君に誓う


 小高い丘の上に、一本だけ桜の木が立っていた。
 澄み渡った青空には、ところどころ絵に描いたような白い雲が浮かんでいる。自分達の足元を含め、周りは見渡す限り青々とした緑の絨毯が広がっている。小さな白や黄色、ピンクが点在している箇所には、愛らしい花が咲いている事が窺えた。
 時折響く、鳥の鳴き声。緩やかな風が耳元を掠め、ふたりの黒髪がさらりと揺れると同時に、青空には幾枚もの薄紅色の花弁が舞った。
 「今年も相変わらず綺麗に咲いてるなぁ……」
 幹の近くまで寄ったザックスが、感心するように呟きながら頭上を振り仰ぐ。天上に広がる花弁。薄紅で被われて、空の青が見えない程だった。
 「本当に、綺麗だな」
 ザックスの少し後ろをゆっくりと歩いていたアンジールが、歩みを止めて蒼い双璧を眩しそうに細めた。
 目の前には、桜の花弁が降り注ぐ中に佇む愛しい恋人。
 満開の桜に、昨年のようにはしゃぐかと思ったが、彼は予想外にも静かだった。桜を見上げるその姿には、どことなく少しアンニュイな雰囲気が漂っていて、それが何だか彼を神秘的な雰囲気にした。
 碧い瞳に、ひらひらと舞い散る花弁が映る。それはまるで、澄んだ水面に花弁が落ちる様にも似ていた。
 今年の桜が余りにも美しいが故に、言葉を失っているのか、それとも昨年よりも少し大人になった彼が、静かに感動を味わうことを覚えたのか。
 『一年とは早いものだな……』
 アンジールは自身の瞳にザックスの姿を映したまま、静かに思いを巡らせる。

