夜遅く、急に降り始めた雨は、明け方にはすっかり止んだ。雨は空気中の砂埃をすっかり洗い流し、澄んだ空気がとても気持ち良くて、ザックスは空を見上げながら大きく伸びをした。
モンスター調査の目的で、昨日からこの地にやって来た。起伏に乏しい土地で、ただひたすらに緑の絨毯が広がる。林のような場所が時折点在する以外、変化に乏しい風景だ。牛の放牧でもしてそうな牧歌的な雰囲気がするのだが、周辺には民家はおろか集落すらない。
こんな所にモンスターが出現するのかと、ザックスは半信半疑に思ったりした。しかし、何処からともなく巨大な鳥、それはまさに怪鳥と呼ぶには相応しいものが舞い降りて来た時、ザックスはあまりの大きさとそこから生じる不気味さに、暫し体が動かなくなってしまった程だった。
予めアンジールと打ち合わせた作戦通りに動き、こちらに危害を与えない程度まで弱らせた。
「こんなんで、大丈夫なのかよ……」
ザックスは今にも息絶えてしまいそうに、地面に巨体をうずくまらせているターゲットを見下ろす。足の爪はまるで鋭利な刃物、ギョロリと動く目玉はそのあまりの大きさに鳥だという事を忘れさせた。どろりとした体液やら血液が、ゆっくりと流れ出て地面を湿らせる。
「心配するな、死にはしない。こいつはな、驚くほどの回復力を持っているんだ。致命傷を与えない限り、暫くすれば再び空に舞い上がる」
ザックスに説明しながら、アンジールが少々太めの金属パイプらしきものを取り出す。
「そこの羽根……、そう、その首の辺りだ。ちょっと押さえててくれ」
アンジールの指示通り、ザックスが横たわるターゲットの首周辺に体重をかけて押さえながら、羽根を掻き分ける。硬くてゴツゴツとした手触り。羽根なのに爬虫類の鱗のようだと思った。アンジールがパイプの先端を露わになった皮膚に押し当てる。同時に、バシュッという音がして、何かが挿入されたようだった。
「発信器?」
ザックスが尋ねると、アンジールは無言で頷いた。ぐいとパイプを押し当てながら、時計で時刻を確認する。パイプらしきものは注射器で、中に少量の麻酔薬と極ごく小さい発信器が入っていた。それをターゲットの体内に埋め込んだのだ。今回はこの種類のモンスターの生息地域を把握するという目的もあるので、発信器を体内に埋め込んで、群れまたは住処へと帰す必要があった。だから、決して殺してはならないのだった。
「よし、完了だ。ザックス、取り敢えずあの茂みに隠れるぞ」
「え!? あ、うん」
アンジールが注射器をしまい、さっさと茂みの方へ駆け始める。ザックスは慌ててアンジールの後を追った。くぐもった低い呼吸音を響かせるモンスターを気にしながらも。
それから5分程過ぎた頃だろうか。アンジールが時計を確認し、「そろそろだ」と言った。
「何が?」
ザックスが隣でしゃがみ込むアンジールの方を向く。
「ほら、良く見ろ」
彼は視線を前方へ向けたまま言った。蒼い双璧が僅かに細められる。ザックスは任務中にも関わらず、思わず彼の横顔に見とれてしまった。
慌てて、視線を前方へ向ける。
「マジ、かよ……」
ザックスは思わず呟いた。うずくまっていたモンスターの体が、ゆっくりと動き出す。あれほどのダメージを受けた体を、何事もなかったかのように起き上がらせると、まるで確かめるように羽根を大きく動かした。周りの草が、羽ばたきによってそよいでいる。「グエーッ」という奇妙な鳴き声を発したかと思えば、地面に血の塊のようなものを大量に吐き出した。まるでバケツをひっくり返したかのようの量だ。思わずザックスは、「気持ち悪りぃ」と顔を顰める。モンスターはその後何度も羽ばたきをして、やがてそのまま再び空へ飛び立って行った。
空の彼方、大きな体が見えなくなると、アンジールは漸く立ち上がって茂みから出た。そして、ぽかんと口を開けながら、モンスターが飛び去っていた方向を見つめているザックスを振り返る。
「そういう訳だ。分かったか?」
昨夜、寝泊まりした建物は作業小屋か何かに使っていたのだろうか。家具は作業台のようなテーブル以外何もなく、部屋の隅のコンテナにはロープやらブランケットやら、色々なものが投げ入れられていた。何年か前に打ち棄てられたものらしい。雨が降り始めると、所々で雨漏りがしそうだ。
こういう建物が残っていると、野営する場所を探す手間が省けるので実はかなり有り難かった。今の季節なら寒さに震える事もないけれど、野外でそのまま寝るのと、建物の中で寝るのとでは、例えソルジャーでも精神的にかなり違うものだった。
