X
目をつむって眠る前、覚えているのは彼の笑顔。
柔らかい、笑顔。
「大丈夫だ」と言って、俺の掌が俺の髪の毛に触れ、頬に触れ……。
無言で頷くと、額に唇が落とされた。どうして、涙が出そうになる。
見つめ合うお互いの瞳はあおく美しく澄んで、吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「アンジール……」
「何だ?」
それは今、言わなければいけないような気がした。言うべき言葉であるような気がした。
「……好き、だよ」
「知ってる」
ザックスはアンジールに抱きついた。彼の体温が、匂いが、すべてがこんなに近くにある事がどうしようもなく嬉しくて、ぎゅっと抱きついた。
「なぁ……痛くないかな」
「ずっと眠ってるさ」
「後悔……してない?」
「してないな」
「本当に?」
「本当に」
アンジールがザックスの顔に、自分の顔を寄せる。頬を触れ合わせて、こめかみを合わせて、静かにバタフライ・キス。
震える瞼、震える睫。
少しの間だけ共に眠って、再び目覚めたその時、
世界はどんな色をしているのだろう。
Y
その無機質且つ白い部屋で、アンジールとザックスはベッドで隣り合って眠っていた。
そして、それはとても奇妙な光景だった。ふたりは頭部だけ、アクリル板でできた水槽のようなものに収まっている。その水槽のような箱の中は薄緑色の、ほんの僅かに、でも限りなくさらさらとした粘着質な液体で満たされていた。ふたりは頭部だけが、液体に浸されている状態だった。
ふたりの口には呼吸用のパイプらしきものが差し込まれ、それを固定すべく唇にはテープが貼られていた。その唇の端、テープが貼られていない僅かな隙間から、一定の間隔で小さな気泡が出る。コポコポと小さな音がした。そして、パイプが繋がれた機材からは、シュー、シューと空気が漏れるような音がしていた。それは、ふたりが呼吸をしている証拠だった。
顔面並びに頭部は、半透明のセロハン膜のようなものでぐるぐると巻かれている。あちらこちらに小さな電極らしきものが付けられ、そこから若しくは直接体内から幾筋ものコードがベッドの周辺、部屋の中に所狭しと並べられている機材へと伸びていた。色々な箇所で色々なものが点灯、または点滅していて、白衣を着た者達がそれらを念入りにチェックしては端末に何かを打ち込んだり、機材の調整を行っていた。
男がアンジールの側に立ち、液体の中に沈む友人の顔を見下ろしながら言った。
「おい、無事に終わったぞ。ふたり同時はさすがに疲れた……何せ、俺は途中で吐血したんだからな。オペ中に吐血だなんて、初めてだ」
その様を思い出したのかクククッと笑いながら、男はアンジールとザックス双方の頭上に設置されているふたつのモニターを見た。両方とも表示されたラインが規則正しい波形を描いている事を確認すると、再び顔を戻した。
「結構複雑な事をしたんだ。いいか……眼球移植ってやつはな、脳と目玉の間で視神経を繋ぐんだ。ただ玉と糸を繋ぐだけじゃない。血管や細かい筋肉、神経もすべてフルセットで繋がないと“きちんと見る”事ができない……」
男は一旦話を区切った。足元と視界がふらつく。それなりに体勢を整えて望んだが、想像以上に心身に負担が掛かっていたようだ。男の異変に気付いた彼の助手が、手近な椅子を引き寄せて座らせた。
「すまない……大丈夫だ」
「いいえドクター、あなたは吐血されたのですよ。事もあろうにオペ中に。さすがに今回は負担が大きかった……大きすぎたのです……。まずは休んで下さい。術後の経過は我々でモニターしますから」
「あぁ、そうする」
そう言いながらもその場を離れようとしない男に、彼は小さく溜息をついた。そして、再び持ち場へと戻る。
「今回は片目……右目だけだが、ふたり同時だから作業としては両目分だ。目ってのはな……、例えば目の前の物を見る時は、右目は左、左目は右を見ていて、両方が上手く合わさって立体的に物を見ているんだ。細かい筋肉の動きはお前が思っている以上に複雑なんだ……って、お前は知ってるだろうし、今俺がこんな説明しても仕方ないか。それにしても……」
男は数時間前を思い出した。
自分の掌の上に、血にまみれながらもこの世のものとは思えないような綺麗な玉を乗せた。ひとつは蒼、そしてもうひとつは碧。
嗚呼、何て美しく澄んだ「あお」である事か!!
