彼の肩越しに見た風景は、一体幾つだろう。
天井。
寝室。リビング。浴室。何度か泊まった事のあるホテル。一度だけ行ったホテル。朽ちかけた小屋。
車のルームライト。
青空。白い雲。曇り空。夕暮れ。星空。満月に三日月。
降り注ぐ雪。
満開の桜。散り落ちる花弁。
木漏れ日。青葉。風に揺れる枝。
青い水面。幾つもの泡。
瞼を閉じると、いつも唇にキス。
額に掛かる彼の髪の毛が、少しだけこそばゆい。
彼の肩越しに見た風景は、どうしてこんなに色鮮やかなのだろう。
いつまでも、いつまでも。
「そろそろ休憩しない?」
ザックスがチラッと運転席のアンジールを見た。アンジールが頷きながら、目視とミラーで前後を確認する。相変わらず車の影は見えなかった。対向車と擦れ違ったのは、一体いつが最後だっただろうか。
路肩にゆっくりと車を停止させると、エンジンを切って外に出た。ザックスは体を伸ばしながら、大きく息を吸い込む。緩やかな風が心地好く頬を撫でた。太陽は空の一番高いところを過ぎて、ゆっくりと西に向かい始めていた。
「飲むか?」
「うん」
ボトルに入った水で喉を潤したアンジールが、ザックスにボトルを手渡す。ボトル内の水に反射した光が、一瞬地面にキラリと走った。
行き先を決めないドライブ。行きたい場所があるのではなくて、「一緒にいる」という事が大切なのだ。車は自分達にとって、一番手軽な移動手段だった。それと同時に、ある時はカフェや食堂にもなったりした。
誰にも邪魔されない、ふたりだけの小さな密室でもある。
列車も嫌いではないけれど、どうしても移動以外に時間を裂かねばならず、行動にも制限がかかってしまう。でも車なら、好きな時に移動して、好きな時に止められる。荷物もそれなりに積める。当たり前だが、必ずどちらかが運転しなくてはいけないが、アンジールもザックスも運転する事は嫌いではなかった。長時間のそれも、苦にならない。むしろ、好きかもしれなかった。
「交代で運転する」と決めているけれど、殆どアンジールがハンドルを握っている。当初、ザックスはそれが少し不満で、「俺だって免許持ってるんだ」とアンジールに詰め寄った。
『自分だって、運転出来る。だから、疲れたらちゃんと交代して欲しいし、休んで欲しい……』
少し拗ねながら俯いたザックスの頭を一撫でして、アンジールは「分かった」と頷いた。でも、交代する事は殆どなかった。それには訳がある。
運転席から見るザックスが、実は結構好きなのだ。
さすがに運転中はずっと見る訳にはいかないが、サイドミラーを確認する際にチラッと見る彼の横顔。嬉しそうに笑っていたり、ぼんやりと窓の外を眺めていたり、瞼を閉じて小さな寝息を立てていたり。
たまにタイミング良く目が合ったりすると、恥ずかしげに顔を逸らしたり、かと思えばはにかむように笑ったり。そんなザックスが、アンジールにはとても愛しかった。
「なぁ、あの大きな木の下で休憩しようよ」
ザックスが指差した方向に、少し大きめな木が立っていた。根元には涼しそうな木陰が出来ていて、休憩するには丁度良さそうだった。ところどころ地面が黄色やピンクに色付いているのは、背の低い花でも咲いているのだろうか。
アンジールは車の中から小振りのバスケットを出して、一足先に木へ向かって小走りしているザックスの後を追った。
緑の絨毯の上に、ザックスが座る。枝の隙間から零れ落ちた小さな光の粒がキラキラと揺れて、まるで水面に反射しているかのようだった。
隣に座ったアンジールが、持ってきたバスケットの中から何やら取り出し始める。風呂敷包みのようなものを出してザックスに手渡すと、彼は楽しそうに結び目を解き始めた。
中から出てきたのは、ペーパーナプキンに包まれたベーグル。それらを包んでいたクロスをそのまま草の上に敷くと、その上にアンジールがバスケットの中身を並べ始めた。
プラスチック製の食品用保存容器。調味料らしき液体の入った小さな瓶。それに、カトラリーセット。今日の昼食だ。
アンジールがナイフでベーグルを半分に切る間、ザックスは保存容器の蓋を開けて、フォークやスプーンを添える。ハムとチーズ、トマトのスライスとオニオンのマリネ。小瓶にはバジルソース。そして、バターと蜂蜜。
「先にほうれん草の方で良いか?」
「うん、勿論」
