今度の週末に夏祭りがあるから、一緒に行こうと誘った。
夕食後の穏やかな時間、口にしていたカップをそのままにして、彼はほんの少し怪訝そうな顔をした。でも、それは毎年の事なので気にしない。
彼は夏の暑さの中の人混みが、少しだけ億劫なのだ。
「な、行こうよ」
「暑いし、混雑してるだろう?」
「夏だし、祭りだから当たり前だって」
「花火なら、部屋の窓からも見える」
「俺は花火を見上げたいんだ」
「…………」
俺はソファに座っている彼の横に座って、顔の前で両掌を合わせながら「な?」と頼み込む。彼は瞼を閉じて、僅かに眉間に皺を寄せながら何やら思案しているようだった。やがて、蒼い瞳がゆっくりと姿を現す。彼は肩を小さく上下させると、「仕方ないな」と小さく笑った。
「サンキュ」
俺は笑いながら、彼の頬に唇を押し当てた。
* * *
メインストリートの両脇には、色とりどりの数多くの露店が延々と軒を連ねていた。
威勢の良い賑やかな呼び声、食欲をそそる美味しそうな香り、道行く人々の笑い声や掛け声。混雑もあって、人の列はゆっくりと流れる。
西の空の下方がほんの僅かにオレンジ色に明るくて、でもそれも瞬きした瞬間に消えてしまいそうだった。東の空には入れ違いで幕を下ろす、夏の夜。
暑いのだけれど、幸い風が緩やかに吹いていた。幾分か湿度を含んだ夏の空気が、肌を撫でる。
「まだ花火までには時間があるな」
「うん、どーする? 店はどこもいっぱいかなぁ」
これだけの人混みだ。飲食店の類は混雑が否応なしに予想された。
「……うむ、仕方ないな」
アンジールが何やらぶつぶつと独り言を言いながら、小さく頷いている。そんな彼をザックスは不思議そうな顔で眺めていた。
「どしたの?」
「本当はもうちょっと後に取っておこうと思ったのだが……付いてこい」
するとアンジールは人混みの中をするすると斜めに進んで、メインストリートから外れる。どうやら他の通りに移動するようだ。
「え? あぁ……、うん、待っ……」
ザックスはアンジールを見失わないように、慌てて彼の後を追い掛けた。うっかりぶつかってしまった子供に「ごめんな」と小さく謝りながら。
*
オレンジ色の街灯が仄かに灯る細い路地裏を進むと、祭りの喧噪が遠くに聞こえる。自分たちと同じように人混みから抜け出た人々と、時折擦れ違う。所々欠けてしまった石畳にうっかり足元を引っかけそうになって、ザックスは「危ね」と小さく呟いた。メインストリートは立派に舗装されているものの、こういう細い路地裏は小さな痛みが目立つ。でも、気にならない。こっちのほうが何だかこの場の雰囲気に合っているような気がした。
今にも消えてしまいそうに弱々しい点滅を繰り返す街灯。隅に静かに漂う葡萄色の闇。遠い喧噪、近い静寂。道を一本中へと入っただけなのに、どこか別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。空間がゆらりと歪んでしまったかのようだった。
不意にアンジールが歩みを止める。ザックスは彼の一歩後ろから、静かに前を見た。
何の変哲もない木の扉があった。いつからここに扉としてあるのだろうと思わせるほどに、古めかしさを醸し出している。看板や表札らしきものは一切なく、燻し銀のドアノブがひとつ付いているだけのただの木の扉だ。
アンジールが扉を叩く。しかしそれは、ただノックしているだけではない。何かのリズムに合わせているように、何度も拳でドアを叩いている。ザックスはその光景をじっと無言で眺めていた。やがて、ドアの内側からも何やら叩き返すような音が聞こえたかと思ったら、ドアノブがガチャリと回って扉がゆっくりと開いた。空気が扉の内側へとゆっくり吸い込まれる。
薄暗かった。アンジールに続いて、ザックスは扉をくぐる。目の前に現れた空間に思わず声を失った。
天井には無数のロープが張り巡らされていた。そこから束になった様々な植物が、一見無造作に吊されている。でもよく見ると植物は種類ごとに束にされているようだったし、それらには小さな紙札が付いていて、日付らしき数字と何かが細かい文字で記されていた。
もうすっかり乾燥していて、触れると崩れてしまいそうなものもあれば、まだ葉や花の色が瑞々しく残ったままに吊されているもの、半分だけ枯れてしまっているものなど実にさまざまだった。
朽ちて吊されたのか、吊されて朽ちるのか。眠ろうとしているものと、永遠に眠り続けるものが共存しているようで、少し不気味な空間だ。
部屋自体は大して広くない。ただ、奥の部屋へと通じているらしき通路は暗く、果てしなく延々と続いているかのようだ。不思議な香りがする。干し草のような、それでいて薬臭いような香り。しかしザックスは不思議と嫌ではなかった。何処か薄恐ろしくも懐かしい感じがした。小さなカウンターに、小さなテーブルが三つ。そのうちの二つには古そうな書籍が今にも崩れそうな危ういバランスで、山のように積まれている。
ここは一体、何の場所だ?
