休日の午後。
たまには一日部屋で過ごすのも悪くない。
ローテーブルを脇に避けて、ラグマットの上には大きめのトレーが置かれている。僅かに中身の残っているグラスと、数枚の空いた皿。ソファを背もたれ代わりにして、アンジールとザックスは並んで座っていた。
正面のテレビには、恐ろしく古い映画が映し出されている。モノクロの画面だった。まだフィルムというものが存在していた時代のものらしい。ザックスはモノクロの映画を観る事自体初めてだった。
画面の中では漸く逢えたヒロインとその恋人が、きつく抱き締め合っている。
『嬉しいだろうなぁ……』
ぼんやりと思いながら、グラスに僅かに残ったワインを飲み干した。甘くてフルーティーな香りが口中に広がる。
何やら愛の言葉を囁きながら、モノクロのふたりは熱い口づけを交わす。手書きっぽい「The End」の文字が、ザックスには新鮮だった。
『キスで終わり、か。ハッピーエンドは嫌いじゃないな』
ゆっくりと流れるエンドロール。トレーの上にグラスを置くと、小さくコツと音がした。ザックスは映画の内容を振り返る。
『要するに、キスで始まってキスで終わりじゃん……。でもさ、』
はたと気付く。ある意味、自分達もそうだと。
まだエンドロールは終わらない。ザックスはチラッと横を見る。アンジールは依然変わらずに画面をじっと見ていた。でも。
『どうして分かるんだろう……』
彼はそっと、ザックスの方を向いたのだった。
ふたりは何も言わずに、じっと見つめ合った。先に言葉を紡いだのは、ザックス。
「なぁ」
「ん? どうした」
「変な事、聞いて良い?」
「何だ?」
「キスとセックス、どっちが好き?」
予想外の質問に、アンジールは驚く。一瞬、その蒼い瞳が見開かれたが、今度はすぐに細められた。ザックスは恥ずかしがる様子もなく、ただただじっとアンジールの答えを待っているようだった。
『一体、何を思ったのやら……』
ザックスが唐突にこういう事を言い出す時には、必ず何かある。その「何か」とは、些細な事がきっかけで起こった感情の起伏が大半だ。不意に不安を感じたり、取るに足らない小さな事が気になったり、それを思い悩んだりした時。ザックスは、ぽつりとアンジールに質問したりするのだ。
「この時間から、随分と色めいた事を聞くんだな」
窓の外は明るくて、午後の日差しが部屋一杯に溢れている。それなのに。
「なぁ、どっち?」
「両方、だな。お前となら」
「『お前となら』って……俺以外にいるのかよ」
「いると思うのか?」
「……バカ」
アンジールはザックスを抱き寄せた。大人しくすんなりともたれてきた体は温かくて、アンジールは器用に体を動かしてザックスを背後から抱き締めるように座る。目の前の首筋に顔を寄せると、彼の匂いと仄かにシャンプーの香りがした。
「さて、一体どうしたものかな?」
アンジールが僅かにおどけたような口調で、ザックスをきゅっと抱き締めた。そのままじっと待つ。今までの経験から、ここではじっと待つ事。ザックスが喋り出すまで、ただ抱き締めて待つ。変に促したり茶化したりしては、彼の機嫌を損ねてしまうのだ。
ザックスが息を吐いて、肩を上下に小さく動かす。
「キスは始まりの合図、始まりはキス。そして、終わりもキス。絶対。でも、どうしてだろう……、どうしてキスをするんだ? だから……キスをしないで始まった事ってあったかなと思って」
アンジールはじっと耳を澄ますようにして聞いていたが、分かるような分からないような内容だ。恐らく、ザックス自身も良く分かっていないだろうし、上手く言葉で言えなくてもどかしく思っているに違いない。
「つまり、キスをしないでセックスするって事か?」
「う、ん……? そう……かな」
「試してみるか?」
「えっ」
ザックスの返事を待たずに、アンジールの掌がシャツの上から胸元を探る。耳元に唇を寄せられて、「唇以外は有り、な」と囁かれたと思ったら耳朶を甘噛みされた。置かれているトレーをさり気なく端に寄せて、アンジールはザックスを横たわらせる。
「明るい場所でこうしてお前を見下ろすのは、久し振りだな」
碧い瞳に明るさが加わって、色ガラスのように透き通る。ザックスが頬を微かに染めて、フイと横を向いた。恥ずかしいのだ。
「ここ……、明る、い」
「昼間だから当たり前だな」
「ッ……、恥ずかし、ぃ」
アンジールの手によって着ているシャツをはだけさせられて、胸元を露わにしたザックスがシャツを手で掴む。大胆な事を言うクセに、妙なところで酷く恥ずかしがる。
「なら、着たままするか?」
「なっ……!!」
それはそれで、却って情欲をそそるかもしれない。アンジールは意地悪く目を細めた。
