香魂 其ノ壱


 俄に浮かび上がりし朱の花
 その香は真薫香麗しく、皆を狂い惑わせる傾城の香と言う
 その花を見た者、未だ誰ひとりとて居らず、正に幻の花
 内に秘めたる大輪を、咲き乱れさせるは誰ぞ




 どうやら道に迷ってしまったらしい。
 アンジールは道端で立ち止まった。上空を見上げると、分厚い雲が恐ろしい早さで流れている。遠くで雷鳴が鳴り響いた。間もなく、雨が降るであろう。
 「何処かで雨を凌がなければ……」
 とは言っても、周りには小屋一つない。自分の後ろには一本道、そして前にも一本道。取り敢えず、アンジールは急ぎ足で前に進んだ。自分の後ろから、雷鳴が聞こえる。雨雲に追いかけられているようで、その足を速めた。
 恩師の計らいで、地方への植物調査旅行実施を中央に申請したら、それが見事に認可され、研究費と六ヶ月の調査期間が与えられた。アンジールは恩師に礼を述べ、必要最低限の荷物と共に調査旅行に出掛けて、もうすぐ二ヶ月程になる。調査期間が終了したら速やかに帰還し、報告書と論文を纏め、中央に提出しなければならない。
 植物の研究について、アンジールの右に出る者はいなかった。本人は「幼い頃から慣れ親しんでいるだけだ」と言っているが、その研究熱心さは恩師も舌を巻く程だった。研究、報告してきた論文の質と数から見ると、既に教授並みの地位でもおかしくないのだが、アンジールはそれを拒み、年相応の講師という地位に身を置いた。それでも周りは、せめて助教授にと機会があれば声を掛けてくるのだ。
 正直、肩書きなどどうでも良かった。自分は好きな事をしているだけなのだから。
 今回の地方への調査旅行に動向する者は誰もいない。普通ならば考えられない事だ。道すがら危険は多く、特に山の奥では獣や賊に襲われる率も高くなる。だから研究者は、必ず腕の立つ剣士などを従えるものだが、アンジールにはその必要はなかった。彼は背中に大剣を背負っていた。
 所謂文武両道で、筆を持っても剣を持っても、彼は優れていた。武術大会の剣技の部でも何度か優勝していて、その教えを請おうと屋敷を訪ねてくる者がいる程だった。勿論、彼は「自分とて、未だ修行中の身」と言って、その都度丁重に断っているのだが。
 ぽつり、ぽつり。
 大粒の雨が地面に音を立てて落ちる。顔にも雨の滴が落ちて、アンジールは足を止めずに空を見上げた。上空はもうすっかり雨雲に覆われていた。
 「まずい、降るな」
 そう呟いたと同時に、ばらばらと大粒の雨がアンジールに襲いかかった。それは激しさを増すばかり。あっという間に地面はぬかるみ、足元が不安定になる。笠を被っているものの、最早余り役に立たない。着ている衣の色が、雨に濡れて濃くなってゆく。
 前方を見遣ると変わらず一本道だが、何となく横道が出来ている。それは獣道のようで、辛うじて草が道筋を描いているので分かるものの、注意しないと気付かないだろう。アンジールは迷わず横道へ逸れた。
 一本道を真っ直ぐに進んでも、先には何も見えない。でも、横道の先には微かに竹林らしき物が見えたのだ。
 「さて、どうなるものか……」
 アンジールは周りに注意を配りながらも足早に進む。するとやがて、雨の中からおぼろげに屋敷の門が現れた。取り敢えず門の下に身を寄せた。笠を外して、雨で濡れた顔を掌で拭った。
 「廃屋、か?」
 アンジールは改めて門を見上げる。門はかなり古いもので、所々朽ちている。しかし、扉の作りは重厚で今自分が立っている石段も、良質の石が使われているようにも見えた。
 雨は依然激しく、当分止みそうにもない。出来れば今すぐ暖を取り、濡れた衣を乾かしたかった。時刻も間もなく夕刻なので、今夜の寝床も何とかしなければならない。
 「…………」
 アンジールは暫し考え、やがて門の扉をゆっくりと押した。


