●おかえり●
お前、ザックスだろ?
うん。ザッくん?
あぁ。俺、ザックス。お前……俺だろ?
……うん。ねー、ザッくんは、おっきくなったザッくん?
何だかややっこしいな。でも、俺はお前が大きくなった姿だ。分かるだろ?
……うん。ザッくんわかゆ……しってゆもん……。
ねー、あんじーゆのこと、しゅき?
え? あぁ、好きだよ。
だいしゅき?
大好き。お前もだろ?
うん、だいしゅき……。
だよな。
…………。
どうしたんだよ。
……あんねー、はやくいってー。
え?!
まってゆから。
誰が?
あんじーゆ。
アンジール?
うん。ザッくんねー、もうかえゆの。だから、はやくいってー。
帰る? でもお前、一人で大丈夫なのか? 帰れるのかよ。そもそも、何処だか分かるのか?
……へーき。ザッくん、へーきだから。はやくー。
あ、うん。でも……、
あんじーゆ、まってゆ。もーっ、はやくいくのーっ!!
ん、分かった。俺、行くな。……ありがとな。
オムライスにケチャップ。ハンバーグにもケチャップ。おやつのアップルパイにプリン。それからそれから……。どれも美味しくて大好き。
この青いパーカーでお出掛けした。公園にも行った。一番好きな色は、青色。
「あひゆしゃん、わしゅれた……」
お風呂場でぽつんと、寂しがっているかもしれない。でも、きっとアンジールがお風呂に浮かべてくれるから、大丈夫だよ。ザックスは小さく笑った。
大好き。大好き大好き大好きだもん。
アンジールが大好きだと思ったら、目がじわっと熱くなった。小さな滴が溢れた。
「ザッくん、つおいもんねー。なかないもん……」
ズズッと鼻を啜って、小さく息を吐いた。
体が酷くフワフワしてる。温かくて、まるでお風呂の中にいるみたいだった。
とってもとっても眠たくて、ザックスは小さな体を丸めて目を閉じた。
「あったかい……あんじーゆみたい」
小さく呟いて、そっと微笑んだ。
「う、ん……」
ザックスは、ほんの少しの息苦しさで目を覚ました。目の前には、アンジールの寝顔。彼の腕が、自分の体に包み込むかのように回されていた。それはまるで、何かから自分を守るように。指先が握られている。ザックスがそっと握ると、アンジールが気付いた。
「ザッ、クス……?」
少し掠れた声で、確かめるように名前を呼ばれた。
「うん」
アンジールの腕が解かれて、ゆっくりと頭を撫でる。そのまま、するりと頬に触れた。
「お前……」
ようやく頭がはっきりしてきたアンジールは、ベッドの上に起き上がった。ザックスも続いて体を起こす。彼はブランケットを小さく持ち上げた。
『何で俺、素っ裸なんだろ……』
パジャマはともかく、下着まで着けていないだなんて。疑問を感じながらも、アンジールの方を見た。蒼い瞳が、じっと自分を見つめている。
目の前にいるザックスは、子供ではなくて、紛れもなく青年の体つきをしていた。まだ全体的に細さはあるものの、肩から腕に綺麗に流れるように筋肉が付いている。身長も自分より僅かに低いだけ。何もかもが小さかったザックスとは、まるで正反対だ。
自分をじっと見つめる視線に気恥ずかしさを感じたのか、ザックスは頭を小さく掻いた。
「俺、どうしてた? ずっとずっと、眠っていたような気がするんだけど……」
アンジールの表情に、驚きのそれが加わる。
「何も、覚えていないのか?」
「う、ん……」
ザックスは思い出そうと試みるものの、さっぱり何も出てこない。
「何か、夢を見た。小さい頃の自分が出てきた」
目覚める直前に見た夢なのか、それともずっと前に見た夢なのか、ザックスには分からなかった。でも、夢を見た事は確かにはっきりと覚えている。
アンジールがザックスの体を引き寄せた。枕を背当て代わりにして、ベッドの上でふたり寄り添う。
「どんな夢だったんだ?」
アンジールがザックスの指先を手にして、そのまま静かに唇で触れた。確かに触れて感じたあの小さな指先が、今はまるで嘘のようだった。同じ彼の指先なのに。
「うん……、俺に『アンジールが待ってるから、早く行け』って言ってた」
「そうか……」
「俺ら、お互いに『アンジールの事大好き』って」
ザックスは目を細める。小さな自分が、彼を大好きと言った時のあの表情。小さくても凄く真剣な表情だった。でも、ほんの少しだけ寂しさを漂わせていた。
アンジールは目を伏せる。瞼の裏に、眠る直前の小さなザックスの姿が鮮明に浮かび上がる。あの、柔らかな笑顔。天使みたいな笑顔。
アンジールは迷った。でも、思い切って聞いてみた。
「小さいお前……、どんなだった?」
「笑ってたよ。でも、少し寂しそうな顔、してた……」
言いながら、ザックスはいつの間にか涙を零していた。透明な滴が、ぽろっと目縁から零れ落ちる。一粒、また一粒。ぽろぽろと零れ落ちる涙。何故自分が泣いているのか分からなくて、ザックスは戸惑う。
「あ……れ? 俺、ど……して」
「ザックス」
アンジールは彼を、そっと胸に抱き寄せた。アンジールは静かに涙を流すザックスの肩を抱きしめ、彼のこめかみに唇を寄せた。
もしかしたら、あの時の小さなザックスは、とてもとても寂しかったのかもしれない。
『……ザッくんね、もうしゅぐ、かえゆ』
健気にも笑っていた小さなザックス。こうして本来のザックスを連れて来てくれたけれど、お前はひとり、何処に行ってしまったんだ?
