雪って、羽根みたいだと思ったんだ。
「なぁなぁ!! 雪って凄く綺麗だな!」
「そうだな」
「俺、こんなに沢山の雪見るの、初めてだっ!!」
ザックスは雪原を見渡しながら、少し興奮気味に話した。
本格的な寒冷地での任務は今回が初めてだった。着慣れない防寒具に身を包み、雪の上を歩く感触を楽しむ。
任務中であるにも関わらず心躍るのは、雪の降らない地域で育ったザックスには仕方のない事。アンジールは少し困ったように笑いながらも、自分の感情を素直に表現するザックスに今日ばかりは、説教じみた事は言わなかった。
目の前には、何処までも続く雪の世界。何もかもが白と銀、少しの灰色で塗られたモノクロの世界。空はどんよりと厚い雲で覆われ、日差しの差し込む気配はない。
冷えた空気が辺りを凛と支配して、大きく息を吸い込むと肺が凍り付いてしまいそうだった。でも、今のザックスには心地好くさえ感じられた。
今は雪は止んでいるが、少し前までちらちらと小雪が舞っていた。山の天気は変わりやすく、降ったり止んだりを繰り返す。
「凄いなぁ……」
自然が織り成す幻想的な風景に、ザックスの口からは在り来たりの言葉しか出てこなかった。
獣の足跡ひとつない雪原。そこに自分の足跡を刻む。ブーツ越し、初めての感触。
さらさら、さらさらさら。
「はしゃぎすぎて、転ぶなよ」
「平気だって!! わっ、」
短い叫び声と共に、アンジールの視界からザックスが消えた。
「ほらみろ」
真新しい足跡を辿って行くと、ザックスが新雪の中でうつ伏せに倒れていた。
冷たくはないのだろか。なかなか起き上がってこない。まるで全身で、雪の感触を楽しんでいるみたいだった。
「風邪引くぞ」
アンジールはザックスの腕を掴むと、グイッと引き上げた。その顔は頬が上気していて、髪の毛にもあちこち雪が混じっている。
「雪って、さらさらしてて気持ち良いのな」
しゃがみ込んで雪を手にする。指の間から音もなく零れ落ちた。ザックスは雪を宙に投げるようにした。僅かに風に乗って、いつしか消えた。
「ここの地域の雪質がそうなんだ。場所によっては溶けかけのように、べしゃべしゃな雪もある」
「へぇ、そうなんだ……」
一口に雪と言っても色んな種類がある事を知って、ザックスは感心したように何度も頷いていた。
「あ、そうだ」
ザックスは楽しい事を思いついたように言うと、数歩移動して真新しい雪の上に立つ。そしてゆっくり両腕を上げると、仰向けにひっくり返った。ふわんと雪が舞う。
「お前……、本当に楽しいんだな、雪が」
アンジールがザックスの足元に立って、彼を見下ろした。
「うん、楽しい。でも、ちゃんと仕事もするから、あと少しだけ……、な?」
ザックスが少し申し訳ないような顔で、それでも同意を求めるようにアンジールを見上げた。また少し、雪が降ってきた。
「あぁ、分かってる。だが、風邪は引くなよ。適当なところで止めておけ」
「うん。あ、ほらまた、雪……」
「本当だ」
アンジールはザックスの視線の先を追うようにして、空を見上げた。
静かだった。静か過ぎて、まるで何もないみたいだった。
暫しふたりで空を見上げ、自分達に向かって舞い落ちる雪を見る。どんどん降り注ぐ雪。小さくて軽くて、儚くて。まるで羽根みたいな雪。
アンジールの視界の隅で、何かが動いた。そちらに目を遣ると、ザックスが上げていた両腕を半円を描くようにして、ゆっくりと動かした。掌が体の側面に付き、「気を付け」の格好で雪の中に横たわっている。すると、ザックスはおもむろに立ち上がった。
自分が寝転がっていた跡を見下ろす。
「見て」
「ん? 何だ」
「ほら……、見えない?」
「え?」
ザックスが何を言いたがっているのか、アンジールには良く分からない。そんな彼の様子を見ながら、ザックスはクスリと小さく笑って、ふわりと雪原を歩き出す。そのまま、肩越しに振り返って言った。
「翼が生えたみたいだろ」
雪に残されたザックスの跡を見下ろす。アンジールは漸く理解した。
同時に、言いようのない不安がこみ上げる。
「ッ!!」
急いでザックスに駆け寄り、背後から衝動的に彼を抱き締めた。
「んっ、アンジール?!」
急にきつく抱き締められて、一瞬呼吸が詰まる。振り向くより前に、肩口にアンジールの顎が乗せられた。埋めるようにして、アンジールの頬がザックスの首筋、防寒具越しに押し当てられる。
「行くな」
「え?」
「行かないでくれ」
「どうしたんだよ……、ちょっと歩くだけだってば」
ザックスが身を捩ると、アンジールは抱き締めた腕の力を緩めた。くるりと体を反転させて、ザックスはアンジールを見つめた。僅かに上にある彼の顔には珍しく、らしくない表情。それに少し驚きつつも、そっと頬に触れた。温かい。自分の指先は思ったより冷えているみたいだ。
自分の背中が彼によって優しく擦られた。やがて、肩甲骨の辺りを確かめるように何度も何度も擦られる。
ザックスはアンジールの意図を理解して、優しく微笑んだ。
「意味、分かった?」
「あぁ、分かった」