緑色のベーグルには、ほうれん草が練り込んである。今日のベーグルは、ほうれん草とプレーンの2種類。半分にスライスしたベーグルの切り口に、アンジールがナイフで手際よくバターを塗る。いつもながらの無駄のない鮮やかな手付きに感心しながら、ザックスは差し出されたベーグルを受け取る。保存容器の中の具を順番に乗せて、最後に少しだけバジルソースをかけてベーグルを乗せると出来上がり。
ザックスは満足そうに微笑むと、ペーパーナプキンの上にベーグルサンドを置いた。
「ザックス、食べてて良いぞ?」
「うぅん」
2つ目のベーグルにバターを塗り終えたアンジールの手からベーグルを奪うと、同様に順番に具を乗せていく。違うのは、オニオンのマリネを少し多めに乗せた事。アンジールはオニオンのマリネが好きなのだ。
「どうせなら、一緒に食べよう」
一番上にベーグルを乗せて、目の前の彼に差し出した。アンジールは思わず顔を寄せて、その滑らかな額にキスをした。
外で食べる食事は、いつもより更に美味しく感じる。アンジールが作ったベーグルは、いつしかザックスの好物になっていた。生地に練り込む食材によって、色々な種類のベーグルになる。ブラックペッパーやチーズ、南瓜の種に胡桃、チョコチップやレーズンにシナモン……。普通のパンより腹持ちが良いので、ドライブの時には必ずベーグルを作った。
「やっぱり美味しいな、こうして食べるのって」
ザックスが口の端にバジルソースを付けながら、笑った。
「外で食べるからだな」
「それもそうだけど……」
不意に視界の隅で何かが揺れる。それはアンジールの腕で、伸びてきた指先が顎に触れると、親指で口の端を拭われた。アンジールはそのままペロッと親指を舐めて、「一緒だからだな」と言って笑った。ザックスは胸がきゅんとした。
プレーンのベーグルには、蜂蜜をたっぷりと塗って甘いデザート代わり。アンジールがふたつのカップに、ポットからコーヒーを注いだ。ザックスの分にはミルクを加える。
「蜂蜜って、どうして……こんなに、甘いのかな」
ザックスはもごもごと口を動かしながらも、さすがに掌で押さえながら喋る。
「蜜だからだろ」
「それはそうだけどさー」
ふたりしてクスクスと笑った。こんな何でもない会話が、とてもとても大事だった。
『そろそろかな』
アンジールがコーヒーを飲み、頭上の木の枝を見上げながらぼんやりと思う。
「なぁ……」
『ほら、やっぱり』
アンジールの予想通りだ。もうこれは、お約束というかザックスの癖というか。何でもないふりをして彼の方を向くと、目の前に指先が差し出されていた。蜂蜜を掬い取った指先が。
「何だ?」
「蜂蜜……、好き?」
微かに頬を染めながら、ザックスが囁く。毎回同じなのに、毎回ドキリとしてしまう。しかしアンジールは、うっすらとほんの少し意地の悪い、でも何処か楽しげな笑みを浮かべた。
「好きさ」
「なら……、ねぇ」
「ん?」
「…………」
ザックスが焦れるように微かに眉を顰めた。いつもならアンジールはすぐに舐めてくれるのに、今日は指先に触れようともしない。蜂蜜を塗った指先を、熱い舌先で舐めて欲しいのに。
その時、ふたりの周りに何処からともなく一匹の蝶が飛んできた。白い翅をひらひらと羽ばたかせて、ザックスの頭上を回り、まるで蜂蜜の甘い香りに惹かれるように指先に止まった。
ザックスがそっと目を細め、指先に止まった蝶を見て、そのままアンジールの顔を見た。碧い双璧が揺れている。
「先、越されちゃったね」
アンジールは目の前の手首を掴む。蝶がふわりと飛び立つ。指先に濡れた熱さ。舌先に溶けるような甘さ。
「……ん」
指の腹を舌先で舐め上げると、ザックスは小さく息を飲んだ。そのまま緩く吸うと、切なさを含んだような吐息が唇から漏れた。
ちゅっと音を立ててアンジールの唇が、ザックスの指先から離れる。ザックスは濡れた指先を眺めて、自分の口に含んだ。
「まだ甘い」
「十分に舐めたつもりだったんだけどな」
束の間の熱さに酔って、ふたりは満足げにクスリと笑い合った。
軽く食事をして落ち着くと、ザックスは周りを見てくると言って立ち上がった。アンジールはそのまま、草の上に仰向けになった。柔らかい草の感触と時折吹く優しい風が心地好くて、そっと瞼を閉じた。音はすぐに遠退いていった。
「…………」
