アンジールは地面に小さなサンプルケースを並べた。中には綿棒のようなものが入っていて、その先端はどれも赤黒く汚れている。採取したモンスターの血液だった。数を確認しながら、手元のメモに書き込みをする。その様子をザックスは静かに見つめていた。
体の表面が引きつったようにバリバリする。髪の毛も束になって固まってそうだった。それにきっと、生臭い。幾らか乾き、もう鼻が慣れてしまったとしても、自分が生臭い事に変わりはないだろうと思う。
「良し、数も種類も大丈夫だ」
「良かったぁ」
アンジールの声にザックスは安心したように言って、体の力を抜いた。そのまま地面に仰向けになる。
今回の任務は科研からの依頼で、モンスターの血液サンプル採取だ。対象となるモンスター自体はそれ程強くなく、ザックスひとりでも十分倒せるものだった。
しかし、問題なのはその種類だ。過去のデータから生息地域はある程度特定出来るものの、種類によっては必ずその場所に出現するとは限らないものもいた。現に一日探し回っても、遭遇出来なかったモンスターもいたのだ。
そして今日。漸く指示されたモンスターのサンプル全ての採取が完了したのだ。
「任務も完了だし、帰還ヘリを要請しても良いか?」
「ちょっ、ちょっと待った!!」
ザックスは慌てて起き上がる。アンジールは少しだけ怪訝な顔をした。
「ここら辺、川あったよな、川」
「ここから近いのは、川ではなく泉だ」
「どっちでも良いんだけどさ。近くにあるなら、これだけでも洗い流したいんだけど……ダメ?」
ザックスはバリバリに固まった髪の毛に触れながら、アンジールを窺うようにそっと見た。
そう、今のザックスはモンスターの血液を大量に浴びて、血まみれだったのだ。別にミスをした訳ではない。アンジールがモンスターの急所を突き、返り血を浴びるのを避けて体を翻して剣を抜いた。そうしたら、たまたまその先にザックスが移動していて、吹き出る血をもろに浴びてしまったのだ。咄嗟に避けたものの、体はすっかり血まみれで、ザックスはともすれば泣きそうな顔で「気持ち悪ぃ……、最悪だ」とポツリ呟いた。
その時の様子を思い出したアンジールが、思わずクスリと苦笑いをした。それをザックスは見逃さなかった。
「思い出してんだろ……」
ザックスは頬を膨らませながら、拗ねた口調で「別に良いけどね」と呟いた。
「いや……すまない。分かった、そうだな……ヘリには一時間後に来るように連絡する。それなら十分だろ?」
「サンキュ!! んじゃ俺、早速洗ってくるから」
「ザックス、待てっ!!」
既に駆け出したザックスを、アンジールが呼び止める。
「何?」
「俺も行く」
立ち上がりながら、『俺もしようがないな』と心の中で呟いた。
放っておけないのだ。目の前の仔犬を。
森の中、横道を逸れると視界が開けた。広い空間の中、大きな泉が現れた。岸辺から緩やかに深くなっていそうだが、ここからだと良く分からない。岸辺の近くにアンジールが腰を下ろした。
「ほら、洗って来い」
「装備……、置いてって良い?」
アンジールが頷くと、ザックスは制服だけになった。岸辺に歩き、そのまま泉の中へ進む。制服は神羅の技術を結集して作った超速乾性の素材で出来ているから、例え濡れてもすぐに乾く。
ザックスを中心として、小さな波が水面に波紋のように広がった。差し込む太陽の光が反射して、キラキラと銀色に揺れる。ここから見ると、それは一枚の絵のようでもあったし、写真のようでもあった。
ザックスは腰の辺りまで水に浸かると、両の掌で水を掬って顔を洗う。肌にかかった血液が乾燥してバリバリとした不快感が、洗い流されてゆくのが気持ち良かった。
呼吸を整えて、大きく息を吸う。肺に空気を溜めると、ザックスは体を水中に沈めた。水中でも五分は息を止めていられる。訓練次第ではもっと時間を延ばせるらしい。ソルジャーの身体能力で「平均五分」だと、いつだったか身体検査の時に聞いた気がする。
まず、髪の毛を洗う。水に浸した事で、乾いた血液が溶けた。そっと目を開けると、自分の周辺の水が微かに色付いていた。
『血の臭いに敏感なやつが、水中にいたりして』
その時はその時だと思う。水中戦なんて専門外だけど。
着たままの制服を掴んで揺すると、色が滲み出た。暫く繰り返して、漸く色が出なくなった。取り敢えず、これであの不快感は十分になくなった筈だ。
「はぁっ」
水面に顔を上げたザックスが、そのまま勢いをつけて首を後ろへ逸らした。水飛沫が弧を描き、辺りに舞い散る。濡れて額に掛かる幾筋かの前髪を、両手でグイと後ろに掻き上げる。現れ出た滑らかな額を、雫が伝い落ちた。
その様を岸辺から見ていたアンジールは、泉に佇む濡れたザックスを「綺麗だ」と思った。視線の先の彼が、こちらを振り向く。
