シンと静まり返る無機質な空間。壁や天井、出入り口のドアなど所々で小さな光が点灯している。それはこの部屋とフロア、そして建物全体に正常に電力が通っている事を示している。天井は全体がぼんやりと発光して、部屋全体をほのかに照らしていた。空調の音と共に微かに響くモーター音のような低音。それは巨大な生物の酷くゆっくりとした鼓動のようであり、建物全体がひとつの生命体であるかのように感じさせた。
ザックスは制服のポケットから携帯電話を取り出し、画面を開く。暫し考えるように天井を仰いでから、指先で数回キーを操作する。そしてパタンと閉じた。
「ふぅ……」
予定の時刻より三十分も早く来てしまった。さすがにアンジールもまだその姿を見せていない。
今日はこれからアンジールと共に、ヴァーチャル・システムを使用しての訓練の予定だ。ザックスはヴァーチャル・システムでの訓練が好きだった。剣を振るうなら無機質なトレーニング・ルームより、擬似的ながらも外の空気を感じる事が出来る空間の方が絶対良い。
だけど、それだけではなかった。ザックスには決して誰にも言えない、ヴァーチャル・システムを好きな理由が他にもあった。
ヴァーチャル・システムが展開する空間は、それなりの数と種類がある。オーソドックスなプログラムとしては砂漠、山岳地帯、市街地に草原など。システム管理部門の技術者によって、時折更新若しくはアップデートされるので、その種類が増えたりまたは若干の変更があったりするのだ。
粋な技術者だと、期間限定でその時の季節の要素や歳時記的なものを取り入れたりして、訓練のための施設だと分かっていても、擬似空間のリアルな再現に暫しその空間に酔い痴れてしまう。
つまり、室内に居ながらに旅行的な気分を味わう事が出来るのである。
ザックスは、アンジールとヴァーチャル・システム空間に入るのが好きだった。そう、アンジールと一緒に色々な場所へ行っているような気分を味わえるから。
ザックスはそっと目を閉じて思い出す。
数日前、前回の訓練。
あれは草原だった。柔らかな風が優しく吹き抜け、何処かのどかな雰囲気が漂う。遠くには家畜と見られる生き物が点々と散らばっている。
いつもならザックスが興味津々に「ちょっと待って」と言って周辺をあちこち歩き回ったりして、アンジールが「仕方ないな」と肩を上下させるところだ。ところがその時は珍しくアンジールの方から「少し歩いてみよう」と言った。ザックスは驚きつつもそれ以上に嬉しくて、笑顔で大きく頷く。
歩き出したアンジールの後を嬉しそうに追うものの、少しもしないうちにどういう訳かその速度が落ちる。ふたりの距離は僅かずつ開く。そして、やがてザックスは立ち止まってしまった。
風に髪を靡かせながら、視線の先にある大きな背中をじっと見つめる。大振りの剣を背負う背中を、憧れて止まない。
『…………』
胸の奥が締め付けられる。呼吸がゆっくりと苦しくなっていき、ザックスはそっと目を閉じた。
好きだった。彼の事が、もう好きだった。こうして切なく、そして苦しくなってしまうくらいに。
ザックスはひとり、ゆっくりと苦しさに喘ぐ。緑の風が緩やかに地平線へと渡る中、ひとり空間に取り残されたように感じた。閉じた瞼の裏に、彼の蒼色が広がる。美しくも力強く、深い慈愛に満ちた大好きな、蒼。
「ザックス!!」
「ッ!!」
不意に名前を呼ばれて、ザックスは弾かれたように目を開けた。アンジールが立ち止まってこちらを向いている。いつもなら怪そうな顔をしそうなものだが、今日は何となく困ったように笑って見えるのは気のせいだろうか。自分が追いつかないといけないのに、彼は律儀に戻ってきた。
「気付いたらいないから……、どうかしたのか?」
アンジールの視線を感じながら、ザックスは少し俯き気味で立ち尽くす。言わまいと思っていたのに、気付いた時には遅かった。言葉は唇から発せられてしまった。
「……苦し、い」
「苦しい? 具合でも悪いのか?」
違う、違うんだ。ごめん、アンジール。そんなに心配そうな顔をしないで。俺……俺が勝手に苦しいだけなんだ。別に本当に具合が悪い訳じゃない。ただ……、
あんたが好きだと思うと胸が苦しくなるんだ、どうしてだろう。
「ザックス、お前大丈夫……」
ザックスは奥歯をグッと噛み締めた。そして、自分の両頬をパンと叩いた。
「大丈夫っ!! 大丈夫大丈夫っ!! ちょっと昼飯食い過ぎたかなぁ。もう平気だからさっ」
ザックスはニッと笑って、前へと駆け出そうとした。するとアンジールが、自分の横をすり抜けていこうとするザックスの腕を掴んだ。
「えっ」
急に掴まれた事で体が後ろへと引っ張られた。そして、腕を掴む力が思いの外強くてザックスは驚いてしまう。
