「今年はこれで見納めだな」
アンジールは頭上を振り仰ぐ。
天上が薄紅で覆われている。穏やかに降り注ぐ春の陽光によって、薄紅色の空間がまるで淡く発光しているかのよう。緩やかな風が吹く度に枝とその先の花が揺れて、所々から蒼天が見え隠れする。それはまるで緻密なステンドグラスのようでもあったし、小さな青玉がキラキラと輝いているようでもあった。
「葉も何もないところにいきなり咲くって、凄いよなぁ……。俺、桜は散り際が一番綺麗だと思う。潔いよね」
まるで桜を見ているかのように言いながらも、ザックスは手元に引き寄せた包みの方に夢中だ。草色の風呂敷に包まれているのは小振りの重箱。風呂敷の結び目をスルスルと解いて、両手で重箱のふたを開ける。そこには桜餅や萩の餅が綺麗に、慎ましやかに並んでいた。勿論、アンジールの手製だ。
「散り際が綺麗だという見方は、近代のものだな」
桜餅に箸をつけようとしていたザックスの動きが止まる。
「そうなの? 昔からだと思ってた」
「古来はもっぱら、咲き散る桜の美しい花片の動きをひたすら楽しみ、愛でていたそうだ」
ザックスから取り上げた箸で、小皿に桜餅を取り分けてやる。アンジールは世話焼きなのだ。ことにザックスに対しては。
アンジールは自身の小皿に、粒あんの萩の餅を取り分けた。萩の餅、要するに「おはぎ」の事である。アンジールはその語感から「萩の餅」という言い方が好きだった。更に字面で言えば「牡丹餅」がとても綺麗だと思っている。
ひらひらと舞い落ちる花片をザックスが目で追っている。
ひらひら、ひらり。
はらはら、はら、り。
「そっか……。それを聞くと、何かそっちの方が良いな」
ほんの数日間艶やかに咲いて、あっという間に散る姿を潔いと思うより、散る姿をいつまでもいつまでも眺め、その美しさを賞美する方がとても素敵だとザックスは思った。
緑の絨毯の上が、俄に春の茶会の体をなす。
カップの中にアンジールが桜の塩漬けを入れる。ポットの中の湯を静かに注ぎ入れると、ほのかな香りが漂って、ふうわりと八重桜が咲いた。桜湯である。
「綺麗だなぁ……」
受け取ったカップを覗き込みながら、ザックスは驚嘆する。その姿をアンジールは優しげな目で見ている。
一枚の花片が、カップの中の小さな水面に舞い落ちた。ザックスが花のように笑った。
今年も桜の季節が巡ってきた。
時間は毎日正しく流れ、やってくる季節はふたりを優しく包み込む。
「今年も桜を見に行こうか」で始まる桜狩りは、「来年もまた一緒に桜を見よう」で終わる。
ふたり一緒に。ずっと、一緒に。
言わなくても分かり合っているけれど、いつの間にか言うのが約束事になっているのだ。
まるで、桜にふたりだけの秘めた誓いを、そっと聞いて貰うかのように。
「おはぎは、きな粉が一番好き」
桜餅をあっという間に食べたザックスの箸が、重箱の中からきな粉がまぶされたおはぎを取る。彼はきな粉が好きなのだ。
「もっとかけるか?」
「あるの?」
碧色の瞳がパッと喜びに輝くのを見て、アンジールは笑いながらバッグの中を探り、小瓶を取りだした。きな粉に砂糖を混ぜたものを、予め用意していたのだ。
小皿の上に乗せたおはぎの上に、スプーンで多めにきな粉をまぶした。所々に砂糖の小さな塊が残っている。幸い風は緩やかなので、きな粉が辺りに飛んでしまう心配はなさそうだ。
「きな粉って和む味だよなー」
嬉しそうにおはぎを頬張る。どうやらザックスには、「花より団子」らしい。
アンジールは辺りを見渡す。
自分たち以外、誰もいない。小鳥のさえずりが聞こえる。柔らかな緑の絨毯に、小さな桜の花片が次々と絶え間なく降り積もる。色とりどりの小さな花もあちらこちらで咲いている。暖められた春の空気は、甘い匂いを含ませているかのようだ。
何処からともなく蝶がひらりふわりとやってきた。ふたりの視線に追われながら、草の上に置かれたザックスのカップの縁へと止まる。水分に引き寄せられてきたのだろうか。
「いらっしゃいませー」
ザックスは楽しげに笑った。カップの縁で鮮やかな羽根を休めるように、蝶はじれったいくらいゆっくりと羽ばたきを繰り返している。
やがて再び飛び立ち、花から花へと舞い移る。そのうち、もう一匹が加わった。二匹の蝶はお互いを追い掛け合うようにして、くるくると宙に螺旋を描く。
「何だか可愛いな。春だなーって感じ」
「陽気に誘われて、だな」
「恋の季節だしね」
そう言いながら、ザックスはアンジールの頬に唇を押し当てる。
「俺はあんたに年中、恋してる……」
「春の陽気に誘われた、か?」
「だから、年中だってば!!」
クスクスと笑いながら、アンジールはザックスの頭を撫でて頬を寄せた。そんなふたりの目の前を、蝶たちがひらひらと漂う。
「やっぱりアンジールの作るおはぎは美味しいな」
ザックスがそれは美味しそうに食べるものだから、アンジールは素直に喜んだ。
「お前、口元がきな粉だらけだぞ」
「んー」
もぐもぐと口を動かしながら唇に触れてみると、指先にきな粉が付いた。薄黄色い粉は、まるで花粉のようだと思った。
「なぁ」
「ん? 何だ?」
アンジールが箸でもうひとつ桜餅を取ろうとした時。
ザックスの唇がアンジールのそれに、ふわりと触れた。唇を触れ合わせたままで、ザックスが囁く。
「受粉成立……ってな」
「……まったく」
アンジールは手にしていた箸を置いて、ザックスの頭を引き寄せた。舐めた唇はきな粉の香ばしい風味がする。
「可愛いんだか、いやらしいんだか」
「嫌じゃないでしょ?」
「大歓迎だ」
チュッと音を立てたキスの後、ふたり一緒に笑った。そして、風が吹き抜ける。
ふたりを包み込むように、優しい桜の雨が降る。
「凄い……本当に綺麗だなぁ」
ザックスは思わず立ち上がって数歩歩くと、頭上を振り仰いだ。両手を伸ばして、舞い落ちてくる花片を受け止めようとする。
「あぁ、本当に……綺麗だな」
アンジールの言葉にザックスはゆっくりと振り返る。花吹雪の向こう側、蒼い双璧が眩しそうに細められているのを見て、嬉しそうに幸せそうに笑った。
薄紅の頬をして、とても綺麗に笑った。
20120414