伸ばした手がアンジールの頬に触れると、ザックスは自分の顔の近くに引き寄せるようにした。紅い唇がうっすらと開かれて、とても扇情的だ。引き寄せたアンジールの唇が触れるか触れないかの寸でのところで、ついと遠ざかる。
「あっ」
「キスはしないんだろ」
両脇に手を突いて、ラグマットの上に横たわるザックスを見下ろしながら、アンジールは指先でザックスの唇に触れた。自分を見上げてくる碧い瞳は、何処か恨めしげだ。
自分で言っておきながら、ザックスはやっぱり堪えられなかったのだ。「唇にキスをしない」という事に。その証拠に、先程からスキあればアンジールの唇にキスをしようとしてくる。
アンジールはまだ、ザックスに戯れ程度の愛撫を与えただけだった。どうしても、その先に進めないのだ。いや、進んでしまう事は出来るのだが、自分の中のザックスを大切に思う気持ちが頑なにそれを拒絶した。
改めて思う。ふたりの間で、キスはとても重要なのだと。ただ唇を触れ合わせる、たったそれだけの至極簡単な動作が、どれ程大きな意味を持っているのか痛烈に思い知った。
ザックスの腕が、再びアンジールを引き寄せるべく伸ばされる。アンジールが手首を掴んで指先にキスしてやると、ザックスは首をいやいやと左右に大きく振った。
「もう、言わないから……」
「何を?」
「……ごめん」
「何の事だ?」
アンジールが惚けると、ザックスはいよいよ泣きそうになった。意地悪が過ぎると後が大変だと思い、アンジールは優しく微笑んだ。
「キス、したいんだろ」
「う、ん」
ちゅっ。
アンジールの唇が、ザックスの頬に音を立てて押し当てられ、すぐに離れた。ザックスが「信じられない」と言わんばかりの目で、アンジールを見上げる。
潤んだ碧い瞳が、不意に揺らめいた。ジワリと目縁に涙が溜まる。ザックスが瞬きをしたら、それは透明な滴となってポロリと零れた。その美しさに、アンジールは思わず見とれてしまった。
指先でそっとザックスの頬を撫でる。そして、おもむろに体を起こすとソファにもたれた。追うようにザックスが首を持ち上げて、アンジールを見る。
ふたりの視線が宙で交差した。アンジールが小さく笑って、ゆっくりと瞼を閉じた。そして、
「お前のキスが、欲しい」
気が付くと、自分の上に跨ぐようにして座ったザックスが、きつく抱き付いていた。彼の手によって頭を抱えられ、激しく口づけられる。応えるように舌を絡めると、なお一層激しさが増した。頭の奥がクラリとするような口づけに、暫し酔い痴れる。
「ふっ……、ん」
小さな声を聞いたと思ったら、漸く唇を解放される。そっと目を開けると、そこには唾液で濡れた唇を惜しげもなく晒すザックスがいた。僅かに覗く紅い舌先が、この上なく淫らに見えた。
「ごめん、もう……言わないから」
「あぁ」
アンジールはザックスをぎゅっと抱き締める。愛しさが込み上げた。
「あの、さ……」
「何だ?」
「えっと……その、」
目の前の頬がほんのりと色付く。ザックスは小さく唇を噛んでいた。あんなに情熱的なキスをしておきながら、全く以て恥ずかしがり屋だ。目の前の彼が、アンジールには可愛くて仕方なかった。
「ザックス」
「な、に?」
アンジールの顔が傾いたかと思ったら、頬を寄せられて、耳元に唇の柔らかさを感じた。耳朶を小さく舐められながら、そっと囁かれる。
「始まりのキスにしても、良いか?」
「ん……良い、よ……でも、ここで?」
「あぁ、ここで」
ザックスを抱き締めたまま、アンジールが体を移動させた。ザックスはラグマットの上に再び横たえられる。はだけたシャツをそのままに、胸元に彼の重みを感じた。見上げる天井が明るい。リビングには午後の光が溢れていた。
「待っ、て」
「何故?」
「明るいのは……、やっぱり……恥ずか、しい」
ザックスは自分の首筋に顔を埋めるアンジールの頭に手を添えて、僅かに身を捩り、ゆっくりと上げさせた。
「嫌なのか?」
「…………」
「そんなに恥ずかしいのか?」
「う、ん……」
「そうか……でも、恥ずかしがるお前を見たいんだよ」
何か言いたげに開かれた唇を、僅かの差で塞いだ。どうしてだか今、この瞬間、ザックスを好きだと思う気持ちが溢れて止まらない。好きで好きで大好きで、愛しくて堪らなかった。
唇が離れ、暫し息を付く。
「お前、凄く……可愛いな」
ザックスがいよいよ顔を真っ赤にしながら小さく、本当に小さく言った。
「バカ……」
「酷いな」
「……でも、大好き」
伸ばされた腕が背中に回るのを感じながら、アンジールは嬉しくて笑った。首筋に押し当てられた頬の熱さが、とても心地良かった。
20100704