 * * *

 ザックスと共に、この場所でこの桜の木を見るのは今年で二度目だ。それまでは、毎年桜の咲く時期になると、ひとりでここに見に来ていた。
 この場所を見つけたのは本当に偶然だ。遠征先からミッドガルへの帰還中、ヘリの機内から何気なく外を見たら、丘の上にたった一本だけ大きな木が立っていたのだ。緑の葉が豊かに茂る木に、アンジールは何故だか惹かれた。
 地図上のポイントを確認し、数日のオフを利用して暫く振りに訪れたら、その木は桜の木だったのである。枝を大きく広げて、夏の日射しを受ける葉の一枚一枚がキラキラと輝き、風の通る木陰がとても心地好く、アンジールはこの場所をとても好きになった。
 春に花見をするには桜の木は一本しかないけれど、周りには何もなく静かで、アンジールにとってこの場所は誰にも教えたくない秘密の場所だった。
 昨年のこの時期、桜の咲く時期に、ザックスをこの場所へ連れてきた。誰かと共に来るのは、初めてだった。
 自分が教育係に就いたこの2ndは、1stの中でも知っている者が多かった。寧ろ、知らない者はいない、と言った方が正しいかも知れない。
 ザックスはそれなりの人数がいる2ndの中でも、1st昇格への最有力候補だった。
 戦闘に関する技術的な面でもセンスが良く、覚えが早い。ソルジャーは肉体に特種な施術を受けているものの、基礎体力がかなりあるのかそれなりにタフだった。それに加えて、これは恐らく彼にとっては無意識なのだろうが、自分の体の使い方を良く分かっている。だからひとつひとつの動作に無理や無駄がない。無理や無駄がないから、怪我も少ない……訳ではなかった。
 そこはまだ年相応というか若さ故というかで、落ち着きが足りない時もあるし、周りの雰囲気や勢い、感情で動いてしまう時もある。性格は明るくて、誰とも分け隔てなく付き合う事が出来るので、ザックスの周りはいつも賑やかだ。
 笑顔には何処か可愛さがあり、見た目の格好良さも加わって、街に出ると女の子から声が掛かったりする事もあるらしい。
 ザックスは自分の感情を素直に表現するタイプで、要するに喜怒哀楽がハッキリしている。嬉しい時は物凄く喜んでまるで子供のようだし、怒ると1stであるアンジールにも食って掛かる。
 しかし、彼は根が素直なので、きちんと話や言い分を聞いて理解してやり、また彼が正すべきところ等を指摘してやると、ちゃんと自分の中で納得して吸収する。自分が間違っている、悪かったと思ったら、ちゃんと謝る事が出来るので、そんな彼にアンジールは好感が持てた。
 「凄い!! 凄いな、この桜!!」
 ザックスは嬉しそうに叫ぶと、アンジールの予想通り桜の木に駆け寄る。そして、ごつごつとした幹に両手を突いて、上を見上げた。その様子を見たアンジールは、ザックスがまるで子犬のように思えて、「子犬のザックス」と呟くとひとり小さく笑った。
 「綺麗だろう? 立派なもんだなぁ」
 「わあぁ……凄い凄いっ!! こんなに咲いてる。綺麗だな、アンジールッ!!」
 緩やかな風に吹かれて、花弁が次々と幾枚も散る。それらはアンジールとザックスを優しく包み込むかのように、ふたりに向かって降り注ぐ。
 「この場所は、誰にも教えた事はなかったのだがな……」
 「そうなの?」
 ザックスが振り向く。髪の毛の一房が跳ねた。
 「あぁ。独り占めしたくてな……俺の秘密の場所だった」
 そう言いながら静かに微笑んだアンジールを見て、ザックスは胸の奥がドキンとした。
 もういつからか、気付けば時折こんな風になる。アンジールの何気ない言葉や仕草、表情に胸の奥がドキンとしたり、頬が少しだけ熱くなったり。
 それはまるで好きな子に対してそうなるのと似ていて、否、同じで、ザックスはアンジールに対してそうなってしまう自分に、どうして良いのか分からず途惑った。途惑いを気付かれたくなくて、でも上手く隠せなくて、話の途中で突然話題を変えたり、急に笑ったりしてしまう。
 『きっと、おかしな奴だと思ってる……』
 沢山たくさん考えても悩んでも、たどり着く答えはたったひとつ。
 自分は、アンジールが好きなのだ。
 「空気にまで、色が付いているようだな」
 アンジールの声で、ザックスが思考を戻し我に返る。気付くと自分の正面にアンジールが立っていた。頭一つ分ほどだろうか、自分より背の高い彼の髪の毛に、桜の花弁が引っ掛かっている。
 「あ、うん……アンジール、花弁付いてる。ここにも、こっちにも……」
 ザックスは何処か恥ずかしそうな顔で笑いながら手を伸ばし、アンジールの髪の毛に引っ掛かっている花弁を摘んだ。「ほら、な?」と言って花弁を見せながら、そのまま指先を離す。小さな薄紅は、ひらひらと揺れながら草の上に落ちた。
 「お前だって」
 アンジールの指先が、ザックスの頭に乗っている花弁を摘む。ただそれだけなのに。
 彼に触れられた髪の毛から、まるで電流が流れたような痺れ。それは切ない甘さと微かな期待と、ほんの少しの恐怖。
 恥ずかしさに、思わず目を伏せてしまった。彼の視線から逃れたくて。振り払う事なんてもう自分には出来ないから、せめて瞼の裏に瞳を隠させて。
 『……ザックス』
 アンジールはザックスが見ていないのを確かめて、唇を小さく噛んだ。
 反則だ。そんな風に目を伏せるだなんて。微かに震える薄い瞼が、睫が愛おしいのは何故だろう。でも、これ以上触れれば、ふたりの間の何もかもが壊れてしまいそうで、それでも自分は……。
 「……ッ」
 アンジールは、ザックスの髪の毛をガシガシと掻き乱した。これ自体は彼に良く行う動作だけれど、いつもよりほんの少しだけ力強く頭を撫でる。
 「えっ!? な、何」
 突然の事に驚いたザックスが、目を見開いてアンジールを見上げた。ガシガシと力強く頭を撫でられる。でも、嫌じゃない。嫌なんかじゃない。その感触は心地良くて温かくて、そしてとても嬉しいのだ。
 アンジールは無言のままだった。蒼い瞳がザックスを真っ直ぐに見つめている。
 「アンジー……ル? ど、したの?」
 ドキドキする。耳朶が熱いのが分かる。きっと、赤くなってる。
 「……何でもない」
 次の瞬間のその微笑みは、何処か苦しさを含んだような切ないもので、こっちも何だか泣きそうになった。瞬時に彼の気持ちが、自分にも伝染してしまったのかもしれない。
 怖かった。でも、大丈夫だと思った。きっと、彼と自分が抱いているこの気持ちは同じだ。上手く説明できないけれど、何故だかそう確信してしまった。
 大きくて優しい掌が額に落ちる髪の毛を掻き上げる。蒼い瞳の中に自分の顔を見たと思ったら、額に小さな温かさを感じた。
 そっと静かに、キスをされた。
 舞い落ちる桜の花弁に包まれながら。