かつての自分も、こんな色をした「魔晄の瞳」を間違いなく持っていたのだ。今はもう、その鱗片さえも残っていないのだけれど。
今ここで隣り合って眠っているふたりが望んだのは、お互いの瞳……右目を交換する事。
それはお互いに惹かれ合い、気持ちを通じ合わせているふたりが行う究極の行為であり、神聖なる誓いのような気がした。それを行う事を決意したふたりと、それを実際ふたりに施した自分。今更ながら底知れぬ恐ろしさを感じると同時に、例えようのない気持ち、敢えて名前を付けるとしたらそれは妬ましさというのだろうか、そんな感情がじわりと沸き起こって皮膚が粟立つ。
「お前といい、そいつといい……」
眠るふたりの顔を見て、男は目を伏せた。今の自分はただ全力で、回復するまで眠り続けるこのふたりを守らなくてはならない。
『…………』
その時、アンジールの指先が微かに動く。それはまるで、何かを伝えようとしているかのようだった。しかし、彼の友人は目を伏せたままで、それに気付く事はなかった。
Z
拒絶反応は皆無だった。
傷口の修復と回復はどんどん進む。あれだけの手術をしておきながらと、携わった誰もが驚くほどに。
急速な修復と回復。それはふたりにとって、ある意味当然の事だった。
彼の身体に存在していたものを、求めるように取り込むように。
自分の細胞ひとつひとつが求め合っている。ひとつになりたがっている。
彼と融合するべく。
ソルジャーの並外れた自己修復能力も作用して、ふたりは驚異的な早さで回復していった。
なぁ……もうすぐ……
もうすぐだな
一番最初に、俺を見て
一番最初に、お前を見る
隣り合って眠り続けるふたりの間には、お互いを繋ぐ意識の流れが間違いなく存在していた。
[
「もうすっかり馴染んだな」
アンジールがザックスの右目の瞼をそっと下げて、かつて自分の眼窩に入っていた眼球を見た。
「うん……アンジールも」
ザックスが同様の動作をしてアンジールの右目を覗き込む。
蒼と碧。
左右異なる色の魔晄の瞳を持った時から、ある意味自分たちは「新しく始まった」のだ。
世界が、新たな色を持って目の前に広がっている。
ふたり、ふたつの「あお」で、共に世界を見ると決めた。
「これ、邪魔くさい」
「仕方ないさ」
ザックスは掌の中にある小さなケースを見た。それはコンタクトケースだった。
普段は擬装と保護のために、右目にはお互い本来の瞳の色のコンタクトを装着している。定期的に精密検査も受けなくてはならない。手術を施した友人に「当分世話になるな」と言ったら、「当分どころか、ずっとだ」と返された。
あれこれ画策して「当たり障りのない理由」で長期の休みを取得したものの、彼と彼の助手達は自分達が回復するまで怪しまれる事なく、実験室にかくまい続けてくれたのだ。感謝してもしきれない。今後、精密検査で自分達から得られるデータでも何でも、研究に使えそうなものは使ってくれ。
こんな風にふたりきりの時は、瞳を覆う膜は取り払ってしまう。
「ザックス」
「何?」
アンジールはザックスを抱き寄せた。首筋や頬に穏やかなキスを落として、静かに額を合わせた。
「いつか……瞳の色をあんなもので、誤魔化さなくてもいい場所へ……行かないか?」
「うん、行こう……。俺、遠くが、いいな」
「そうだな」
「誰も、俺たちの事を知らない……遠い場所……。アンジールと、一緒に、」
言いながら喉の奥がキュッとして、こめかみが痛い。
凄く嬉しいのに、とても嬉しいのに。こんなに胸が切ないのは何故だろう。
ザックスはアンジールにきつく抱き締められながら、気付けば涙で頬を濡らしていた。はらはらと零れ落ちるそれはやっぱりとても綺麗で、アンジールは透明な粒を舌先でそっと舐め取った。
「お前は、俺の分まで泣いてくれるんだな……。俺も、お前と同じだ」
こんなに好きなのに、大好きなのに、愛しているのに。
寂しくなるのは何故だろう。
不意に訪れるこの寂しさをどうする事もできなくて、そんな時はただただふたり抱き締めて、離れないようにするしかなかった。
寂しさが通り過ぎるまで。
瞼を閉じても、内側に彼がいるのが分かる。この身体の中に、いつでもずっと、彼がいる。
「右目から、涙が出そうだ」
アンジールが小さく笑いながら、「お前が泣いているからだな」と言う。そんな彼に、ザックスは無言できゅっと抱き付いた。
「……ん?」
ザックスが何か言っている。でも、その声はあまりにも小さくてアンジールには聞き取れなかった。抱き付いてくる体を少しだけ離して、ザックスの顔を覗き込んだ。
「何だ、ザックス。どうした」
「……ずっと、好き」
僅かに首を傾げて見上げてくる、涙に濡れた双璧に心奪われる。愛おしい。何て、愛おしい。
「俺もだ。ずっとずっと……」
ザックスの唇に愛の言葉を吹き込んで、アンジールは腕の中の愛しい恋人をいつまでもいつまでも抱き締め続けた。
世界は、光に満ちて。
20111016