アンジールが、コンテナの中に残されていた埃っぽいブランケットを引っ張り出す。一枚は床に敷き、もう一枚をザックスに手渡す。ブランケットは、ふたりの腕の間を数回、行ったり来たりを繰り返した。
アンジールがそっと微笑む。ザックスが俯く。その腕に、ブランケットを抱いていた。
背中合わせ、ザックスはブランケットにくるまる。ガラスにヒビが入った窓から、星明かりが部屋に差し込む。「星ってこんなに明るいのか」と思いながら、なかなか眠れないのは星がこんなに明るいからだと、自分に言い聞かせた。
本当の理由なんて、もうとっくに気付いていたけれど。
彼は自分のすぐ隣にいるようだったし、離れて横になっているようでもあった。ザックスが、そおっと片腕を後ろへ伸ばす。指先に床に敷かれたブランケットの感触、そして彼の指先。
気付いた時には、そっと手を握り締められていた。手の甲と全ての指を包み込むように、そっと優しく。指先に全神経が集中する。汗ばんでしまいそうで、ザックスはきゅっと目を瞑った。微かに指先を動かすと、彼が握る手をそっと緩める。ザックスは自分の指先を、彼の指先に絡めた。こうしたかった。
お互いに小さく振り返ったのはほぼ同時で、薄闇でも分かるお互いのあおい瞳を見つめ合う。瞬きするのが何だかとても勿体なくて、それ程、目の前の魔晄の瞳は綺麗だった。
でも、先に瞳を瞼の裏に隠したのはザックスだった。アンジールは、引き寄せられるように口づけた。
口づけずにはいられなかった。
何故なら目の前の彼は、碧い瞳を閉じながら、吐息を漏らすようにその唇を薄く開いたから。
いつしかふたりは一枚のブランケットにくるまりながら、体温を分け合うように抱き締め合って眠った。
「さぁ、行くぞ。今日は最終的に、ヘリの着陸地点まで移動だ」
入口を遮るように立っていたザックスの頭を一撫ですると、その脇をすり抜けるようにしてアンジールが外に出る。
「うん」
歩き出したアンジールの後をザックスが追おうとしたら、アンジールが首だけ振り返る。
「大事な忘れ物、してるぞ」
そのまま背に背負っているバスターソードの柄に触れる彼の姿を見て、ザックスは自分が剣を装備していない事に気付いた。「ヤベッ」と思うと同時に、恥ずかしさが込み上げる。何故なら、今回が初めてではないのだ、剣を装備し忘れるのは。
慌てて建物の中に戻り、壁に立て掛けていた剣を急いで背に背負う。ガシャンと音を鳴らしてきちんと装備された事を確認すると、ザックスは外へ飛び出した。
『う、わぁ』
朝の日差しが眩しくて思わず目を細めた。目の前の道は緩やかな上り坂になっていて、太陽はちょうど自分達を前から照らす位置にいた。目を細めたまま前を見ると、ザックスが思った以上にアンジールは先に進んでいた。逆光の所為なのか妙に彼の姿を小さく感じてしまって、ザックスは慌てて駆け出そうとしたが、昨夜の雨でぬかるんだ地面にブーツで思い切り踏み込んでしまった。ずるりと滑ってバランスを崩したが、寸でのところで何とか踏みとどまった。
「ッ!! カッコ悪ぃ……」
愚痴るように呟きながら、ふと地面を見る。そこには今し方、自分が踏み込んで抉られた部分と、そこから先へ伸びている足跡。自分と同じ模様だが、僅かに大きい彼の足跡。ザックスが前を見る。一本道には規則正しい足跡が残されていて、その先には彼。
「ザックス、何してるんだ」
アンジールが自分を呼ぶ声が響く。「今行く」と叫ぶと、アンジールの足跡を追いながら、緩やかな上り坂を駆け出した。
「ごめん、お待たせ」
駆け上がってくる足音が聞こえたのか、アンジールが歩みを止めて振り返ったのと、ザックスが追いついたのはほぼ同時だった。さすがに息は切らしていないが、額に掛かる前髪が少しだけ乱れているのを見て、アンジールがクスリと笑いながら指先でそっと前髪を退けた。そのまま頷くようにして先に進み出そうとしたアンジールの腕を、ザックスが掴む。
「どうした?」
アンジールが振り返ると、ザックスが彼の腕を掴んだままで、今走って来た道を眺めている。
「見て、アンジール」
道にはふたりの足跡がくっきりと残されていた。規則正しい歩幅の足跡の隣に、歩幅の大きな足跡。それは駆けて来た所為で、比べると幾分か深く刻まれている。
「昨夜の雨の所為で道がぬかるんでいるから、しっかりと残っているな」
「だろ? 何だか面白いな」
ザックスが楽しそうに笑った。朝の光に照らされた笑顔は殊の外眩しくて、アンジールは目を細め、微笑んだ。
彼と共に歩く。今までも、これからもずっと。
道にはふたりの足跡。並んだ足跡。今ここで……、
重なる足跡。重なる唇。
心、重ねて。
20100603