「今夜、空いてるか?」
「えっ! あぁ……、うん」
「そうか。書類の束を片付けたら、ちょっと邪魔する」
「りょーかい」
ザックスは片手を上げながら廊下を歩き出すアンジールの背中を見つめた。彼が背負っているバスターソードが廊下の照明を反射して鈍く光る。
こめかみから流れ落ちた汗が頬を伝い、顎の先から落ちるのが分かった。ついさっきまで、自分達は灼熱の砂漠地帯にいたのだ。ドア一枚隔てた向こうの空間は、ヴァーチャル・システムによって様々な空間をリアルに創り出す。このシステムを使った訓練は好きだけど、砂漠地帯は相変わらずちょっと苦手だ。
アンジールがザックスの教育係に就いてから、およそ三ヶ月が経過しようとしていた。ある時は父のように、またある時は兄のように、そして尊敬して頼れる先輩でもあって……。
「……よっしゃ!」
ザックスは小さくガッツポーズをした。その顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。自分の教育係であるアンジールに対して、ザックスは気付けばいつしか淡い思いを密かに胸に抱いていた。それは、紛れもなく「恋」だった。
アンジールがザックスの部屋を訪れたのは、21時を少し過ぎた頃だった。急遽打ち合わせが入り、思った以上に遅くなってしまったと、彼は済まなそうに言った。
少しは片付けたものの、決して綺麗とは言えない自室のフローリングの上には、数本の空き缶と半分ほど中身の残ったワインボトル。それと少々のつまみ。
「こうして部屋でお前と飲むのは、初めてだな」
「うん、初めて。俺、正直驚いた。ドア開けたら、アルコールを持ってアンジールが立ってるんだもん」
「てっきり説教されるかと思ったか?」
「んー、ちょっとね」
クスクス笑いながら、ザックスはビールが入った缶に口を付ける。アルコールの類は余り飲めないけれど、ビールは結構好きだ。すぐに腹が膨れてしまうのが欠点だけれど、量が飲めない自分には余り関係ないかもしれない。
ザックスはさり気なく、自分の正面に座っているアンジールを見た。ワインを飲むには少々似合わない手持ちのグラスを、節の綺麗に出る指先が掴んでいる。綺麗に切り揃えられている爪は滑らかで、健康そうな色をしていた。だらしなくならない程度のリラックスした格好のアンジールに、ザックスはひとりドキリとする。制服姿とはまた異なる雰囲気が、胸にこそばゆい。髪の毛は少し水気を含んでいて、汗を流してきた事が窺える。いつもは制服で隠されている首元の鎖骨が、妙に色気に満ちて見え、ザックスは思わず目を伏せた。
「どうした?」
「えっ、あ……うん、何でもない」
「そうか?」
アンジールはザックスの顔を覗き込み、指先で彼の額を軽く弾いて小さく笑った。優しげな目元に、ザックスも自然と笑った。
「どうだ、少しは慣れたか?」
「ん?」
「教育係が就く事に」
「あぁ……」
1stへの見込みが充分にあるとされる2ndには、専属の教育係が就く。その時からお互い、公私関係なく共に過ごす時間が否応なしに多くなる。戦闘に関する知識や技術については勿論、それ以外にも生活面を始めとするありとあらゆる部分で、1stになるために必要な事柄を徹底的に叩き込まれるのだった。
中には性格的な折り合いが付かずに、教育係の交代を申し出る者もいるらしいが、その時点でマイナスの評価が付く事は必至だった。幸い、ザックスにそのような心配は必要なかった。誰が教育係に就くかは、全て上が判断する。こればかりは自分ではどうしようもなく、運と言っても過言ではなかった。1stになる為には、時には運も味方に付けなくてはいけないという事だろうか。
ザックスが手にしていた缶をフローリングの上に置く。カツンと乾いた音がした。
「結構慣れた。キツイ事も沢山あるけど、楽しいし……。俺、アンジールが教育係で良かったよ」
そう言って、ザックスは照れ笑いのような笑顔で頭をガシガシと掻いた。
そう、楽しいのだ。毎日が。覚えなくてはいけない事や、クリアしなくてはいけない事は沢山たくさんあるけれど、それ以上に彼と一緒にいられる事が嬉しくて楽しくて仕方ないのだ。
「そうか、なら良かった」
アンジールは柔らかい笑顔を浮かべ、瞼を閉じた。そして、そっとグラスに口を付けた。
何だか頬が熱い。飲み過ぎたのかもしれない。胸がドキドキする。ほんの少し、息が苦しかった。
どのくらい時間が過ぎたのだろう。チラッと時計を確認したら、優に一時間以上が過ぎていた。アンジールとは時折会話を交わす程度で、後は無言。