ザックスが雪に残した跡は、まるで彼の背に翼が生えているかのように見えた。深い意味はなく、ちょっとした遊び心でそんな事をしたに過ぎないのだろう。
でも、ザックスが透き通るような笑みを浮かべたものだから。
彼の背に翼が現れて、そのまま羽ばたいて空を舞う雪の中に、儚く消えてゆくかのように見えてしまった。
「お前を何処にも行かせない……行かせたくない」
何処までも自由でいて欲しいのに、何を言っているんだ俺は。俺がこんな事を言ったら、どう返事をするのかなんて分かっているのに。
「……何処にも行かないよ」
予想通りの返事に、アンジールはきつく瞼を閉じた。
「でももし、お前の背にあの雪の跡みたいな翼があったら……、」
大地を蹴って、まるで風のように自由に空を駆け、色々なものを見て、感じて欲しい。
その碧い瞳で、世界の全てを見て欲しい。
自分には、彼を繋ぎ留める権利などないのだから。
アンジールは胸が苦しかった。締め付けられるような苦しさに、息が出来なくなりそうだった。
何処にも行かせたくなかった。ずっと抱き締めて、抱き留めて、側に置いておきたい。でも、彼には自由でいて欲しくて、誰にも縛られる事なく、濁りのない綺麗な瞳で世界を見て欲しいと思う。
自分の心の奥底に確実に存在する相反する感情が、時折こうして前触れもなく表面に表れて、アンジールをじりじりと苦しくさせた。
「もし、俺に翼があったら、」
ザックスがアンジールをじっと見つめた。空と同じ色の瞳に、吸い込まれそうになる。唇が小さく動いて、言葉を紡いだ。
「半分、あげるよ」
舞い落ちる雪が、羽根に見えた。
「そして、一緒に行こう」
「……ザックス、」
「一緒に、……あんたと一緒だ」
「だが、」
突然アンジールの体が、後ろへ揺れた。ザックスが両腕で力強く、アンジールの胸をドンと突き放したのだ。
「一緒だって言ってんだろっ!! あんたの考えている事は、俺には分かる。だったら、俺と一緒にいればいい、一緒に行けばいいじゃないかっ!!」
目に涙を浮かべながら、ザックスが一気に叫んだ。辺りに反響する前に、雪に溶ける声。そのままクルリと背を向けて、おもむろに走り出す。立ち竦んでいたアンジールが慌てて追いかけようとしたら、まるでそれが分かったかのようにザックスが立ち止まって、勢い良く振り返った。
「あんただけじゃないっ!! 俺だって一緒にいたいんだっ。あんたを離したくなくて、あんたから離れたくなくて……好きな人と、ずっと一緒にいたいって、」
アンジールが近寄ると、ザックスは距離を詰められるのを拒むように後ずさる。
ケホケホと咳き込む音が辺りに小さく響き、雪の中にすっと消えた。
「ザッ、」
「なぁ!!」
ザックスはアンジールの呼び掛けを遮るように叫んだ。そして、体の力を抜いて、ただただ雪の上に立った。
雪に閉ざされた世界に、ふたり。
聞いてよ、この想いを。
「俺の事……『好きだ』って言って。毎日『好きだ』って言って。ずっと言って。側にいてよ、24時間……1日中、365日1年中、俺を抱き締めて、『好きだ』って言って」
涙がとても熱かった。こんなに熱いなんて、知らなかった。
アンジール……あんたが、
「大好きなんだ、こんな、に」
雪が跳ね、舞う音がする。ぎゅっと抱き締められた。きつく抱き締められた。ふたりして、雪の中に倒れこんでいた。
きつく抱き締められたまま、ザックスが喉をひゅっと鳴らして言う。
「ごめ、ん……、こんなに、好き」
「謝るなバカッ!! もう何も言うな」
「俺、凄く我侭で、」
後に続く『ごめん』は、彼の唇によって言わせてもらえなかった。
「俺の事、好き?」
「好きだ」
「好き?」
「好きだ。お前が好きだ、好きだ好きだ好きだっ」
「うん……、知ってる」
「こんなに、好きだ」
アンジールはザックスの頭を胸に抱いた。
好きという気持ちは、どうしてこんなに苦しいのだろう。自分達はもしかしたら、臆病で怖がりで、とても不器用なのかもしれない。
ただひたすらに真っ白な世界で、ふたりは抱き締め合った。お互いの気持ちと想いを、溶け合わせるかのように。
「何だか、静か過ぎて……閉じ込められたみたいだ」
「あぁ……俺達だけしかいない」
「ふたりだけだね」
「ふたりだけだ」
見下ろした瞳は、まだ涙で少しだけ潤んでいた。目尻にそっと唇を寄せて、舌先で舐める。
ザックスは小さく息を吐いて、幸せそうに瞼を閉じた。
アンジールが静かに唇を重ねる。触れ合わせるだけの口づけ。
唇を離すと、ザックスが小さく囁いた。
「雪、綺麗……」
アンジールの肩越し、思わず空に向かって腕を伸ばしかけたら、彼に手首を掴まれた。彼の蒼い瞳に見つめられながら脈打つ部分に口づけられて、そのまま緩く吸われた。
「綺麗だな」
ザックスの頬が微かに染まるのを見てアンジールは微笑むと、再び唇を重ねた。
* * *
なぁ、覚えてる?
あの雪の日……、ふたりだけだった白い世界。
空に舞う雪が、羽根みたいだったな。
綺麗。とても綺麗だ。
欲しいよ、あんたのその翼。
20100821