 妙に艶っぽく大人びて見えたかと思えば、無垢な幼さを覗かせる。今なんて、髪の毛の隙間から覗く耳が朱くなっているのが、言うなれば可愛らしいのだ。アンジールは微笑んだ。
 「有り難うな」
 無音のまま、空気が揺れた。閉ざされた内側の世界がゆらりと揺れ、じじっと灯心が燃える音が遙か遠くの方で聞こえた。細く立ち上る薫香が体を覆う。
 自分を見上げてくるザックスの唇が、小さく動く。薄闇に溶けそうな声音。
 「……牡丹に、」
 「え?」
 「牡丹に、触れるみたいに……」
 碧い瞳が瞼の裏に隠されて、ゆっくりと首筋が晒された。
 「触れて」
 ふたつの影が音もなく、一点で重なる。何もかもが酷く曖昧に揺らめいていた。
 この世界さえも。




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