■Side A
「眠れないのか?」
アンジールは自分の隣で横になっているザックスに声を掛けた。ベッドサイドの間接照明の仄かな灯りを消し、部屋を暗くしてから暫く経つが、ザックスは何度も寝返りを打っていた。
背中で声を聞いたザックスが、もぞもぞと動いてアンジールの方を向く。部屋の中は暗いけれど、魔晄の瞳には余り関係ない。アンジールの顔はちゃんと分かる。
「うん……何でだろ」
小さく息を吐いた。明日はオフだから起きる時間を気にする必要はないけれど、すんなり眠りに就けないのは何だか気持ち悪い。体は疲れている筈なのに、脳はすっかり起きてしまっている。そんな感じだ。
「ごめん、起こした?」
アンジールが眠りかけている隣で、自分は何度も動いてしまったのだ。ザックスが済まなそうな声で謝る。すると、逞しくも優しい腕に頭をそっと抱き寄せられる。アンジールはザックスの髪の毛に顔を埋めるようにして、「大丈夫だ」と囁いた。
「何か温かいものでも飲むか?」
「うぅん、平気」
小さく言いながら、そっとアンジールの胸に顔を埋める。息を吸い込むと、清潔で柔らかい石鹸の香りが優しく鼻腔をくすぐった。彼の体温をとても近くに感じて、それがとても嬉しくてザックスはひとり小さく微笑む。
アンジールの掌が、ザックスの頭を撫でる。指先が僅かに水分を含みつつも、さらりとした髪の毛をゆっくりと梳く。
「では、羊を数えてやろうか?」
「羊?」
突拍子な提案に、ザックスは思わず顔を上げた。アンジールは自分より僅かに下に現れ出た、ザックスの滑らかな額にチュッと軽いキスを落として、「あぁ、羊だ」と答える。
「眠れない時は、羊を数えると眠れると言うだろう?」
「数えてくれるの?」
碧い瞳がじっと見つめる。暗闇でもぼんやりと発光しているように見えるそれは、アンジールにとってとても美しくて愛おしいものだった。
「お前が望むならな」
目縁に唇を寄せて、舌先で小さく舐める。くすぐったいのか、ザックスが小さく身を捩った。アンジールは僅かに触れた眼球の生温かさに、思わずゾクリとする。
ザックスがアンジールの寝衣の胸元を静かにそっと握りながら、「アンジール」と呼ぶ。
「あのさ……羊、……数えて」
微かな空気の震えで、アンジールが小さく笑ったのが分かった。
「分かった。では、目を閉じるんだ」
言い終わらぬうちに、ザックスの両瞼はアンジールの掌で覆われたのだった。
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……」
両瞼に心地良い温かさ。耳には一定のリズムで、大好きなアンジールの甘く優しい低音の声。きっと、彼のこんな声音は自分しか知らない。誰よりも一番近くで、誰も知らない彼の声に身を委ねる。
大好き。
ザックスは手足の先から徐々に温かく、且つ重たくなっていくような感覚を覚えた。それは決して苦痛や不快なものではなくて、温かな湯の中に浮かんでいるような心地良い浮遊感を伴うものだった。
『……羊が……、……匹……、ひつ……』
アンジールの声が遠くで、微かに緩やかに聞こえる。
あぁ、何て心地良いのだろう。
「…………」
やがてザックスは眠りに落ちる。その顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。
* * *
「……羊が百七十……、ん?」
耳に小さくも規則正しい寝息が届いて、アンジールは羊を数えるのを止めた。ザックスの両瞼を覆っていた掌をそっと退けると、そこにはまるで子供のように穏やかで無邪気な寝顔があった。僅かに微笑んでいるようにも見えるその寝顔に、アンジールは何だか胸の奥がこそばゆくなる。