『どうしたの、かな……』
何か用事があって自分の部屋に来たと思われるアンジールだが、しかし先程から一向に喋り出す気配がなく、今もグラスにワインを少しだけ注ぎ足している。ザックスはもう一缶開けようか迷いつつ、既に腹が一杯になっているので断念し、つまみのピスタチオを口に放り入れたその時。
沈黙を破ったのはアンジールだった。
「……お前、」
アンジールの声が聞こえたと思ったら、彼の指先が自分の頬骨の辺りに触れていた。思わず、小さく息を飲んだ。
「前から思っていたが……、綺麗な瞳だな」
「そう、かな……。アンジールだって、綺麗じゃん……蒼色……」
目の下をなぞるような動きをした指先。いつしか頬全体を掌で触れられて、そっと僅かに上を向かせられた。目の前のアンジールが、自分を見つめてくる事実に体が火照る。鼓動が早まる。胸の奥がきゅっと締め付けられる。きっと、顔とか耳とかも赤くなってるに違いない。恥ずかしくて、でもどうしていいのか分からない。
嫌じゃなかった、こうして触れられる事が。
アンジールが蒼い双璧を細めて静かに言う。
「ずっと見ていたい」
「見てれば、いいよ……」
視線を合わせたまま、こめかみから手を差し込まれて髪の毛を梳かれた。その余りにも優しい動作に、ザックスは思わず瞳を閉じた。耳の後ろがざわざわして、それは項から背中へと滑るように全身に広がってゆく。嫌じゃなかった。ただ、恥ずかしくてどうしようもないだけ。
アンジールが小さく息を吐いて、静かに手を引いた。
「飲み過ぎたかな……すまない」
「……酔っぱらい?」
「そうだな。指導する立場で、最悪だな」
「うん」
そして、長い腕で抱き寄せられた。同時に、小さく「嫌がれよ」と言われた。その声音はいつものアンジールからは想像も出来ないような、少しだけ怯えを含んだような声。それがザックスを酷く安心させた。
「嫌がられたい?」
「……すまない」
「嫌じゃ……ないよ」
「嘘つくな」
「嘘じゃない、よ……」
触れられている部分からアンジールの体温を感じる。それはとても心地良かった。彼の何もかもがこんなに近くで、こんなに嬉しい。胸のドキドキは止まらない。でも、それ以上に嬉しくて、今にも涙が零れてしまいそうだった。
部屋から音が消える。
「お前が、」
「うん」
アンジールは少しだけ腕に力を込めた。その次の言葉を言いかけて、躊躇って飲み込むのが彼の気配で分かった。
ザックスは、少し悲しいような切ないような気持ちになる。アンジールの次の言葉に期待してしまう自分がいた。それが何処か嫌で、「自分勝手だ」と自分に言い聞かせる。
でも。
こんな風に抱き締められたかったし、体温を感じたかったのだ。それが現実になった今、もうそれだけでも充分だとさえ思える。今だけでも構わない。明日になったら、この思いを大切に胸の奥にしまって、何も変わらずにいつも通りにまた彼の近くにいられるならば。
そっと数回ゆっくりと瞬きをして、涙が零れそうなのを何とかやり過ごした。そのままきゅっと瞼を閉じたザックスの耳に、アンジールの低音の声が響く。ともすれば聞き逃してしまいそうな程、小さな声が。
「……好きだ……お前が」
「……それって……、酔っぱらいの戯れ?」
「違う」
「じゃあ、勢い?」
「そう思われても……仕方ないな」
「俺も……、飲んでるんだ」
「え……」
「だから、」
ザックスは静かにアンジールの背中に腕を回した。それはぎこちなく、でも確かめるようにしっかりと。
「おあいこ……。好きなんだ、俺も」
言った瞬間、きつく抱き締められた。
「好きだよ、アンジール……とても、好き……本当に」
ドキドキして、切なくて苦しくて。彼の隣にいるだけで、情けなくも時には逃げてしまいたくなるほどだった。いつしか何気ない彼の仕種も彼との会話も、全てが眩しくてとても大事で堪らなくなった。
気付けばいつも彼の姿を探していた。いつも彼を追っていた。少しでも近くにいたくて、もっとずっといたくて、じゃれるように彼に飛びついた。「まるで仔犬だな」と呆れつつも頭を撫でてくれた彼の笑顔と掌の温かさに、心の中で密やかに彼への思いを折り重ねた。
胸の奥で「好き」と呟いたら、それだけで泣きそうになってしまうくらいに、自分は彼に恋しているのだ。もうずっと。
伸ばされた熱い腕は、まるで美しく燃え上がる紅炎。
掴まれて、引き寄せられて、抱き締められる。
瞬時に燃え尽きてしまいそうな、この激しい熱さが嬉しくて。
20100908