隣に気配を感じて目を開けると、ザックスが座っていた。どうやら眠ってしまったらしい。恐らく十分程度の時間だろうとは思うが、長く眠ってしまった感じがした。
「ザックス」
「あ、起きた。戻ってきたら寝てたよ。次、俺運転するよ」
起き上がろうとしたら、「ダメ。せっかくしたのに」とザックスに制された。アンジールが何の事だか分からずにいたら、仰向けになったままの彼を覗き込みながら、ザックスは彼の髪の毛にそっと触れた。何かを摘んだようだった。
「ほら、可愛いよな。あっちに沢山咲いてた」
目の前にピンク色の小さな花が現れる。ザックスは楽しそうに笑いながら、「寝てる間に飾ったんだ」と言った。ゆっくりと掌で頭に触れてみると、確かに花らしきものが幾つも乗せられているようだった。
「全くお前は」
当然ながら怒る気なんてさらさらなくて、むしろこんな可愛い事をした彼に愛しさが込み上げてくる程だった。
「なぁ、もう一度寝てみて」
「そうは言っても、もう目が覚めてしまった」
「うーん……、じゃあ、寝たふりで良いからさ」
アンジールが再び瞼を閉じる。ザックスは確認するように、閉じられた瞼の前で掌をひらひらとさせた。
そして、覆い被さるようにして、アンジールの唇に自分の唇を重ねる。
ほんの小さく舌先で彼の唇を舐めて、顔を上げようとしたら出来なかった。いつの間にかアンジールの腕が頭の後ろに回されていて、そのまま抱き寄せられて反転させられる。
見上げると、彼がいた。蒼い瞳が自分を優しく見下ろしていた。
「今日は可愛い事を沢山してくれるな」
「そう、かな。……嫌だった?」
「全然。むしろ、大歓迎だ」
ザックスの額に、アンジールがちゅっとキスを落とす。
「やっぱり、こっちの方が好きかも」
ザックスが自分の脇に突いているアンジールの腕に触れながら言った。
「こっちの方って、見上げる方って事か?」
「うん。アンジールは?」
「そうだな……俺は、どっちも好きだ。お前なら、見上げられても見下ろされても、どっちでも良い」
「うん……俺も」
こめかみに唇を押し当てられる。目尻や頬、耳の近くを彼の唇が滑る。時折響く、ちゅっという音がザックスの鼓動を心なし早めた。
「何が見える?」
「え?」
アンジールがザックスの周りに落ちている小さな花を摘んで、彼の頭にひとつずつ乗せながら聞いた。
「俺の肩越しに、何が見える?」
緩く繰り返される戯れのキスにすっかりぼーっとして、どうやら自分はぼんやりとしていたらしい。恥ずかしさと申し訳なさで胸が微かに痛んだ。そんな自分の気持ちを敏感に読み取って、アンジールが耳元で「気にするな」と囁いた。
「やっぱり俺……、見上げる方が好き」
「どうしてだ?」
「……言ったら多分、笑うよ。いや、情けないって怒るかも」
「でも、例えそうでも、それがお前の理由なんだろ?」
「うん」
「なら、笑わないし怒らない」
「……あのね、」
ザックスは少しでも恥ずかしさから逃れるように、アンジールが見下ろす中、その瞼を閉じた。そして、彼の腕をきゅっと掴んで、小さく息を吸った。
「守られてるみたいで、大きく包まれてるみたいで……好きなんだ。何だかとても、安心するんだ……」
「…………」
黙ったままのアンジールが気になって、ザックスはゆっくりと瞼を上げた。彼は変わらずに自分を見下ろしていた。海のように深く蒼い瞳で。
「可笑しい、かな?」
そう言った次の瞬間、可笑しくなかった事が分かった。アンジールが小さく首を横に振りながら、とても嬉しそうな顔をしたから。ともすれば、泣きそうな笑顔だったから。
アンジールの唇がザックスのそれに近付く。今にも触れそうな距離で、そっと囁かれた。
「お前を、守る……ずっと、いつまでもずっと」
「うん。でも俺も……、あんたを守る。今はまだ、頼りないだろうけど」
「そうだな」
「……ひでぇ」
小さな苦笑いの後、甘い口づけを交わす。微かに花の香りが鼻腔を掠めた。
空は青くて、零れ落ちた光の破片が煌いて。彼の肩越しの風景は、今日も色鮮やかに俺の心に焼き付いた。
* * *
見下ろすより、見上げる方が好きだって言ったのに。
俺はまだ、そんなに強くない。
今だって、嗚咽を抑えるのに必死なんだ。
「目、開けろよ……俺を見上げろよ」
重ねた唇はまだ温かいのに。
なぁ、どうして。
20100925