静かに頬を撫でても、ザックスは身じろぎせずにすやすやと眠り続ける。アンジールはブランケットを引き上げると、ザックスの体に腕を回して彼をそっと抱き締める。こめかみに唇を寄せて、
「おやすみ、ザックス」
百七十数匹の羊たちが、空の彼方で彼らを優しく見つめていました。
■Side Z
閉じていた瞼にスッと細い筋が入って、蒼い瞳が薄闇の中にその姿を現した。
「…………」
アンジールは数回瞬きをして、視線を窓の方へ向ける。開け放たれたままのカーテン越し、人工の光が夜の空に淡いグラデーションを描き、半分ほど欠けた月が見えた。
伸ばした右腕を枕代わりにして、ザックスは穏やかに眠っている。僅かに開かれた唇、規則正しく静かに上下する胸。額に掛かる前髪が彼を幾分か幼くさせた。
暫く愛しい恋人の寝顔を眺めて、それからおもむろにベッドサイドに置かれた時計を見遣る。時刻は真夜中。「眠らない都市」とは言っても、一般人の大半が眠りに就いている時間帯だ。
『どうしたものかな……』
アンジールは小さく息を吐いた。今夜はどうも寝付けない。うつらうつらとするものの、漸く訪れかけた眠気はあと僅かなところで遠ざかってしまう。
日付が変わろうとする頃にザックスと共にベッドに入って、お互い他愛もない話をしているうちに、ザックスは欠伸を何度も繰り返し始めた。それでもアンジールと話したいのか、「そろそろ眠るか?」の言葉に首を横に振って、「もう少しだけ」と笑った。しかし、ザックスは徐々に眠りの淵へ落ちてゆく。
愛しい彼が眠りに落ちる瞬間を見届けて、その滑らかな額に優しくおやすみのキスを落とした。僅かに点いていた室内の照明を完全に落として、そのままアンジールも目を閉じる。しかし、彼に眠りは訪れなかったのだ。
「……っと」
ザックスを起こさないように気を付けながら、アンジールは彼の頭の下にある自分の右腕を静かに引き抜くと、反対の腕でゆっくりと数回さすった。さすがに少し痺れてしまった。アンジールは苦笑しながら、ブランケットを肩口まで引き上げた。暫くザックスの様子を見て、彼が変わらず眠り続けるのを確認すると、そっとベッドから降りた。そして、音もなくベッドルームを出たのだった。
*
「いつ以来だろうな……」
アンジールはベランダから夜空を見上げながら、ポツリと呟いた。指先には火の点いた煙草が挟まれている。立ち上る紫煙が音もなく複雑な曲線を描きながら、夜空の闇の中へと霧散する。
普段アンジールは煙草を吸わない。それは「吸えない」のではなく、「吸わない」だけだ。有り難いのかどうかは分からないが絶えず吸っていないと落ち着かないという事もなく、且つ、暫く吸っていなかったから全然吸えなくなってしまった訳でもない。思いつけば、今夜のようにいつでも吸えるのだ。
ただ、普段吸わないのはやはり体に良い物ではないと理解しているし、ザックスの前では吸いたくなかったのだ。それに、ザックスと共に過ごす部屋の中に煙草の臭いを残したくなかった。だから、現にこうしてベランダに出て吸っている。
しかし、こうして夜眠れない時や、ひとり思索に耽りたい時、アルコールや煙草の類は何もないより良かった。
「吸い終わる頃には、眠くもなるか?」
短くなりつつある煙草を見つめながら、アンジールはもう一度深く、ゆっくりと紫煙を吸い込んだ。
*
ベッドルームに戻り、出た時と同様に静かにベッドに入る。ザックスの頭をそっと持ち上げて右腕をその下に伸ばした時。
「眠れないの?」
不意にザックスに声を掛けられて、アンジールは驚いてしまった。ぐっすりと眠り込んでいると思っていたのだが……。
「あぁ、どうも寝付けなくてな。すまない、起こしてしまったか?」
