燐寸


・モデオヘイムから、独自に数年後設定。
・ザックスが痛いです。
上記条件が大丈夫な方のみ、どうぞ。
-------



 喫煙の習慣なんてものはなかったが、いつの間にか口にするようになった。それは本当に時々だけれど。ふとした拍子に思い出したように口にする。それも、無意識に。ゆらりと立ち上る紫煙は、彼の纏っていた香りそのもの。ただそれだけの為に、俺は煙草に火を付けたりしていたのかもしれない。
 それは、寝室のサイドテーブルの引き出しの中にあった。
 引き出しの中はこまごまとしたものが、それなりに綺麗に入っていた。煙草やライター、風邪薬に体温計、メモ帳とペン等。あまり使わなかったけれど、ゴムやローションの類まで。
 ゴムは最初の一〜二回だけ使った。初めて体を重ねた時と、その次。彼はともかく、俺は同性と肌を重ねるのは初めてだったので、知識としては何となく理解していたものの、とても緊張したし実は怖かった。彼はとても優しく俺の体に触れてくれて、じれったい程にゆっくりと熱を上げさせた。優しい眼差しの合間に見せる、男の眼差しに同性ながらも心が震えた。
 彼の下で全てを晒し体を開いて繋がった時、嬉しさと同時に少しの悲しさが俺を襲った。感じた事のない肉体的な苦痛、そして緊張と不安が勝って、嬉しいのに上手く快楽の波に身を委ねきれない俺とは異なり、落ち着いた手順でそれこそ手慣れたように俺を抱く彼。それが少しだけ悲しかった。その悲しさは彼と繋がって時間が過ぎる程に大きくなり、俺は遂に堪えきれずに涙を零した。突然泣き始めた俺に彼は困惑した。俺は、俺の内から熱を引こうとした彼の腕を掴み、いやいやと首を振った。
 「俺は、男と……するのは、初めてなんだ……。あんたの初めてなら……良かった、のに……」
 自分で言っておきながら、自分を酷く女々しく思った。今まで彼がどんなセックスをしてきたかなんて、知ろうとも思わないし知りたくもなかった。なのに、彼に抱かれる男は自分が初めてならば良いのにと、思わずそして強く望んでしまった自分。
 「俺だって、お前が初めてなんだ。まさか、同性を抱くなんて思ってもみなかった」
 「嘘」
 「嘘じゃない」
 「だって……手慣れてるっぽいし……」
 「これでも必死なんだ、実は」
 「……嘘だ」
 「嘘じゃない、本当だ」
 もう一度「嘘だ」と言いかけた俺の唇を塞いだ彼。泣きながら、尚も「嘘だ」と言い続ける俺に彼は困った顔で、でも僅かに嬉しそうに言った。
 「あぁ、もうどうしたら信じてくれるかな? お前の事がこんなにこんなに愛しくて、こうしてキス以上の事までしてしまったのに」


