アンジールは数日掛けて、鯉のぼりの汚れを取り、破れたりしている部分を繕った。作業はザックスが寝てから、こっそりと内緒で。一度、トイレに起きたザックスに「なにしてんの?」と言われて、どぎまぎしてしまったりもした。
「これで、良し」
すっかり綺麗になった鯉のぼりを、アンジールはリビングの床に広げた。明日はもう「こどもの日」。結局ギリギリになってしまったが、ちゃんと間に合った。
「喜ぶかな」
ザックスの笑顔を思い浮かべながら、アンジールは鯉のぼりを眺めた。尾びれの部分に、小さく「ザックス」と名前が入っている。細部の確認をしてから鯉のぼりを畳むと、そっと寝室のクローゼットにしまった。
ベッドサイドの間接照明を点ける。ベッドですやすやと眠るザックスの隣に、アンジールは静かに入った。ブランケットを上げると、温かな空気がふわりとアンジールを包み込む。滑らかで柔らかい頬に指先で触れると、ザックスは「んー」と声を漏らした。
「おやすみ」
優しく抱き締めるようにザックスの体に腕を回して、アンジールは瞼を閉じた。
「できゆもんねー」
小さなザックスは鼻歌を歌いながら、もそもそとパジャマを脱ぎだした。
アンジールが朝食の準備をしている間、ザックスはリビングで着替えをしているのだ。ちゃんと着替えられているか、アンジールが時折キッチンから覗き込む。
『よしよし、ちゃんと出来てるな』
カットソーに首を突っ込んでいるザックスを確認して、手元に視線を戻す。頃合いを見計らってコンロからフライパンを下ろし、スクランブルエッグを皿に乗せた。ウィンナーは少し手を加えて、タコの形に切ってある。ザックスがお気に入りの「タコさんウィンナー」だ。
もう一度リビングを覗くと、ザックスはテレビに釘付けになっていた。カットソーは着たものの、下はパンツ一枚のままだ。アンジールが声を掛けようとした時、ザックスがくるりとキッチンの方を向いて叫んだ。
「きょう、こいのひー!!」
そのままパタパタとアンジールの元に駆け寄ってくる。どうやらニュースで「こどもの日」の話題を流したらしい。確かに今日が「こどもの日」だった。
「ねー、こいはー?」
ザックスがアンジールの足にしがみつき、小さく跳ねながら見上げてくる。アンジールはしゃがみ込んで、ザックスの頭を撫でた。
「大丈夫、ちゃんと来るさ。でもほら、きちんと着替えないと。パンツのままだと、来てくれないかもしれないぞ」
「あーっ!!」
ザックスは少し恥ずかしげに「えへへ」と笑うと、再びリビングに戻った。そして鼻歌を歌いながら、もそもそとズボンを履き始める。
「やれやれ……」
アンジールは小さく笑いながら、トレーの上にふたり分の朝食を乗せた。
楽しくて美味しい朝食を済ませ、アンジールは洗い物を終えた。ザックスはリビングで、子供向けのテレビ番組を見ている。さっきから一緒に歌ったり、体を動かしたりしていた。本人は物凄く一生懸命で、それが見ていて面白い。
『今のうちに……』
アンジールはそっと寝室へ入った。クローゼットの中から例の鯉のぼりを取り出すと、ベッドの上に広げた。
「あーんじーゆー」
リビングからザックスが呼ぶ声が聞こえる。アンジールは慌てて寝室を出ると、静かにドアを閉めた。すぐに返事をして、リビングに入る。
「どうした、ザックス」
「みてー」
そこには何やらポーズをとったザックスがいた。どうやら体操の時間らしい。テレビの中で、お兄さんが同じポーズをしている。
「上手いな、ザックス。うん!!」
アンジールは褒めて、拍手をした。ザックスが満足げな顔で、抱き付いてきた。
『体を動かす事は、得意だもんな』
本来の彼を思い出しつつ、今は自分に抱き付いてくる小さな彼を、愛おしげに抱き締めた。
お昼過ぎ。
ザックスは眠たいのか、ラグマットの上でごろごろしながら、小さな手で何度も目を擦った。
「眠いのか?」
「んー」
どうやら少しご機嫌斜めらしい。しかめっ面になっている。
「ほら、おいで」
アンジールが両腕を伸ばして抱き上げようとすると、ザックスがしがみついてきた。抱きながら優しく背をぽんぽんと叩くと、ザックスはアンジールの胸に頭を擦り寄せた。そのまま寝室へ運ぶ。
アンジールが寝室のドアを開けて、ザックスにそっと話しかけた。
「ザックス、」
「んー」
アンジールの胸に顔を埋めたままだ。
「ほら、来たぞ……。鯉のぼりが」
「ふぇ?」
ザックスが顔を上げて、部屋の中を見た。そこには、ベッドの上に横たわる青い鯉のぼりが。アンジールが下ろしてやると、ザックスがベッドに駆け寄る。まじまじと眺めて、くるっとアンジールを振り返った。
「こい、きた……」
相当驚いているのか、何だか間の抜けた呟きだ。鯉のぼりとアンジールを交互に見る。
「良い子にしてたからだな。良かったな、ザックス」
アンジールが微笑むと、ザックスはみるみるうちにその顔を満開の笑顔にした。
「あんじーゆー!! こいきたー!!」
そして、アンジールに飛びついた。一頻り喜びを表現すると、ザックスは鯉のぼりに掛かりっきりになる。
「ながーい!!」
鯉のぼりの頭の方を掴んで、ベッドからずるずると引きずり下ろす。そのまま寝室を出て、鯉のぼりと一緒にリビングまで歩く。ずるずる、ずるずる。ザックスにくっついて、部屋の中を泳ぐ鯉のぼり。
リビングのラグマットの上に、ザックスはせっせと鯉のぼりを広げようとする。頭の方を引っ張っては、尾びれの方を引っ張り、また頭の方を引っ張る。何度か繰り返して、鯉のぼりは綺麗にラグマットの上に広がった。
「こーい!! ザッくんも、こいー!! ひらひらー」
鯉のぼりの隣にごろんと寝転がって、手足を伸ばす。ちらっとアンジールの方を見ては、目で「どう?」と聞いてくる。
「一緒に鯉のぼりだな。上手いぞ、ザックス」
ハッキリ言って、どう褒めたらいいのかアンジールにも微妙なところだが、当の本人はアンジールに褒められて大喜びで手足をピコピコと動かしている。
全く以て、見ていて飽きない。
ザックスは鯉のぼりの端に横たわり、ごろごろと転がる。すると鯉のぼりは、するするとザックスの体に巻き付いた。あっという間に『ザックスの鯉のぼり巻き』が出来上がる。思わずアンジールが大笑いすると、ザックスもつられて大笑いした。
「ねー、みてみてー、あんじーゆー」
トイレから戻ったアンジールが目にしたのは、鯉のぼりの頭の方から自分の頭を突っ込んで、足をばたつかせているザックスだった。まるで、鯉のぼりに食べられているようにしか見えない。滑稽なようだが、ザックスがやると可愛い以外の何者でもない。
「ザックス、鯉のぼりに食べられているみたいだぞ」
「きゃあー!! ザッくんねー、たべられたー」
自分で大笑いしている。こうして日が暮れるまで、ザックスは青い鯉のぼりと一緒に遊び続けた。
そう、今日は「こどもの日」なのだ。
20120503/初出20100502