右腕をザックスの頭の下に伸ばすと、彼は頭の位置を確かめるようにもぞもぞと身動いだ。丁度良い場所になったらしく、何処か満足げで嬉しそうな顔をしている。
「うぅん……何となく目が覚めたら、いなかったから」
ザックスはそのまま小さく、アンジールの唇に自分の唇をゆっくりと重ねた。そして、「煙草?」と唇を触れ合わせたままに問う。
「すまない」
「嫌じゃないよ……だって、」
アンジールの頬に指先で触れながら、「それもあんただ」と言って笑う。ザックスは煙草の香りを纏うアンジールが、嫌いではなかった。寧ろ自分にはない、大人の男性が持つ色気みたいなものを感じてしまい、それは普段とは異なるアンジールの一面を見たようで、密かに好きなのだ。
可愛らしい事を言う恋人を、アンジールは優しく抱き締める。眠たげな瞼に唇を当てて、「お前って奴は本当に……」と小さく笑った。さっきまで眠っていた体は体温が僅かに高くて、ベランダで夜風に当たった体には抱き締めていてとても心地良い。このまま自分にも眠りが訪れてくるように思えた。
「なぁ、アンジール」
「ん?」
抱き締めていた体を少しだけ離して、アンジールは腕の中のザックスを覗き込む。何処かとろんとした瞳で、ザックスはこんな事を言った。
「羊、数えてあげる」
「眠れない俺のために?」
「うん。アンジールが眠れるように、俺が羊を数える」
そう言って、アンジールの返事を聞く前にザックスは掌で彼の両瞼を覆ってしまった。「アンジールが眠れますように」と小さく呟く。そして、
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……」
ザックスの眠たげな声が、アンジールの鼓膜を心地良く震わせる。
『まさか羊を数えて貰う事になるとはな……』
アンジールはザックスと体温を分け合いながら、徐々に瞼が重たくなってくるのを感じた。頭の中の草原には、ザックスの声と同時に一匹ずつ柵を跳び越えていく羊たち。
『しかし、この場合は「羊」ではなく「小犬」だな』
何気なくそんな事を思った。しかしそれは、眠りに向かっていたアンジールを覚醒へと促してしまうほどの絶大な力を持っていたのだった。「アーンジールーッ!!」と声を上げながら駆け寄ってくるザックスの姿が、猛烈な勢いで脳裏にフラッシュバックする。しかも、頭に犬耳が生えていたりして。
『か、可愛いじゃないかっ……小犬のザックス……』
いつしかザックスが数える「羊」の部分が、「小犬」に変換されて聞こえる。
「小犬が八十二匹、小犬が八十三匹、小犬が……」
『ッ!! ばっ、馬鹿っ!! 俺は一体何を考えているんだ?!』
アンジールはひとり焦った。この焦りがザックスに伝わっていない事を切に願う。だって、眠いのを我慢して、健気にも自分のためにこうして小犬を、いや羊を数えてくれているのだから。
アンジールは自分の中で良く分からない、端から見ればどうでも良いような様々な葛藤を続ける。案の定、彼に眠気はちっとも訪れてこなかった。そればかりか、いつの間にかザックスの方が数えながら眠ってしまった。
「……何て事だ」
アンジールは頭を抱えて天を振り仰ぎたい気持ちだった。
自分の両瞼を覆っている掌をそっと退けて、指先に口づける。そのまま静かにブランケットの中に戻した。見慣れている寝顔が、今は何故だか妙に可愛くて堪らない。
本当に自分はもうどうしようもなく、呆れてしまうくらいにこいつの事が好きなのだ。
アンジールは観念したように小さく息を吐いた。
「おやすみ、ザックス」
東の空が白んでくるまで、もうあと僅かだった。
元ネタは、羊を数えてくれるあのCDです。笑。
初めて聞いた時、私は眠るどころか興奮して眠れませんでしたー。
20110608