 * * *

 この一年で、ザックスはまた少し身長が伸びた。まだ伸びるだろう。ふたり並んで立った時に、一年前とは僅かに視線が異なる。少しだけ自分に近くなって、それはキスをする時にも感じた。
 『本当に……』
 瑞々しさに溢れ、いつまでも子供のような純真さを持っている。
 本人が希望してソルジャーになったものの、本当ならば戦闘や凄惨な戦地などとは無縁の人生を歩んだ方が、彼には似合うのかも知れないし、良かったのではと思ってしまう。本人には決して言えないけれど。
 仕方がないとは言えども、前線に連れて行く事には未だ躊躇いがあるのが事実。実戦を経験させるために何度か連れ出した事はあるが、初回時は実際初めて見る日常とは余りにも懸け離れた凄惨な光景に、その日の夜は精神状態が不安定に陥ってしまった。突然涙を流し出したかと思えば、「眠れない」と震えながらブランケットの中で身を屈める。実戦経験の浅い2ndには良くある事だし、こういう場合の対処も分かっているので投薬を行ったものの、薬の作用でコトリと眠った彼の体を抱き締めながら、涙が溢れて堪らなかった。
 筋肉は付いているものの、まだ幾分か華奢なラインの体が酷く小さく思えた。今は瞼の裏に隠されている碧い瞳は、まるで澄んだ空のようで、その瞳をくるくると動かしながら良く笑い、泣き、怒る彼。
 暗闇や死とは正反対の、生命力に満ち溢れるキラキラとした眩しい世界の住人のような彼。
 彼に降りかかる全ての事から、守ってやりたいと思った。
 そっと彼の掌を手に取る。関節が僅かに盛り上がっているものの、まだ滑らかで綺麗な掌を無言で見つめた。指を交互に組み合わせて、静かに握る。温かかった。
 彼の手を血の色に染めたくない。あの瞳を、悲しみと苦しみと痛みによる涙で濡らしたくない。
 『勝手な独りよがりだな……』
 心配しなくても、彼は少しずつ、だけど確実に1stへの道を歩んでいる。そう遠くないうちに、自分と同じ色の制服を纏う事になるだろう。
 でも、いつまでも、あの透明さを失わないで欲しいのだ。例え、その体に幾人もの血を被っても。
 「アンジール!!」
 「ッ」
 不意に声を掛けられて、アンジールが我に返る。見ると、ザックスがこちらを向いて不思議そうな顔をしていた。
 「どうしたの?」
 「いや、何でもない……。お前の事を考えていた」
 「俺の事?」
 アンジールのすぐ側まで寄って、ザックスは「俺の、何考えてたの?」と聞いた。その顔は思いの外真剣で、茶化すような色は何処にもない。
 「ん? ……綺麗になったと思ってな」
 恥ずかしさの余り怒り出すかと思ったアンジールの思惑は外れて、ザックスは笑った。
 それは透けてしまいそうなほどとても綺麗に、微かに頬を薄紅色に染めて。
 『少し前までは、照れ隠しで怒っていたのにな』
 アンジールはザックスの頬に触れる。
 「俺……、綺麗になった?」
 「あぁ……とても。しかし、『綺麗』と言ったら怒り出すかと思ったが」
 「んー、まぁ……。でも、『綺麗』って言われて……嬉しかった」
 ザックスは自分の頬に触れるアンジールの手に触れながら、少しだけ俯いて、「ありがと」と呟く。さすがにちょっと、恥ずかしい。
 優しい手がそっと顔を上げさせて、僅かに下にある顔を覗き込む。あぁ、落ちる桜の花弁を映す碧の何と美しい事か。
 「あのさ、」
 「何だ?」
 「俺……アンジールと来年も、ここで桜を見たい」
 「あぁ、一緒に見よう」
 そっと触れた唇は、春めいて柔らかい。甘い香りが漂ってきそうだった。唇が僅かに離れただけの至近距離で、そっと囁く。
 「来年も、再来年も、その次も……、あんたと、ずっと……」
 「ザックス」
 指先で目尻と頬に溢れた涙を拭う。「泣かないでくれ」と言いたくても、言えなかった。こんなにも素直で、こんなにも愛おしい彼を抱き締める。
 「ずっと、一緒に桜を見よう。ずっと、ずっと」
 「う、ん……ずっと」
 抱き締めていた体を離して、小さくしゃくり上げるザックスにそっと微笑むと、ザックスは嬉しげに笑って瞼を閉じた。薄紅の唇が、僅かに開く。アンジールは誘われるように、そっと唇を重ねた。


 君に誓う。
 例え桜が滅ぶとも、この命が果つるとも、
 永遠(とわ)に君を愛す。




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