カツン
「っと……あ、」
ザックスがうっかりと、吊されていた植物に頭を掠めてしまう。すると、それに付いていたビー玉ほどの大きさの種らしきものが取れて落ち、乾いた音をたてて床に転がった。
「ほら、気を付けろ」
「あ、うん。ごめん」
ザックスがしゃがみ込んで落ちた種を拾う。思ったより重くて、小さく振るとカラカラと乾いた音が聞こえた。
「久しいのぉ」
突然聞こえた知らない声に、ザックスは飛び上がらんばかりに驚いた。立ち上がるとひとりの老人が立っていた。見た目からしてかなりの高齢のようだが、声や足取りはしっかりとしている。何やら不思議な格好をしていた。どこかの民族衣装のようだ。渋い茶と緑を混ぜたような色の衣を纏っている。元は大きな布一枚で、器用に体を包み込んでいる。そんな感じだ。
「すっかりご無沙汰してしまい、申し訳ない。息災のようで何よりです」
アンジールがどこか懐かしげに老人と会話を交わす。ふたりの会話は穏やかなテンポながらも、尽きる事がない。やがてふたり揃って小さな、そして唯一本が山と乗っていないテーブルにつく。
そこから先、ザックスには何だか夏の幻のような時間だった。
*
「さっきの店、時々行くの?」
「あぁ。凄かっただろう?」
「うん」
思った以上に長居してしまった。そんな風には全然感じなかったのに。あの店の中は、やはり何処か時間の流れが異なっているのではないかと思ってしまう。
鼻の奥にまだ不思議でオリエンタルな香りを残しながら、ザックスは壁に寄り掛かった。路地裏の壁は夏でも何処かひんやりとする。アンジールが連れていってくれた先ほどの店は、所謂ハーブティーを飲ませてくれる店だった。しかし、単にそれだけではない。漢方薬と呼ばれる自然の生薬も扱っているのだ。布で目隠しされた棚の奥には無数の古めかしい瓶が並び、そのどれにも木の実らしきものや葉っぱの一部、草の根っこ、果てには昆虫の一部らしきものなど、所謂「漢方薬」と呼ばれるものが入っていた。
アンジールにとって、とっておきで秘密の店らしい。
「お前をそのうち連れて行こうと思っていたんだが……予想外にそれが『今日』になってしまったな」
「きっと『今日』はその日のための今日なんだよ」
ザックスが楽しげに笑いながら言う。
「そうだな」
アンジールもつられて笑った。
小さなテーブルで香りを楽しみながらハーブティーを飲みつつ、時折カウンターの奥から話し掛けてくる店主である老人の話を聞いた。それは植物に関するうんちくであったり、今日の夏祭りの事だったり。そして、アンジールの事だったり。
聞けば、彼は2ndの頃から時折この店に通っていたらしい。若いのに妙に植物に関して博識で、老人にとっては珍くて面白かったそうだ。聞けばお互いに故郷が近いそうで、その辺りの事も話が進む一因になったとか。
「なぁ、ああいう薬って……その……正直、効くの?」
ザックスが微妙な表情でアンジールに尋ねる。無理もない。普段自分たちが目にして、場合によっては服用している薬の類とは、根本的に種類が異なるからだ。
「即効性は劣るかもしれないが……効果はあるだろうな。体質にもよるだろうが、俺はそう思う」
肉体に特別な施術を施している今の自分には、もうそうじゃないかもしれないけれど。
「ふーん……でも、俺結構好きかも」
「そうか。なら良かった」
「うん。ほら、ああいう草っぽい匂いとかさ、何かちょっと……落ち着く感じ?」
そう言いながら何処か少し恥ずかしそうに笑った瞬間、夏の夜空が鮮やかに彩られた。夏祭りのメイン、花火の打ち上げが始まったらしい。
