衝撃の、ハジメテ 後編



 * *


 「特に異常もなくて、楽だったなぁ」
 市街地での見廻りを終えたザックスが廊下を歩きながら、ひとつ欠伸をした。時刻は間もなく七時になろうとしていた。今日はアンジールは予めオフ。自分は仕事だったが、夜中に急遽入った任務のお陰でこれから二十四時間はオフだ。
 この時間なら、もしかするとアンジールは起きているかもしれない。起きていてもおかしくない。休みの日でも、彼は規則正しく起きるのだ。余程の夜更かし、それは大抵明け方近くまでふたりで甘い戯れに耽っていた、等をしない限り。
 でもたまにそんな風にして、ふたりで昼近くまで寝たり、極稀に自分の方が先に起きてまだ隣で眠っているアンジールを見たりすると、ザックスは何とも言えない幸せな気分になるのだった。それは自分だけの秘密で、胸の奥が少しこそばゆいようで、それでいて嬉しさの余り叫びたくなってしまいそうなものだった。
 もしかして寝ていたら申し訳ないと思い、ザックスはインターホンを鳴らさなかった。玄関のドアの鍵を開けて静かに中へと入る。
 「ただいま……」
 室内は静まり返っている。どうやらアンジールはまだ眠っているようだ。ザックスは玄関先で装備を解いて、そのまま風呂場へ直行した。
 汗を流してさっぱりとしたザックスが、タオルで髪の毛を拭きながら寝室のドアをそっと開ける。アンジールはブランケットにくるまり、こちらに背を向ける格好で眠っていた。その様子を確認したザックスは、キッチンへ向かう。冷蔵庫の中から水が入っているピッチャーを取り出すと、グラスに注いで喉を潤した。
 このまま朝食を作ってしまおうか。それとも、自分ももう一度寝てしまおうか。少し迷ったザックスは結局後者を選んで、再び寝室へ。すると、不意に「ザックス?」とアンジールの声がした。
 「うん、ただいま。起こしちゃっ……、え?」
 ベッドサイドに立ったザックスが言葉を詰まらせた。この違和感は何だろう。目の前でベッドに横になっているのは確かにアンジールなのに、何処か妙なのだ。
 「いや……平気だ。……今、何時だ?」
 眠いのだろうか、もぞもぞと動いているもののなかなか起き上がらない。
 それより、声だ。いつものアンジールの声より、些かトーンが高いのだ。ザックスが怪訝な顔をする。しかし、アンジールが起き上がったと同時に、ザックスの中で感じていたアンジールへの違和感の原因がハッキリした。
 アンジールは女性の体になっていたのである。例の薬が効いたのであった。だが、しかし……。
 「アンジー、ル……ッ!!」
 「何だ、そんなに驚いたような声を出して……、ん? な……何だこれはっ!?」
 アンジールは自分の目に映った自分の手を見て愕然とする。指が細ければ、手首も細いのである。何度も左右の手を見ているアンジールの横で、ザックスも声を失い、ただただ茫然とアンジールを見つめていた。ただ彼の場合、アンジールとは少し異なる意味で茫然としていた。
 確かにアンジールは女性になっていた。しかし、それが妙に中途半端というか……部分的に男性っぽいのである。
 まず体付きだが、全体的に丸みを帯びているものの、肩幅や関節部分にゴツさが残っていた。首も女性にしては太い。胸元は胸筋とも言えそうだったし、女性特有の膨らみとも言えそうだった。女性だが、限りなく筋肉質である事に変わりはない。
 そして、声。いつものアンジールと比べると幾分かトーンが高いものの、女性としてはかなり低音だ。かなり、だ。
 もしかして……。
 ザックスは思い返す。アンジールは例の薬を半分しか飲んでいないのだ。
 『半分しか飲んでないから、効果も半分……って事!?』
 「そんなのありかよっ!!」
 「そんなのとは、一体何だーっ!!」
 アンジールがガバッと勢いを付けてベッドから降りると、ザックスの前に仁王立ちになった。が、普段の迫力と比べると、些か迫力不足だ。身長がザックスとあまり変わらないくらいだし、全体的に細いし。
 しかし、どうだろう。明らかに女性だと分かるのに、何だか女装をしている男性っぽさが充分に漂っている。
 「ザックス、お前、この原因を知ってるな?」
 「えっ……あーっ、と」
 ザックスはチラッとアンジールを見て、思わずそのまま視線をスーッと泳がせた。これから酷く怒られるのは目に見えて分かっているのだが、思わず笑ってしまいそうになってしまったのだ。何故なら、さすがに髭はなかったが、眉が結構太かった。いや、いつものアンジールと比べたら細いのだけれど。
 ゴツイ。女性なのにゴツイのだ、アンジールが。
 「もしかして、お前……、あの薬を俺に飲ませたな?」
 「と、取り敢えず、ちゃんと確認してきなよ。自分が一体どうなってるのかさ」
