それから数日後の、ある日。
アンジールはザックスを抱きながら、買い物袋を下げて街中を歩いていた。買い物の前に公園へ行って遊んだら、思った以上にはしゃいでしまったのか、ザックスは疲れて眠たくなってしまった。眠たいけれどもう少し遊びたい、でも部屋にも帰りたい、そんな色んな気持ちがごちゃ混ぜになって、ザックスは少しだけぐずった。駄々を捏ねてみたり、アンジールの事をちょっと叩いてみたりした。でも、アンジールが優しく抱き上げてあやすうちに、小さな寝息を立てながらすっかり眠ってしまったのだ。
『疲れてしまったんだろうな』
胸に高めの体温を感じながら、アンジールが一件の店の前を横切ろうとした時。ふと目に留まったものがあり、アンジールは足を止めた。どうやらここは骨董品店らしい。ちょっと覗いた店の奥は、所狭しと物が並んでいる。店の入口付近、台の上にも何だか色々な物が並べられていた。その中で、多少大雑把に畳まれて並べられている、色鮮やかで独特の模様の布。
それは、青い鯉のぼりだった。
アンジールは買い物袋を床に置いて、片手で鯉のぼりを広げようとしたら、店の奥から店主らしき初老の男性が出てきた。
「ちょっと珍しいでしょう。多少痛みがありますが、飾るには充分ですよ」
男性はゆったりとした口調で話ながら、鯉のぼりを広げて見せた。長さは二メートル程だろうか。良く見ると所々が汚れ、擦り切れたりしている。きっと今まで何度も青空を泳いで来たのだろう。
男性に値段を聞くとそんなに高くはなかったので、アンジールはその鯉のぼりを買う事に決めた。代金を払おうとしたら、男性がザックスの寝顔を覗き込んで、「この可愛い寝顔にオマケだ」と笑いながら、少しだけ安くしてくれた。アンジールはザックスをそっと抱き直しながら、「有り難うございます」と笑った。
「ただいま、と」
部屋に帰ったアンジールは玄関に荷物を置いたまま、ザックスを寝室に運ぶ。そっとベッドに寝かせてやると、ほんの小さな寝言がむにゃむにゃと聞こえた。ブランケットを掛けて、アンジールがザックスの掌にそっと触れると、無意識に指先をきゅっと握り締めてくる。それがとても可愛らしくて、アンジールは暫しベッドサイドでザックスの寝顔を見つめた。
くるくると良く動く大きな瞳は、今は瞼の裏にその姿を隠している。その碧い瞳は、紛れもないザックスの魔晄の瞳。本来のザックスもそうだが、小さいザックスは一層感情の表現が激しい。喜怒哀楽を全身で表現する。
屈託のない笑顔で「大好き」と叫び、必死にしがみついてくる姿は胸がきゅんとしてしまう位だ。逆に、癇癪を起こして大泣きする事もしばしばで、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら強がったりするものの、結局はアンジールにしがみつく。
アンジールにとって、「可愛い事、この上なし」だった。
『ザックス……』
その小さな額に掛かる前髪を退けると、小さくキスをした。くすぐったかったのか、ザックスは「ふふ」と笑うと、もぞもぞと寝返りを打った。握り締めてくる指先をそっと解いて、アンジールは寝室を後にした。
「あんじーゆー」
おやつのホットケーキを前にして、ザックスは隣に座るアンジールを見上げた。今日のおやつは、焼き立てのホットケーキ。アンジールが焼くホットケーキはフワフワで美味しくて、ザックスがお気に入りのおやつだ。いつもなら出されると真っ先に食べ始めるのに、今日は違う。
「どうした? ホットケーキ、欲しくないのか?」
アンジールがその顔を覗き込むと、ちょっと不安そうな顔でザックスが「あんねー」と話し始める。
「こい、くる? ザッくん、こいしたい」
どうやら鯉のぼりの事が気になっているらしい。アンジールがザックスの小さな頭を撫でる。
「鯉のぼりか?」
「うん、こいのぼいー」
「ザックスがお利口にしてたら、来てくれるさ。俺もお願いしておいた」
アンジールが小さくウィンクをすると、途端にザックスの目がキラキラと輝き始める。
「ほんと? あんじーゆ、おねがいしたのー? こいー」
「あぁ、お願いしたさ。『良い子にしているザックスのところへ、来て下さい』ってな」
ザックスが「きゃあ」と叫びながら、アンジールの膝の上によじ登る。もうホットケーキはそっちのけだ。
「ザッくん、いいこにしてたら、こいくるー?」
「あぁ、来るさ」
「うん!!」
胸にぎゅっとしがみついてくるザックスを、アンジールは優しく包み込むように抱き締めた。可愛くて愛しくて、大事なザックス。それは彼が大きくても小さくても変わらないのだ。
「良し。じゃあ、ホットケーキ食べような。今日も美味しく出来たぞ」
ザックスを再び隣に座らせて、アンジールはメープルシロップをホットケーキにかけた。甘い香りが辺りを漂う。
「ザッくん、ほっとけーき、しゅき!! んで、んで」
「ん?」
「あんじーゆも、しゅき!! だいしゅきー!!」
「俺もザックスが大好きだ」
ニコニコのザックスの口元に、アンジールは小さく切ったホットケーキをフォークに刺して寄せた。「あーん」と口を開けて、ザックスがもぐもぐと食べる。
「おいしーねー」
口の周りにメープルシロップを付けながら、ザックスが笑う。アンジールも笑った。
ホットケーキをすっかり食べ終えると、ザックスは皿の上に滴となって垂れているメープルシロップを小さな指先で掬った。ぺろりと舐めて、「あまーい」と呟く。
「こら」
アンジールの声をよそに、ザックスは再びメープルシロップを指先で掬うと、おもむろにアンジールに差し出した。
「あんじーゆもー」
小さいながらも、有無を言わせない眼差しでアンジールを見つめる。アンジールはザックスの指先を、小さく舐めた。
「あまいー?」
「甘いな」
満足したのか、ザックスは「ごちそーさまー」と元気に言った。
時折ザックスは、アンジールの心を小さく掻き乱す。それは、本来のザックスを強烈に思い起こさせるのだ。
以前、本来の彼がああやって指先で蜂蜜を掬って、自分に差し出してきた事があった。酷く艶めいた顔で、熱くそっと。思いの外恥ずかしがり屋のくせに、時折信じられないくらい大胆になる時があって、アンジールにはその落差が堪らなかった。
差し出された指を舐める時にそっと見た彼の表情は、うっとりと恍惚のそれに満ちて、アンジールの情欲を激しく揺さぶるのだった。
そんな事を思い出しながら、アンジールはラグマットの上でごろごろと転がっているザックスを見遣る。
『無垢ゆえに、ドキリとするな……』
どことなく微かに頬を赤くしながら、アンジールは空になった皿をトレーに乗せた。
20120503/初出20100502