あんなに笑って、泣いて、そして怒って。小さな体で精一杯自分を表現して、俺に何度も「大好き」と叫んで。
まるで、眩しい光。
「忘れないさ。いつも、ずっと一緒だ……大好きだ」
ザックスは分かった。これは、小さな自分に向けられたアンジールの言葉。自分を連れ戻してくれたのは、あの小さな自分。夢の中で、小さな手を伸ばしてくれた、自分。
「ありがと……」
ザックスは何度も何度も、「有り難う」と呟いた。アンジールと、小さな自分に。そんなザックスをアンジールは、ずっと抱きしめ続けた。
後日。
リビングには色んなものが並べられていた。その脇には、少し小振りの衣装ケース。
「うおっ!! うさぎ耳が付いてる。これ、可愛いなー」
ザックスは黄色いうさぎ耳付きパーカーを手にしながら、まじまじとそれを見ていた。
「可愛いよな。小さなお前に着せたら、物凄く喜んでた。『うしゃたん』だそうだ」
「うしゃたん……」
思わずポツリと呟いた。
小さなザックスが使っていたものは、こうしてアンジールの手元に残ったまま。アヒルもバスルームに残ったまま。ただ、小さなザックス本人だけがいなかった。
「なぁ、小さな俺に……、青いパーカー着せてた?」
「あぁ、着せてたぞ。そこに一緒にあるだろ?」
ところが、アンジールが衣装ケースの中を探しても、色鮮やかな青色のパーカーが見あたらない。
「……おや? ある筈だが……」
ザックスは、衣装ケースの中を探るアンジールの背中にそっと抱き付いた。そして、額を背中に当てながら「あいつ、それ着てた」と言った。言ってから、何故か胸の奥がきゅっとした。
それはきっと、小さなザックスが感じた寂しさ。大好きなアンジールと離れなければならなかった、あいつの胸の痛み。多分、きっと何処かで、俺達は繋がっている。だから今、こうして胸が痛いのだ。あいつが感じている寂しさと切なさが、静かに緩やかにこの胸に流れ込んでくるのだ。
「ザックス……」
アンジールが振り返り、ザックスをふわりと抱き締めた。額にそっと唇を当てる。
「信じられないけれど……、あいつを、夢まぼろしに……、しないで」
「そんな事しないし、思ってもないさ……」
説明出来ない。証明出来ない。でも、小さなザックスは確かにいた。片時も自分の側から離れず、小さな手で必死に抱き付いてきたのだ。それを、「夢まぼろし」にしてしまう事は、小さなザックスを消してしまう事。そんな事、出来る筈がなかった。
「あいつが、お前を連れ戻してきてくれたんだ。小さいのに、ちゃんと分かってたんだな……」
「うん」
「あいつに会えて良かった。楽しかったぞ」
「ありがと」
そして、ザックスは柔らかく笑った。弾みでポロリと涙の滴が零れる。今、とても嬉しかった。きっと、あいつが嬉しいんだ。
『ありがとー』
舌っ足らずの声がどこからともなく聞こえた気がして、アンジールは無言で頷いた。
大きくても小さくても、ザックスはザックスなのだ。同時に存在しないふたりを共に抱き締めるように、アンジールは腕の力を少しだけ強めた。
20100724