 こんな事を言っても却ってアンジールの怒りを増幅させるばかり、要するに火に油を注ぐだけの状態にしてしまうと分かっているのに、ザックスは言わずにはいられなかった。
 だって、凄いんだもんっ!!
 「ザックス、俺の質問に答えろ……。飲ませたな?」
 「……飲ませました」
 「こんっ……のっ、大バカものーーーッ!!」
 アンジールの両腕が大きく伸びてザックスに襲いかかる。ザックスは咄嗟にそれらを受け止めた。いつもだったら勝ち目なし。でも、今回は違う。ガッシリと組み合わさった両手だが、ザックスの方が少しだけ押している。無理もない。例えゴツくても、今のアンジールはあくまでも女性なのだ。さすがに今回ばかりはザックスの方が、力では上だ。
 「なっ……!? クソッ」
 いつものようにいかないアンジールが苛立ち、思わず悪態をつく。力を入れても体が応えてくれない。寧ろ、力を入れようとしても入らないのだ。自分の体なのに、自分で上手くコントロールできないようなもどかしさ。それと同時に、自分の体が女性のそれになってしまったという事を、否応なしに意識させる。
 今のザックスには力では勝てない、いや頑張ったら勝てるかもしれないが、と悟ると、アンジールは腕の力を抜いた。急に力を抜かれて、ザックスの体が前のめりになる。
 「おっと……」
 ふらついたザックスを余所に、アンジールはベッドに座り込んだ。思わず小さく呻いてしまった。落ち着きを取り戻そうと、まずは呼吸を整える。
 『今の俺の体は、女性のそれなのか? いや、確かにこの腕の細さはそうだろう……。声も、何となく違うし……』
 「ザックス」
 「な……何?」
 「今の俺は、女性の……体、なのか?」
 立ったままのザックスを見上げる蒼い瞳は、変わらないままだ。だが、睫がいつもより少し長くて多い。
 「う、ん……女性……みたい」
 「みたい?」
 ザックスの言葉にアンジールが敏感に反応した。「みたい」とは一体どういう事だ?
 訝しげな顔をしたアンジールに、ザックスは思わず言ってしまった。
 「だから、自分で確認するのが……一番良いかと……」
 言いながら苦笑いをして、また思わず視線を泳がせてしまった。
 あぁ、俺のバカ。
 アンジールはガバッと勢い良く立ち上がると、普段の彼らしからぬ慌ただしさで洗面所へ駆けて行った。思わずザックスもその後を追い掛ける。でも、やや間を取って。
 「なっ……、なっ……何だと」
 洗面所に響くアンジールの悲痛な声を聞きながら、ザックスがそっと覗き込む。そこには、目の前の鏡に映った自分の驚くべき姿を見ながら、立ち尽くしているアンジールがいた。
 『一体何だ、この体は……。まるで中途半端に女装……というか、別に女装はしてないが……。それにしても、ザックスはあんなに可愛らしく変化したのに、自分は何故こんな……一体どういう事だ?』
 鏡に映っているザックス、彼は今何となく笑いを堪えているような微妙な表情をしている、を見つめながら、アンジールは言った。
 「同じ薬なのに、何故こうも……変化に差があるんだ?」
 「あ、うん……えっと、それは」
 アンジールの拳がギリリと握られる。ザックスは背中に冷や汗が流れるのを感じた。これはある意味、いつもの条件反射みたいなものだ。だって、本来のアンジールが拳をギリリとする時は、結構怒っている時だから。
 しかし今、拳のこの「ギリリ」は一体何に対しての怒りだろう。ザックスは考える。薬を飲ませた自分に対して? もしかして、きちんと女性の体に変化しなかった事に対して?
 えぇ、まさかっ!!
 「ザックス、お前が知っている事を全部話せ」
 アンジールの言葉に、ザックスは大きく深呼吸をした。そして。
 「アンジールが薬を半分しか飲んでないからだと、思う」
 「……何故、半分なんだ」
 「薬を紅茶に溶かす時さ、半分ずつにしたら溶けやすいかなーと思って。案の定、すぐに溶けたよ」
 「で、残りの半分はどうした」
 「……捨てちゃった」
 「何故、全部入れなかったんだーッ!!」
 「ええぇっ!?」
 アンジールが振り返って、ズイと顔を近付けてくる。いつもなら嬉しいはずなのに、今は何だか複雑な心境だ。色々な意味で迫力があるし、何だか口元がうっすらと青く見えてしまいそうで。いや、だから髭は生えていないのだけれど。
 「だ、だって、アンジールが……急にキッチンに来るからっ!!」
 「俺の所為だと言うのかっ!?」
 「いや、そのっ……、それで、ビックリして、つい入れ損ねちゃって……さ」
 ザックスは冷や汗をかきつつ、エヘヘとごまかし笑いをしながら頭を掻いた。
 プチン。
 「こんっ……のっ、大バカものーーーッ!!」


