眠り継いだその先は


 パチン、と小さな音が響いた。指先から切り取られた爪が、小さく宙を舞う。
 パチン。
 ザックスは彼の爪を静かに切る。自分より少し大きい掌、長めの指とその先を覆う綺麗な形の爪。
 「出来、た……」
 夜の真ん中。ベッドサイドの間接照明が、部屋の中を仄かに照らす。その何処か不安げな明るさが、寝室を異空間に変える。
 「短くなって、サッパリしたな」
 彼の手を取って、ザックスは満足そうに笑った。そのまま指先を絡ませてキスをする。
 「なぁ、アンジール……」
 ザックスは彼の頬にそっと触れた。温かかった。


 もう三ヶ月、彼は殆ど眠り続けていた。
 原因は不明で、現時点で手の施しようがなかった。身体機能が悪化している訳でもなく、バイタルは全て正常。ただひたすらに眠り続けているのだ。
 当初は日中でも強い眠気に襲われる事が増え、懸念した本人が医療センターで検査を受けた。だが、何処も異常はなかった。
 しかし、ソルジャーとしての業務に支障が出てきた為、ラザードは彼に休暇命令を出した。これには彼自身も何も言わなかった。言えなかったのだ。もう、その頃の彼は、自分の意識とは関係なく突然眠りに落ちてしまうまでになっていたのだから。
 休暇となった彼は、日に日に眠る時間が多くなり、いつしか一日のうちで寝ている時間の方が圧倒的に多くなった。そして、遂に殆ど眠り続けるようになったのだ。「殆ど」と言うのは、一日中完全に眠り続けている訳ではないからだ。
 彼は必ず、夜中の三時頃に目を覚ました。そして、一時間もしないうちに再び眠りに就くのだった。


 ザックスは羽織っていたバスローブを床に落とすと、静かにベッドに上がった。ブランケットの中に体を滑り込ませる。アンジールの体温で常に温かいベッド。彼が着ているバスローブの前を開き、そっと掌で肌を撫でる。左胸に掌を当てると、ドクドクと規則正しい鼓動が伝わってきた。耳を押し当てると、彼が生きている音が聞こえる。それはザックスを酷く安心させた。
 そのまま胸元を下りて、滑らかな肌触りの腹部に顔を寄せる。覆う骨のないそこは、綺麗に鍛えられた腹筋が付いていても、ザックスの顔を柔らかく温かく包む。少し沈む感触にザックスは瞼を閉じる。時折、内側から何やら小さな音が聞こえてくると、彼の内臓が動いているのだと、ひとり納得した。
 さらりとした皮膚の感触が心地良くて、そっとザックスは頬を擦り寄せる。指先で腹筋を辿り、そっと舐めた。そして、確かめるように何度も何度も舐める。
 夜な夜なザックスは、彼の体を指先で辿り、舐めた。
 昨夜は胸元を、その前は二の腕を。日によって場所を変え、指先で形を、舌先で味を確かめた。
 自分の体で、彼の指先と舌が触れていない場所などなかった。だから自分も、彼の体をそうしたかった。自分の熱と感触を植え付けるように、ザックスはアンジールの体を愛撫し続ける。溢れんばかりの愛しさと、そして少しばかりの切なさを胸に。
 「なぁ、そろそろ、時間だよ……」
 ザックスがアンジールの顔を覗き込みながら、両頬を掌で包み込む。彼の閉じられた瞼が、ピクリと震えた。ザックスはそれを見逃さず、うっすらと笑みを浮かべる。
 「起きて……」
 そして、ゆっくりと口づけた。彼を眠りの底から引き上げるように、彼の口内を徐々にきつく吸う。生温かい内頬を探りながら、何もかも飲み込んでしまいたいと思う。一方的に与えるだけの口づけに、ザックスはいつも泣きそうになった。しかしやがて、ゆるゆると彼の舌先が自分のそれに絡み付いてくる。それが物凄く嬉しくて、ザックスは夢中で口づけた。
 起きて、起きて……。俺を見て、俺に触れて。俺を呼んで。その瞳で、指先で。その声で。
 「ん、」
 アンジールが微かに声を上げる。ザックスが気付いて、そっと唇を浮かせる。濡れた唇が空気に触れて、少しひんやりとした。
 「アンジール……」
 ザックスは微笑む。とろんと眠たげな蒼い瞳が、自分を真っ直ぐに見つめている事に、体の奥を静かに興奮させた。蒼い瞳にこの体を犯されているようで、ザックスは瞼を閉じて息を吐く。
 彼とセックスしたくて堪らなかった。
 そんなザックスを見つめていた蒼い瞳が、そっと細められる。すると、じれったいほどゆっくりと持ち上がった腕が、優しく強く、無言の激しさを含んでザックスを抱き寄せた。