「なー、すっごく気持ち良い!! 水も凄く澄んでるし。アンジールも来なよ」
手を振りながら叫ぶザックスに、アンジールは小さく息を吐く。
「あのな。この装備はどうするんだ? 万が一の場合、取り返しがつかないぞ」
周辺に人が住んでいる場所でもないし、ましてや反神羅組織が潜伏しているとの話も聞いた事がない地域だ。万が一の心配はないとは思いつつ、万が一の場合を考えて、アンジールはその場から離れる訳にはいかなかった。
「そっか……。ごめん、あとちょっとだけ」
そう言って、ザックスは申し訳ないように顔の前で両掌を合わせ、小さく笑った。そして、音もなく水中にその姿を消した。辺りがしんと静まり返った。
「……クソッ」
アンジールはつくづく自分はどうしようもないと思い、小さく舌打ちした。そして、その背に大剣を背負ったまま、足早に泉の中へ進んだ。バシャバシャと聞こえる音が、何だか酷く不愉快だった。
水中に潜ったザックスは、視界の隅に魚の姿を捉える。何気なく水面を見上げた。光が差し込んで、キラキラと揺れている。それはとても綺麗で、いつまでも見ていたいと思わせる程だった。周りを見渡しても、誰もいない。澄んだ青い世界がただ広がっているだけ。
『アンジールにも見せたかったな』
でも、仕方ない。万が一、装備と武器を敵に取られてしまったら、それはとんでもない大失態になる。そうならない為にも、任務中は装備を解く事が極力禁じられていた。だから今回みたいな場合は、ある意味特別なのだ。アンジールは何も言わず頷いてくれたけれど、本当は自分が装備を解く事に反対だったかもしれない。でも、彼は許してくれた。自分が責任を持つと、無言で言ってくれたのだ。
『ごめん。ありがと……』
一頻り水中の景色を堪能して、ザックスはそろそろ戻ろうかと思った。
その時、不意に腕を掴まれた。有り得ない感触に、一瞬焦ってしまった。思わず口からボコボコと空気が溢れ、泡となり水面へ向かって上がっていく。振り返ると、アンジールがいた。
じっと見つめられる。掴まれた腕が痛い。なかなか戻ってこない自分に、怒ったのかもしれない。さすがに申し訳ない気持ちになって、ザックスは上を見上げて、そのまま水面へ上がるべく足を動かした。
だが、アンジールの腕に引っ張られ、それを阻止される。
『え、』
そのまま体を引き寄せられて、頬に触れられて。
キスされた。
彼の舌先で唇を割られ、舌に触れたと同時に口中の空気が漏れて、次々と水面へ向かっていく。感じた事のない感覚。
水中での口づけ。
さすがに息が苦しくなってきて、ザックスはアンジールの腕に爪を立てた。
バシャッと一際大きな水音が辺りに響く。静かだった水面が大きく揺れる。
「はあっ、はぁっ、はぁっ……」
水中から顔を出して息を吐く。取り敢えず、足先が付く場所まで移動した。漸く水底に立つと、ザックスは肩で息をする。水中で動揺してしまった分、余計な酸素を消費してしまって無駄に息苦しい。大きく息を吸って酸素を肺に取り込む。そんなザックスの様子を、アンジールは無言で見つめていた。
「ア、ンジール……、急に、おど、ろ……く」
顔に貼り付く髪の毛にお構いなしで、ザックスは顔を上げる。やっと呼吸が落ち着きを取り戻してきた。額にかかった前髪を後ろに流す。その様子を見たアンジールの瞳が、静かに細められた。
「お前の所為だ」
「えぇっ?! 俺の所為?」
「あぁ、お前の所為だ」
「何でだよ、一体……っ」
顔を寄せられて耳元で発せられたアンジールの囁きに、ザックスの心臓がドクリと音を立てた。同時に頬がカァッと熱くなるのを感じた。
『お前が欲しい』
アンジールの唇が頬に触れる。
「お前が無防備に濡れるからだ」
碧が煌めく耳朶を緩く噛んだ。ザックスが短く息を飲む。アンジールはそのまま耳元で一気に囁いた。
「血まみれになった体を洗い流して、水を滴らせながら髪の毛を掻き上げたお前の姿に欲情したんだ。水から上がったお前を抱き締めようと思ったら、事もあろうにお前は再び水中に潜ってしまったものだから、余計にお前が欲しくなった。水の中に隠れてしまったお前を見つけ出して、溺れるくらいにキスしてやろうと思ったんだ」
ザックスはそっと首を動かして、アンジールを見た。蒼い瞳に自分が映っていた。
「……あんたって時々、物凄く大胆になるよな」
「お前に言われたくないな」
「一応まだ仕事中だし、どうせ時間ないし……。中途半端は嫌だから、帰ったらしよ?」
「まさか、仔犬に『お預け』喰らうとはな」
「なっ!?」
クスクスと笑い出したアンジールの腕を、ザックスは力任せに引っ張った。咄嗟の事にバランスを崩して、ふたりして水面に倒れ込む。派手な水飛沫と水音を感じながら、ザックスはアンジールの唇に自身のそれを熱く熱く押し当てた。
20100725