うたかた


 「なぁ、今晩何食べたい?」
 「お前が作ってくれるのか?」
 冷えた緑茶を飲むのを止めて、アンジールが少し驚いたような顔でザックスを見た。
 「勿論。久し振りだからさ」
 そう言いながら少し恥ずかしげに笑う。自炊も慣れているし、料理はそこそこ得意だ。
 「そうだな……暑いし、さっぱりしたものが良いな」
 頭の中には冷製パスタが浮かんだ。自分はともかく、ザックスはパスタが大好きだから。
 「んー……じゃあ、素麺とかどう?」
 予想外の返事だった。確かにさっぱりしていて口当たりも良い。でも、それだけだと味気ないし栄養不足だ。
 「素麺か……良いな。ザックス、一緒に揚げ物……天麩羅でもするか?」
 大葉、獅子唐、茄子に南瓜……。天麩羅にすべく野菜たちが頭の中に浮かぶ。そんなアンジールを見ながら、ザックスは小さく笑った。
 「大丈夫。最初からそのつもり」
 台所に置かれている籠の中には、色々な野菜が沢山入っていた。「ほら」と言いながら籠の中身をアンジールに見せる。
 「予め用意しておいたんだ」
 「なるほど。さすがだな」
 大きな掌で頭を撫でられる。ザックスは嬉しそうに、そして得意気に笑った。

 *

 寿司桶に水を張り氷を入れて、素麺を泳がせる。
 大皿には沢山の揚げたての天麩羅。小皿には小葱や茗荷など幾種類もの薬味。
 ザックスは、ふたり分の食器を用意する。自分の箸と、アンジールの箸。
 手伝いをしようと台所を覗いてくるアンジールを「俺がやるからいいの」と制して追いやる。アンジールは「すまないな。有り難う」と言いながら、少し困ったように笑った。
 台所から離れ廊下を進み、庭を望む縁側に立つ。部屋の窓は開け放たれているから、涼しげな風が室内を抜けていく。明かりはいらない。空を見上げる。無数の星が瞬いていた。
 ここは都会の喧噪から、遠く離れた場所。アンジールがザックスと夏の避暑地として利用するために、密かに買った。涼しく静かで空気は澄み、緑豊か。そして夜は星が綺麗なのが気に入った。買い物等には多少不便だが、それは承知だ。
 毎年この時期は、ここでふたりきりで過ごす。もう、何度目だろう。
 「ん、」
 ふわりと微かな香りが何処からともなく漂う。アンジールはそっちの方を向いた。縁側の端に白い小皿が置かれていた。どうやら香が焚かれているらしい。近付いてしゃがみ込む。小さな赤い点から立ち上る細い煙。香はもう半分ほど灰になっていた。アンジールの体を薄白い煙が、音もなくゆっくりと包み込む。静かに目を閉じた。
 「アンジールー」
 自分を呼ぶザックスの声が聞こえる。夕食の準備ができたらしい。アンジールは返事をして立ち上がると、静かに縁側を後にした。煙がひどくゆっくり、ゆらりと揺れた。

 * *

 朝夕は涼しいものの、空気が綺麗な分、日中の日射しはそれなりに厳しい。
 早朝の散歩はふたりの日課で、朝露の残る緑色が微かに霧煙る空気に溶ける。ザックスが露草の花を摘んで、指先を青色に染めた。アンジールが笑って青い指先を手に取る。そっと口づけると、ザックスは静かに俯いた。
 日が昇り、影が一番短い時間はなるべく外に出ない。庭に生える草花もどこか暑そうで、ぐったりとしているように見える。青い空は抜けるように高くて、白い雲が所々に浮かぶ。アンジールは打ち水をした。柄杓から放たれた水が弧を描き、七色に光った。
 ザックスが切り分けた西瓜を持ってくる。良く冷えたそれはふたりの喉を潤して、つかの間の涼を与えてくれる。
 「甘い西瓜だな」
 「うん。八百屋のおじさんが、今年のは甘いって」
 ザックスの腕を西瓜の果汁が伝う。それを見たアンジールがザックスの手首をそっと掴んで、伝う果汁を舐めた。ひんやりとした熱さが皮膚を這う。
 「ア、アンジールッ」
 動揺したザックスの手から西瓜を奪うと、アンジールは小さく笑ってそのままザックスに口づけた。
 夕暮れ時、通り雨が降った。辺りが急速に薄暗くなり、あっという間に大粒の雨が地面を叩き付ける。遠くで雷鳴が聞こえた。アンジールとザックスは、縁側に座って外を眺める。雨音しか聞こえない。
 「すぐに止むな」
 アンジールが庭を見つめたまま言った。
 「うん。いつもの事だからね」
 ザックスもアンジールの視線の先を追い、それから綺麗な横顔を見つめる。床を突いている彼の手に思わず触れた時、空が光った。薄暗い部屋の隅には、仄かに蝋燭が揺らめいていた。
 日が傾き掛けると、ザックスは香を焚く。蝋燭の橙色をした炎の先端に香を近付ける。乾いた香は音もなく燃えて、ザックスは掌で扇ぎ香に灯った炎を消す。赤い点が徐々に濃くなる辺りの闇に浮かび上がった。慣れ親しんだ香りがゆうるりと漂い、煙が宙へと立ち上り、消える。
 「…………」
 庭の花壇の隅には燃え尽きた蝋燭と香の灰が小さな山になっていたが、先ほどの雨に濡れて、溶けて流れたようになっていた。それを見つめるザックスの碧い瞳が、切なそうに揺れて静かに伏せられた。