 ザックスは気付いていた。彼の覚醒する時間に、自分が酷く眠くなるようになった事に。そして自分も、今日付で無期限の休暇扱いになったのだ。
 彼が寝ている時間に目を覚まし、彼が起きる時間に眠る。それが徐々に現実となろうとしていた。いつも隣にいるのに、お互い決して起きて相手に会えないだなんて。
 「アンジール、アンジー……ル……、アンジールッ」
 ザックスは彼と繋がりながら、泣きながら何度も何度も彼の名前を呼んだ。もう起きている彼に、自分の声を届けられなくなる。今だって、ともすれば眠りに落ちてしまいそうなのだ。
 「ザックス……、ザックスッ」
 愛おしい声が自分の名を呼ぶ度に、アンジールは自分の熱を打ち付ける。もうとっくに気付いている。自分の体と彼の体に起こっている、この奇妙で不可思議、そして何て残酷な現象に。
 夜の真ん中。
 刹那、ふたりは切羽詰まったように求め、抱き合った。共にあおい瞳を見つめ合いながら。


 好き、好き、大好き。ずっと……、ずっと愛してる。
 あぁ、ずっとずっと愛している。
 どうして良いか分からない程、大好きで、あんたが欲しくて堪らないんだ。
 欲しかったら、欲しがればいいさ。お前が望むなら、俺はいくらだってくれてやる。
 あぁっ。見て、俺を見て。ずっと見てよ。お願い、俺だけを見て。
 もうずっと見てる。いつだってお前は隣にいて、そんなお前をちゃんと見てる。見えるんだ。
 声、聞かせて。俺が何も言わなくても、あんたの声を俺に聞かせて。俺の名前を呼んで。
 お前もな。俺の名前を呼んでくれ。何度も何度も呼んでくれ。

 「愛してる」


 何故、こんな残酷な事が。
 中途半端に奪うなら、最初から与えるな。
 与えるなら、奪うな。
 半身を強引にもぎ取られるような痛み。そして、悲しみ。
 どうしてどうしてどうしてどうして、どうして。
 お願いだから連れて行かないでくれと、縋るように祈ったりしたけれど……。
 もう祈らない。

 祈る神なんて、いない。


 パチン、と小さな音が響いた。指先から切り取られた爪が、小さく宙を舞う。
 パチン。
 アンジールは彼の爪を静かに切る。自分より少し小さい掌、僅かに華奢な指とその先を覆う綺麗な形の爪。
 「ほら、出来たぞ……」
 夜の真ん中。ベッドサイドの間接照明が、部屋の中を仄かに照らす。その何処か不安げな明るさが、寝室を異空間に変える。
 「短くなって、サッパリしたな」
 彼の手を取って、アンジールは小さく笑った。そのまま指先を絡ませてキスをする。
 「ザックス……」
 アンジールは彼の頬にそっと触れた。温かかった。口づけて、上顎を舐め上げた。彼が好きで、感じる場所。
 手を繋いだまま、アンジールは再び瞼を閉じた。すぐに眠りが体を包み込む。
 自分達に、朝も昼も夜もない。確かなものは、繋いだ手の温もりだけだ。それだけで、もう良かった。
 もう、良いんだ。


 体温と夢を絡ませ合って、追い掛け合うようにひっそりと眠るふたりの姿を、小さなモニターが映し出す。その前を、白衣を着た研究員が静かに通り過ぎた。




 20100509