ほんの小さな悪戯心と、せめてもの仕返しだったのだ。なんせ、それなりに叱られたからな。
各々の体質によってそれなりの個人差があると思うのだが、生命に危険が及ばない事は自分の体で実証済み。元に戻る時間は……分からないや。でも、そのうち戻るだろ。だって、俺が戻ってるんだから。
そんなお気楽な考えでザックスはこれから、アンジールに対してある事を行おうとしていた。
例の薬を彼に飲ませようとしているのだ。勿論、内緒で。
*
「大丈夫だって、俺が煎れてくる。紅茶飲みたいって言ったのは俺だしさ」
「そうか、ならお前に任せるとしよう」
「おう!!」
ザックスは満面の笑みを浮かべるとそそくさと立ち上がり、リビングからキッチンへと移動した。アンジールはソファに座って、夕食前に読んでいた雑誌を再び捲り始める。
湯を沸かしながら、ティーサーバーに茶葉が入ったティーバッグを入れる。青紫色の矢車草の花弁が入っていて、見た目も綺麗なアールグレイ。紅茶の中では一番好きだ。ホットでもアイスでも美味しい。
それぞれのカップを並べると、ザックスはおもむろにポケットを探った。指先に小さくて固い感触。取り出したそれは一つの錠剤だった。飲むと女性の体になってしまう、例のそれである。
『半分にした方が溶けやすいか……』
あまり時間が掛かったら、アンジールがこちらを気にして覗きに来るに決まってる。ザックスは細長い錠剤を摘むと、指先に力を入れて半分に割った。まずひとつをアンジールのカップに入れる。
湯が沸いたので、ティーサーバーに注ぎ入れた。綺麗な色と香りにザックスが満足そうに微笑む。三分ほど蒸らして、紅茶をそれぞれのカップに注いだ。キッチンにアールグレイの高貴な香りが漂う。
『良い感じに溶けてる』
アンジールのカップに入れた錠剤はどんどん溶けて、ほんの小さな塊になった。残りの半分も入れようとしたその時。
「ザックス」
「うわっ!!」
突然声を掛けられて、ザックスは思わず驚きの声を上げてしまった。同時に指先に摘んでいた錠剤を床に落としてしまった。
「どうした、そんなに驚いて」
アンジールが怪訝そうな顔をしながらキッチンに入ってくる。ザックスはチラッと床に転がった錠剤を見た。壁際に落ちたそれは幸い、アンジールに気付かれていないようだ。
「いや、ちょっと紅茶に集中してたから……急にビックリした」
「すまなかったな。ほぉ……良い香りだな。アールグレイだな」
紅茶が注がれたふたつのカップを覗き込みながら、アンジールは立ち上る香りを楽しんでいる。
「それより、どうしたの?」
ザックスはそそくさとトレーを出して、ふたり分のカップを乗せた。しゃがめばすぐ取れる錠剤が物凄く遠い。
「先日買ったクッキーが残っていたから、出そうかと思ってな。食べるか?」
「うん……いや、今腹いっぱい……かな?」
何だか曖昧に答えながらも、ザックスはこのままアンジールがもう一度リビングに戻ってくれないかと思う。
しかし。
「そうか。もし欲しかったら、そこの棚の中に入っているからな」
そう言ってアンジールは、ふたつのカップが乗ったトレーを持つとキッチンを後にする。
『あーーっ!!』
こうなってしまったら、既に現時点で残り半分の錠剤をカップに入れる事は不可能だ。リビングへと戻るアンジールの後ろ姿を呆然と見つめた。それから、おもむろにザックスはしゃがみこんで錠剤を拾う。見つめながら、指先で感触を確かめるかのように暫し弄ぶ。
「半分だと、効果ないよな……」
小さく肩を落とした。残念な結果となってしまった事に少々がっかりしながら、ザックスはダストボックスの中へ指先の錠剤を放った。それは小さな弧を描いて、音もなく落ちる。そして棚の中からクッキーを取り出すと、アンジールが待つリビングへと向かった。
*
「…………」
アンジールはふと目を覚ます。隣を見ると、ザックスが携帯電話を開いていた。薄闇の中に携帯電話のディスプレイが浮かび上がる。その突然の眩しさに、アンジールは思わず目を細めた。深夜に携帯電話が鳴る時は、大抵急な任務か呼び出しだ。
「任務か?」
アンジールの声にザックスが振り返る。その顔はさすがに少し眠たげだ。
「あ、ごめん……起こした? 欠員が出て、急遽任務に入る事になった」
「市街地か?」
「うん」
「今、何時だ?」
「午前三時を過ぎたところ」
ザックスはパタンと携帯電話を閉じると、眠たげに目を擦った。温かなベッドの中でこのまま眠りたいのを堪えて、上半身を起こす。
「最近モンスターの出没が頻繁な地区の見廻り。急に体調悪い奴が出て、人数足りないんだって」
「そうか」
思わずザックスの腕を掴みそうになる自分の腕をベッドの中に押しとどめて、アンジールは「準備、しっかりな」と言うに留まる。ザックスも分かっているらしく、無言のままに頷くとベッドを出た。ひとり分の重みと体温がなくなって、それはアンジールをほんの少しだけ寂しくさせた。そんな風に思うなんてまるで子供のようだと自分でも思うが、こればかりは如何せんどうしようもなかった。
ザックスはガシガシと頭を掻いて、のろのろと伸びをする。取り敢えず、眠気を飛ばすために顔を洗って、早急に制服に着替えて、装備を整えなくては。まだ充分に眠気の残る頭でぼんやりとそんな事を思いながら、ザックスは静かに寝室を後にした。アンジールはその背中を、少し眠たげな目で追った。
やがて準備を整えたザックスが、背に背負った剣を小さく遠慮がちにカシャンと言わせながら、寝室のドアから中を覗いた。小声で「いってくる」と言いながら小さく手を振る。髪の毛は寝癖の一房を残して、後はきちんと整えられているようだ。
「あぁ、いってらっしゃい。気をつけるんだぞ」
起き上がって送り出そうと思いつつ、何故だか今夜は酷く眠い。アンジールは申し訳ないと思いつつ、ベッドに横になったまま手を振った。
遠くで、「きいてるのかな」というザックスの声を聞いた気がした。
「……聞いてる、さ」
そう呟いたと同時に、玄関のドアがガチャリと閉まる音がした。
ザックスは眠そうなアンジールを見ながら、ちょっと驚いた。いつもならこういう時は、必ずといって良いほど起き上がる彼なのに、今日はベッドに横になったままなのだ。
「あの薬が、効いてるのかな……」
「あの薬」とは言わずもがな、夕食後の紅茶に溶かしてしまった例の薬である。半分しか飲んでいないから、効かないかもしれないと思っていた。しかし、眠気が出ているという事はもしかして、薬が体に作用しているのかもしれない。
そんな事を考えていたら、ポケットに入れている携帯電話が呼び出し音を鳴らし出す。
「はい、ザックス・フェア……現在、向かってる最中だから、もうちょっと待ったー」
通話で状況の説明を受けながら、ザックスは妙に白く明るい廊下を小走りした。もう眠気は飛んで、碧い双璧は間違いなくソルジャーのそれだった。
アンジールはザックスを見送った後、すぐに再び眠りに落ちた。凄く疲れている訳でもないのに、幾らでも眠れるような気がした。
何も知らずに眠るアンジール。よもや自分の体に変化が起きているとは、当然の事ながら彼自身知る由もないのであった。
20120930/初出20110925