振り返るとアンジールが自分を見つめていた。蒼い瞳が静かに、でも力強く見つめていた。
サワサワと、ふたりの間を風が吹き抜ける。アンジールの前髪が僅かに乱れて、彼の額に掛かる。別に何でもない、戦闘中や訓練では見慣れている事なのに、それが今は何だかザックスを酷くドキリとさせた。
「…………」
「…………」
お互いに何も言わなかった。言えなかった。
碧い瞳は、困ったような、そして僅かに不安げで怯えているような色をしている。そんな、泣きそうな顔をしないでくれ。
蒼い瞳は、優しさを含みつつも、何だか少し怖くて、そして戸惑ったような色をしている。ごめん、怒らないで。そんな風に……見つめないでよ。
「お前、泣きそうな顔をしてる」
「な、何だよ……そんな事ないっ」
「苦しい、のか?」
「え……?」
「俺も、苦しい」
お前が苦しいように、俺も苦しい。窒息してしまいそうだ、お前への思いがこの胸に溢れて。
そして、短く息を吸う音。
直前に彼の「すまん」という呟きが耳を掠めたような気がした。気が付けば、彼の両腕で体を抱き締められていた。耳の奥や胸の奥で、やたらと速くそして大きな音がドクドクと響く。熱い。
熱くて苦しくて、そして恥ずかしくてどうして良いのか分からない。
なのに、凄く凄く嬉しくて、目の奥がジワリと熱くなった。
「なぁ、どうしたら良いのかな……」
あの後、お互いに無言のままにそっと体を離して、何事もなかったかのように訓練を行った。アンジールも特に何も言わない。自分も何も言わない。あれはヴァーチャル空間が見せた、それこそヴァーチャルな自分達なのか。それさえも分からなくなってしまいそうだった。
でも、自分の中で確信した事がある。
やっぱり、自分は彼が好きなのだ。あの時、確かに自分を抱き締めた彼の腕の強さを、もう一度ハッキリと感じたかった。
「好、き……好きだ……あんたが、凄く」
ザックスは自分の掌を見つめる。そして、ギュッと拳を握った。
好きだ。
心の中で何度も「好きだ」と言ったら、何だか元気が出てきた気がした。単純な性格だと思う。でも、それも俺らしくて良いだろ?
彼にこの気持ちを伝えたい。こんなにこんなに好きなんだ、って。そしたら驚くだろうし、困った顔をするだろうし、もしかしたら……嫌がるかもしれない。
でも、俺を抱き締めた腕の強さは嘘じゃないって分かる。俺には分かる。
今日のヴァーチャル・システムは、プログラムを南国で。生まれ育った場所に似ているから、俺にとってホーム。強気でいけるから、負けない。
その時、小さな電子音と共にドアがスライドする音がした。アンジールはザックスを見て、少し驚いた表情で立っている。
「ザックス、来てたのか。お前にしては、珍しく早いな」
「珍しく、は余計じゃね? 俺もやる時はやるぜ」
得意気にニッと笑うザックスの頭を、アンジールがクスリと笑いながらガシガシと撫でた。
「さて、今日はどのプログラムにするかな……」
アンジールがシステムの操作盤の前に立ち、モニターを操作する。
「俺、希望あるんだけど……」
「何処だ?」
「南国」
アンジールはザックスを見た。碧い瞳が力強く自分を見つめてくる。負けん気の表れた良い表情に、アンジールは思わず目を細める。
『勝負に出るか……、お前の気持ち、受け止めよう』
僅かに唇の端を上げて、アンジールの指先が滑らかにモニターの上を滑る。システムの起動アナウンスが響き、ディスクの回転するような低い起動音が上がり始める。空間が変化する。原色鮮やかな細かい無数のピースが次々と表れて、南国の空間を構築していく。無機質な空間はあっという間に、南国の色鮮やかなものへと変化した。
風に潮の香りが混じる。空は抜けるように青く、そして高い。僅かに蒸し暑く、酸素が濃い気がする。聞き慣れない鳥の鳴き声や、波音。
「やった!! 南国いらっしゃいませーっ!!」
ザックスはその場で勢い良くジャンプする。そして背伸びをして、大きく息を吸った。ちょっとだけドキドキするけど、大丈夫。問題なし。折角だし、まずはちょっと歩こうよ。
「なぁ、アンジール!!」
「何だ」
「折角だからさ、ちょっと散策」
そしておもむろにアンジールの腕を掴むと、ずんずんと歩き始めた。
「おい、ザックスッ……全く」
その声音と表情から「仕方ないな」と言っているのが充分分かる。アンジールはザックスに引っ張られるままに歩いた。いつしか自然と笑みが溢れている。前を行くザックスを見つめる眼差しは、限りなく優しい。
『そんなお前が、好きなんだ』
何処かで花が咲いているのだろうか。微かに南国らしい甘い香りが鼻腔を掠めた。
「アンジール」
「ん? 何だ?」
「あのさ、」
あのさ、俺あんたの事が、
20111010