 * *


 結局、アンジールは半日もしないうちに元の体に戻った。「寝たら戻った」ザックスの前例に倣って、滅多にしない昼寝なぞしてみたのだ。
 「寝て起きたら戻ってるかもしれないから、俺は今から寝る」
 「えっ!? そうなの? 昼寝? 折角オフなのに……」
 「その折角のオフを台無しにしてるのは、お前ではないのか?」
 アンジールはジロリとザックスを睨んだ。その迫力ある視線に、ザックスはしゅんと小さくなる。今回は全面的に自分が悪いのだ。大人しくするしかない。
 「なぁなぁ、俺も一緒に……寝て良い?」
 「好きにしろ」
 ふたりで寝室に移動する。アンジールは寝室のカーテンを閉めた。真昼の部屋が薄暗くなる。どうやら本気で寝に入るらしい。ふたりでベッドに上がると、ザックスはいつものようにアンジールの腕を掴んで伸ばすと、二の腕に自分の頭を乗せようとした。しかし、当然ながら二の腕にはいつもの逞しさがない。それが何となく、いや思った以上に寂しかった。目を瞑ったままで、アンジールが言った。
 「この腕では無理だ。すぐに痺れてしまう」
 「うん……」
 ザックスは残念そうに頷くとアンジールの腕を戻して、大人しく横になった。すぐ近くにあるアンジールの横顔。伏せられた瞼に、長い睫。輪郭は性別が変わってもやはり整っていて、ザックスは暫し見つめた。
 「……アンジール」
 そっと静かに、ザックスはアンジールを呼んだ。その少し怯えたような、そして申し訳なさそうな声音は、ザックスの心情を如実に現していた。
 「……何だ」
 「あ、うん……、ごめんな」
 「反省してるなら、それでいい……」
 瞬間、ザックスは胸の奥が鷲掴みにされたかのように、ぎゅっとなるのを感じた。同時に、涙が溢れそうになった。思わずアンジールの手を握ると、彼はそっと握り返してくれた。いつもより細くて、少し華奢な指先。でも温もりは変わらなくて、ザックスは繋いだ手から伝わるアンジールの体温を大切にした。


 *


 「結局、先に寝るのはお前か」
 自分の隣、ごくごく近い場所から規則正しい寝息が聞こえる。気付けばザックスはいつの間にか眠っていた。深夜に起こされたのだ、致し方ない。静かに体を横向きにすると、すぐ目の前にザックスのあどけない寝顔があった。アンジールは繋いだままの指先をそのままに、反対側の腕でザックスの額に落ちる前髪をそっと払った。
 「ん……」
 閉じられた瞼が微かに震える。その反応が何だかとても可愛らしかった。
 「何て事をしてくれたんだ、全く……」
 髪の毛に触れたままの指先の細さにアンジールは溜息をつき、思わずザックスの鼻をギュッと摘んでやろうかと思った。それより、自分もさっさと寝てしまおう。起きればすべて元通りになっている事を願うのみである。
 「…………」
 もう一度瞼を閉じようとしたその間際。アンジールはザックスの滑らかな額に唇を落とした。静かにそっと、そっと。
 唇を離して、じっとザックスを見つめた。何だかんだ言ってもやっても、結局自分はこいつを許してしまうのだ。それほど大好きなのだ、目の前の彼が。
 アンジールは小さくも何処か満足げな笑みを浮かべると、漸く枕に頭を落ち着けて寝に入った。ふたりの規則正しい寝息が重なり合うのは、それからすぐだった。




 【オマケ】

 例えば、こんな会話とか。

 「なぁ、アンジール」
 「何だ?」
 「その体になってから、トイレ行った?」
 「は?! いや、行ってないが。何だ、いきなり」
 「いや、ほら……もしかして見たかなぁって。自分の体」
 「なっ……おっ、お前……ッ」
 「だって、俺の時、アンジール……触って、見たじゃん……」
 「……そうだったな。もしかしてお前、見たいのか?」
 「……いや、どうだろ……んー……分かんない」
 「それはそれで、何だかムカつくな」
 「ムカつく言うな」




 20120930/初出20110925

以前発行したコピー本の再録です。
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