 *

 重ね合う体が冷たく熱い。
 途切れ途切れ、か細い嬌声を上げながらザックスは乱れた。
 指先でアンジールの肌を掴み、唇で触れて味わい、目で見つめて体を熱くする。耳で彼の声と吐息を聞いて、鼻で彼の匂いを嗅ぐ。
 何度も何度も求めて、離れないようにしがみついて、噛み付いた。
 「離さないで」はそのうち「離すな」へと変わり、声を上げて泣くザックスにアンジールは優しく笑って指先で涙を拭う。「困った奴だ」と言って、あやすように口づけた。
 夏の夜がふたりを溶かす。何度も溶かして、ひとつにした。
 誰も知らない、ふたりきりの……。

 * *

 「ご馳走様」
 アンジールが箸を置いて、律儀に手を合わした。
 「美味しかった?」
 「あぁ、毎回腕が上がっているな」
 熱い焙じ茶が入った湯飲みを受け取る。暑い時にこそ熱い茶が美味しい気がする。
 「ありがと。今日も素麺と天麩羅だけどね」
 そう言いながら食器を下げるザックスに、「天麩羅を美味しく揚げるのは難しいんだ」とアンジールは独り言のように言った。食器を流しに置いたザックスが嬉しそうに笑った。
 風が抜ける。何処かで風鈴らしき澄んだ音が響いた。

 *

 縁側に座ったザックスが、香炉代わりに使っている白い小皿を見つめている。あと少しで香がすべて燃え尽きようとしていた。
 アンジールはそんな目の前のザックスを、ただ無言で見つめていた。
 星が瞬いている。風は穏やかだった。時折、草木が触れ合う音が聞こえてくる。日中と異なる虫の音が、もう夏は終わりで秋が近いのだと告げているようだった。
 リーン、リーン……
 また風鈴らしき澄んだ音が聞こえる。今夜の明かりは、部屋の隅にある蝋燭のみ。
 「ザックス……」
 「あのさ、アンジール……これ、もうすぐ終わりそうなんだ。新しいの、すぐに」
 アンジールは首を左右に振った。
 「もうなくて平気だ」
 「…………」
 「ほら……、そんな顔をするな」
 そっとザックスの頬に触れると、耐えきれず碧い瞳から涙が零れ落ちた。
 「頼むから泣かないでくれ……。俺はお前の泣き顔には、弱いんだ」
 「毎回……泣かせるような事をしてるのは……、あんただ……」
 沈黙がふたりを包み込んだ。小さな嗚咽が薄闇に響く。蝋燭の明かりが徐々に小さくなり、部屋の中に闇が広がる。香はもう煙を上げていなかった。
 「……そうだな。すまない」
 アンジールが何処か苦しそうに、力なく小さく微笑んだ。その微笑みが切なく胸を抉る。ザックスは目を瞑った。
 「謝るくらいなら……、最初っから、……でも、でもっ」
 それでも。
 大きな掌が優しく髪を撫で、頬に触れてくる。堪らずに抱き付いた。僅かな瞬間だけ見つめ合って、唇を重ねる。切ない涙の味がした。
 「ザックス……、俺のザックス……」
 「アンジールッ、アンジールッ!!」
 闇がすぐそこまで来ていた。力の限り抱き締める。
 リーン……
 蝋燭が燃え尽きる音がジジと聞こえ、薄い煙が闇にすーっと立ち上った。

 * *

 「兄ちゃん!! この前の西瓜、美味かっただろ?」
 「あぁ、凄く美味しかった。ありがと」
 ザックスの言葉に、八百屋の主人が満足そうにニッと笑った。
 「しかしひとりであの一玉は、ちっと多かったんじゃねぇか?」
 主人の言葉に、ザックスは曖昧に笑う。
 「んー、まぁ……美味しかったから、食べちゃった」
 「その荷物……もう街に戻るのか?」
 「うん。野菜や果物、今回もお世話になりました」
 「おう!! また来年な」
 「はい」
 ザックスは主人に一礼すると、店の前を後にした。

 * * *



 うたかた。
 ゆらゆらと、揺れて陽炎。
 一年に一度、この時期になると彼が帰ってくる。
 この時期は暑さ故に地獄の釜の蓋が開いて、あの世とこの世の境目が曖昧になるらしい。
 ふたりだけの、ふたりしかしらないあの場所で、俺は彼をひとり静かに迎える。
 そんな心配はしなくても平気なのだけれど、万が一彼が迷わないように、彼が好きだった香を焚くのだ。
 この煙と香りを頼りに、ここに……俺のもとに早く帰ってきて、と。
 僅か数日の間だけ、彼と共にひっそりと過ごす。
 彼を送らなくてはならない夜は辛くて切なくて、笑おうと思っても、いつも泣いてしまう。
 本当は一緒に連れて行って欲しい。当然ながら彼は駄目だと言うのだけれど。

 「でも……それでも、俺は……」

 ザックスは立ち止まる。足元に落ちる自分の影を見つめた。舗装されていない乾いた地面とのコントラストに、目眩を起こしそうになる。
 あつい。
 このまま溶けて、崩れ落ちてしまいたい。
 「アンジー、ル……」
 煩すぎるほどの蝉の鳴き声が、ザックスの中から消えた。




 20110830