 アンジールは驚いた。門の内側は、予想以上に広い敷地だったのだ。しかし、誰も住んでいないのか庭木は荒れて、屋敷もひっそりと眠っているようだった。
 「やはり、誰もいないのか?」
 ゆっくりと、足元に注意しながら屋敷の回廊を歩く。細工が立派な格子の扉が幾枚も続き、それらはずっと閉ざされたままなのだろう。蜘蛛の巣が幾つも張られ、雨の滴が引っかかっていた。
 空に閃光が走る。直後、大きな雷鳴が轟き、耳をつんざく。アンジールは思わず立ち止まり、耳を塞いだ。
 不意に雨の匂いに混じって、甘い香りが鼻腔を掠めた。何かと思いながらも、屋敷の角を曲がる。すると、目の前には極彩色が広がった。
 雨に煙る景色の中、見事なまでの花の群れ。それは牡丹だった。大輪の牡丹の花が、競い合うように幾つも咲き誇り、雨に濡れても尚一層輝いているかのようだった。アンジールは雨に濡れるのも構わず、思わず側に寄り、その花々をじっくりと見た。
 非常に美しく咲いている。これ程美しく、均衡に優れ、色鮮やかに美事に咲いている牡丹を見るのは初めてかもしれない。花の中でも特に牡丹が好きなアンジールは、俄に興奮した。
 「誰?」
 突如雨音に混じって、人の声がした。それは柔らかい声だった。アンジールは驚いて牡丹から顔を上げ、声が聞こえた方へ振り向いた。すると、廃屋とばかり思っていた屋敷の扉が数枚開け放たれていて、その内側にひとりの青年が立っていた。
 不思議だった。確かに青年なのに、着ている衣は女物。腰より高い位置で帯を締めていた。しかし、その姿は決して変ではなく、寧ろ彼とこの場の風景には合っていた。僅かに着崩しているそれは首筋を露わにし、妙に艶めかしくも映る。青年はアンジールの視線に気付いたのか、そっと衣の襟に手を添えてさり気なく直した。
 アンジールは軒下へ移動して、青年へ向かって姿勢を正した。
 「驚かして済まない。道中、急に雨に降られてしまい、困っていたらこの屋敷を見つけた。申し訳ないが、暫し雨宿りをさせて貰いたいのだが……」
 そっと目の前の青年の顔を見る。彼は扉に手を掛け、アンジールを真っ直ぐに見つめていた。その瞳は玉のように碧い。雨の音が何処か遠のいていくように感じた。
 空気が揺れた。
 「中へ……」
 青年の姿が屋敷の内側へと消える。アンジールは体に付いた水滴を出来る限り振り払って、彼の後を追って屋敷の中へ入った。
 所謂、土間のような場所だった。殺風景でガランとしていた。中へ入ったものの、すぶ濡れのままどうして良いものか迷っていたら、青年がたらいと手ぬぐいの類を持って戻ってきた。アンジールに手ぬぐいを渡し、側にある椅子を引き寄せて座るように勧める。そして、部屋の隅に置かれている瓶から、柄杓を使ってたらいに水を入れた。アンジールの足元に水を湛えたたらいが置かれる。
 「済まない」
 アンジールは手ぬぐいで顔を拭き終え、背中に背負っている大剣を静かに下ろす。青年の視線が、興味深げに大剣に注がれているのが分かった。扉付近に静かに立て掛けると、靴を脱いで足を洗おうとした。
 「ひとまず、濡れた衣と帯を」
 青年がアンジールに濡れた衣を脱ぐように言い、アンジールは帯を解き、雨を吸ってすっかり重くなった衣を脱いで青年に手渡した。青年はそれを器用に衣紋掛けに通し、屋敷の奥へと持って行った。そして代わりに、綺麗に畳まれた乾いた衣と帯を持って戻る。
 「これを使って」
 椅子をもう一脚引き寄せて、その上に置いた。アンジールはたらいの水に足を浸しながら、「有り難う」と礼を言った。青年の瞼が綺麗に閉じられ、小さく頷いた。
 「濡れた荷物を乾かすなら、奥で暖を取ってるのでそちらへ。では……」
 青年は静かに奥へ戻った。アンジールは青年に感謝しながら足を洗い、用意された衣に着替え始めた。
 それにしても、よもや人が住んでいたとは。アンジールはてっきり、廃屋だとばかり思っていたのだ。彼はひとりきりでここに住んでいるのだろうか。他に人の気配はしないようだが。
 そして、あの牡丹の群れ。美事だ。あれは本当に美事だ。今まで沢山の植物を見て、牡丹も様々な種類を見てきたが、あれ程立派に咲いているのは過去に見た事がない。彼が育てているのだろうか。他に誰もいなければ、恐らくそうだろうとは思うが。
 乾いた衣に袖を通し、漸くすっきりとした。アンジールはたらいの水を外に流し、雨に濡れた肌着代わりの衣とその他の荷物を持って、屋敷の奥へと進んだ。




 20100731