 俺はふと思考を現実に引き戻した。
 そう、あれから数日して俺達は再び体を重ね、それ以降はもう薄い膜なんてじれったいだけだった。何をどうやっても妊娠する可能性はないし、あとは病気の類の心配だけだったけれども、正直お互いにソルジャーという特異体質でその点は気にする必要はなかったのだ。仮にお互い何らかの病気に感染しても、それが未知の病原菌だったら科研と医療センターが躍起になってワクチンを開発するだろうし、既に良く知られている病気だったら注射一本であっという間に治ってしまう。そういう体なのだ。
 引き出しの奥に隠れるようにしまわれていたそれは、一箱のマッチだった。
 今では殆どその姿を見かけなくなり、存在そのものがアンティークだ。しかし、昔は飲食店や飲み屋のカウンターには必ず置いてあったとか。俺はベッドに腰掛けたまま、マッチ箱を眺めた。厚みは一センチ程度の長方形をした小箱。側面に店の名前や連絡先などは書かれていない。その代わりにアール・ヌーヴォーな画風のチューリップが描かれている。花弁や茎の曲線が滑らかに美しく組み合わさっており、ちょっとした芸術作品の様相だ。
 箱を振ってみると、カタカタと小さく音がする。中身が入っているようだ。俺は箱をスライドさせてみた。中には細くて小さな木片が何本も並んでいる。パラフィンなどが塗られた軸木の先端に、朱色をした頭薬が付いている。サイドテーブルの上には、煙草はあるもののあいにく灰皿がなかった。先程まで飲んでいたアルコールのグラスがあるのみ。グラスの中は空で、既に乾きかけている。俺は試しにマッチを一本を擦ってみる事にした。
 箱の側面の側薬に頭薬を擦り付けた。シュッと音がしたが、しかし何も起こらない。
 「湿気てる?」
 俺はもう一度、今度は少し力を入れて擦り付けた。小さな火花が飛んで軸木の先端が発火した。薬剤の焼ける臭いが鼻を掠める。あっという間に軸木が短くなったので、俺は慌ててグラスの中にマッチを放った。ジジッと音を立てて火が消える。
 間接照明を消した。部屋の中はカーテンの隙間から差し込む、外からの僅かな明かりのみ。この程度の薄闇なら、何ら問題なく見る事が出来るこの瞳。魔晄の瞳。彼が愛した碧い瞳。
 彼は俺の瞳の色を「空みたいだ」といつも言っていた。そんな彼の瞳は海のような蒼色で、その深く優しい色をした瞳に見つめられる事がこの上ない喜びだった。その瞳にどうしても触れたくて、唾液で濡らした指の腹で一度だけ触れた事がある。眼球の白と蒼の境目にそっと触れた時、この世にふたつとない美しいものに触れた喜びと、それに触れる事をこの世でただ自分だけが許されている事への優越感の余り、震えてしまった程だ。
 指先でもう一度マッチを摘む。シュッという音と共に、部屋が指先の小さな灯りで照らされる。軸木が燃え尽きそうな時、壁に映し出された影がゆらりと揺れた。思わず振り返る。でも、そこにはカーテンで閉じられた窓があるだけだった。指先に熱さを感じて、思わずマッチを落としてしまった。空中で燃え尽きて、フローリングの床に焦げた軸木が落ちた。
 しんと静まり返る部屋。それとは反対に、ざわめく胸。
 俺はまたマッチを擦った。揺らめく炎が目に焼き付く。思わず目を伏せた時、良く知った声が耳を掠めた。
 「ッ!!」
 手にしていたマッチをグラスの中に落として天井を見上げた。マッチはグラスの中で燃え尽きた。
 それから俺は立て続けにマッチを擦った。発火したらすぐにグラスに落とし、燃え尽きる寸前に新たに擦る。そうして半分程擦ったところで、俺は堪えきれずに泣いた。
 「ど……し、てっ……」
 彼が俺を呼んでいる。何度も何度も呼んでいるのだ。
 「アンジールッ、いるんだろっ?! ここに、いるんだろっ!! ああぁっ」
 『……ザックス』
 「アンジールッ、アンジールッ!!」
 俺の両腕は宙をさまよった。部屋を明るくして確かめたかった。でも、出来なかった。明るくしたら、無慈悲な現実が待っているだけだ。この薄闇の中に彼はいる。間違いなく、いる。部屋を明るくしたら彼は消えてしまう。だから、全てを照らすなんて事は出来ない。
 『……ザックス、俺の愛しい……ザックス』
 「も……嫌だ……あんたがいない、なんて……もう堪えられ、ない」
 俺は口元を掌で押さえながら泣き叫んだ。
 彼を喪ってから、俺の目に映る世界はまるで色を失ってしまったかのようだった。いっそ、気が触れてしまえば良いのにと何度も何度も思った。それでも、ソルジャーの強靱な精神力の所為なのか、俺にそれは許されなかった。あぁ、何という事だ。
 俺は生きながら死んでいる。
 その時。サイドテーブルに置いていたマッチ箱が、突然床に落ちた。カタ、と小さな音を立てて。
 俺はそれを拾い上げると、二本を残して後は全てグラスの中に放り入れた。グラスの中の小さな木片の山。
 「お願い……お願、いっ」
 俺は祈るように縋るように、二本のマッチを同時に擦った。一際大きく発火したそれをグラスの中に落とし、掌に残された箱も落とした。そして、瞼を閉じた。
 ジジ、ジ……
 一瞬消えかけた炎がバッと燃え上がる。中に放ったマッチの頭薬全てに着火して、その炎は箱を燃やし始めた。部屋の中がサイドテーブルを中心として一際明るくなる。それでも、部屋の隅には薄闇がひっそりと横たわっていた。俺は瞼の裏側が明るくなるのを感じて、ゆっくりと目を開けた。そして、目の前の彼に微笑んだ。
 「遅いよ……遅すぎるよ……」
 『すまなかった』
 「連れてって」
 『…………』
 「連れてってくれるよな」
 『……良いのか?』
 「あの時から、俺はとっくに……」
 グラスの中の炎が徐々に小さくなっていった。明るさは勢いを失って、その代わりに部屋の隅から徐々に薄闇が迫ってくる。小さな小さな炎が最後に照らしたのは、宙で触れ合ったふたりの指先だった。
 フッ
 部屋から明かりが消えた。音が消えた。グラスから細く立ち上る白い煙が、天井に向かってスーッと伸びる。
 ザックスはとても幸せそうに微笑んでいた。




 20101106