「あっ、始まった!! 早く行こう、アンジールッ」
この先の賑やかで明るいメインストリートに向かって、ザックスが待ってましたとばかりに駆け出そうとする。アンジールはオレンジ色と葡萄色の混ざり合った薄闇に翻った、妙に白く見えて自分より幾分か細い手首を掴んだ。
『えっ、』
そのまま少し力任せに引き寄せて、咄嗟に体の位置を入れ替える。急な事に驚いて振り返ったザックスのその顔に、
キスをした。
「ッ……」
掴まれた手首が熱い。花火の打ち上がる音と、その都度上がる歓声が耳の奥で残響となる。いつの間にか閉じてしまった瞼がキスをせがんでいるようで、でもそれは嘘ではなくて、ザックスはもう片方の腕でアンジールの背を小さく掴んだ。
ふわりと香りがする。あぁ、さっきふたりで飲んだハーブティーの香りだ。
「……ん、」
微かにちゅっと濡れた音が響いて、ふたりの唇が空気に触れた。
「アンジール……」
碧い瞳が姿を現す。薄闇にも美しい魔晄の光を放つ瞳。熱さに揺れているような、瞳。
アンジールは何も言わず、穏やかに笑っている。その表情は何処か「すまなかった」と唐突なキスを詫びているようで、それが彼らしくもありザックスは小さく首を左右に振った。そして、彼の胸元にそっと額を押し当てた。
「ちょっとビックリした。でも、」
「でも……?」
「嬉しかった」
握った手に力を込めると、きつく握り返してくれる。たったそれだけの事がどうしようもなく嬉しくて、ザックスは喉の奥がきゅっとした。
心の中で何度も何度も呟く。
「大好き」、と。
*
細い路地裏からメインストリートに出ると、人が溢れ返っていた。次々と打ち上げられる花火に人々の歓声が止まない。まるで夜空をキャンバスにしたかのように、様々な模様が花火で描かれる。色が変化したり、流星のように流れ落ちたり。
止まる事なく咲き乱れる、夏の火の花。
緩やかな風に乗って、火薬の匂いが辺りに漂う。ザックスはふと思った。原料が同じなら、壊したり傷付けたりするものを作るのではなくて、こんな風に人々を笑顔にするものをもっと沢山作ればいいのに。
「…………」
「色々なものを守るためには必要だと、分かっていてもだな」
自分だけに聞こえるような声で、アンジールがそっと言った。ザックスは隣に立つ彼へと静かに顔を向けた。夜空を見上げていた彼が、流れるような動作でこちらを向く。深く濃い蒼色をした双璧に吸い込まれそうになる。
「いつか……、きっと、」
「あぁ、きっと」
穏やかで、まるですべてを包み込んでくれるかのような眼差しが、ザックスの気持ちをゆっくりと落ち着かせる。
『どうして分かるんだろう、この人は本当に』
こういう時は大抵泣きそうになって、やっぱり今もそうで、でも泣くまいとしている自分の顔はきっと少しだけ歪んでいて変なのだろう。
打ち上げの音が途切れた。何やらアナウンスが聞こえる。いよいよクライマックスらしい。ここからは最後までノンストップで最大級の花火が惜しみもなく打ち上げられ、夜空がまるで真昼のような明るさになるのだ。
一瞬の静寂。そして。
ふたり触れ合った指先を絡めて、きつく握り合う手。今だけは隠さなくても平気。
大丈夫、誰も見ていないから。
みんな、花火を見てる。
花火だけが、俺たちを見てる。
頭上を真っ直ぐに見上げる彼の横顔は、幼さを残しながらも何処か凛としていてとても美しい。
万華鏡のように次々と現れる閃光を映す碧い瞳。やがてその目縁から、一筋の透明な雫がそれはゆっくりとスローモーションのように伝い落ちて、煌めいて、俺に焼き付く。
俺だけが、彼を見ていた。
20110820