そこはまるで、天上の世界。見渡す限り、一面の薄紅。空気が仄かに香り、空間が色付いている。
「綺麗……」
ザックスはそっと呟き、その場に立ち尽くす。見上げれば、桜。ひらひらと桜貝のような花弁が、まるで雪のように宙を舞い、ザックスの掌に落ちた。何処を見ても、一面の桜、桜、さくら。
アンジールは少し離れた場所から、そんなザックスの姿を静かに見つめていた。
時折吹き抜ける緩やかな風が、柔らかく枝を揺らして、さわさわと音を立てる。それ以外は、しんと静まり返っていた。
「こんなに沢山……」
足元を見ると、散り落ちた花弁が降り積もっていた。踏みしめる感触が柔らかい絨毯のようで、靴を履いているのが何だか勿体ない。そんな事を思いながら、前方のザックスを見遣ると、彼は靴を脱いでいるところだった。
「同じ事を考えていたとはな」
何だか可笑しくて、アンジールは小さくクスリと笑った。靴を脱ぎ捨てて素足となったザックスは、踏みしめる花弁の感触を確かめるように足を動かし、やがてゆらりと歩き出す。
「気を付けろよ」
ザックスは振り向いて頷いた。彼の素足の足首が妙に艶めかしくて、アンジールは目を細める。瞼の裏に、強く焼き付いて離れない。
むせ返りそうな程の桜に包まれながら、ザックスは不思議な感覚に襲われる。
体がふわりと浮いているようだった。まるで、無重力の宇宙空間にいるかのように。果てしなく、光も闇も時間さえも、何もかも全てを包み込む宇宙。
「ここは、何処だ……」
自分の居場所が分からなくなってしまいそうだった。桜に埋め尽くされた空間は、不可思議な世界に繋がっているのかもしれないと思った。
声が聞こえてくる。何を言っているのかは分からない。でも、間違いなく声だ。それも無数の。
遙か昔、この場所でこうして桜を見上げた人達の思いが、頭に直接流れ込んでくる。空間に残された桜への思いが、時を越えてずっと静かに横たわり、こうして今、自分を包み込む。そして自分の思いも、今この瞬間から共に溶けて混ざり合い、またこの場所に残されるのか。桜の花が咲き始めると、少しずつ辺りを漂いはじめ、散ると再び咲く日までそっと眠りに就くのか。
「好きなんだ、彼が……」
ザックスは胸に手を押し当てて、愛しい彼の姿を思い描いた。切ないくらいに好きだった。誰かを好きになる事が、こんなにも切なくて苦しいのだと、アンジールを好きになってザックスは初めて知ったのだ。
彼と想いは通じ合っているのに、ひとり恋い焦がれて、どうしようもなくて涙を流した事も、一度や二度ではなかった。
愛してる愛してる、愛してる。
愛しすぎて、死んでしまいそうだった。
「……愛してるんだ」
その時、さーっと一陣の風が駆け抜ける。ザックスの体を抱き締めるように花弁が舞い、そして上空に吹き上がる。風の流れを追うように見上げると、辺りを覆うようにひらひらと舞い落ちる花弁。
『本当に、良いのか?』
何処からともなく聞こえる声が、ザックスに問い掛ける。
「あぁ、構わない……」
きっと彼は頷いて、この手を取ってくれるだろう。蒼い瞳で微笑みながら。
『これがお前の、願いなのだな』
ザックスは、静かに目を閉じた。
風が、強く吹いた。
静かだった空間に、突如強く風が吹く。桜吹雪。全身に桜の花弁が打ち付けられるかのようだ。アンジールは思わず、顔を腕で覆った。
「ザックス……ッ」
妙な胸騒ぎがして、アンジールはザックスが歩いて行った方向に駆け出す。
行き着いた先で、アンジールは言葉を失った。
その空間だけ、桜の花弁がまるで螺旋を描くように空へと舞いながら昇っていく。くるくる、ひらひらと。その様は、海中での魚の大群のようでもあったし、銀河の無数の星の集まりのようでもあった。昇りゆく花弁の筋は、まるで天上へ続く螺旋階段。
その中心に、ザックスが佇んでいた。
「アンジール……」
その姿は薄紅色に霞み、陽炎のように儚く消えてしまいそうだった。無数の花弁が彼を包み込んで、そのまま時空の彼方へ連れ去ってしまいそうで、アンジールは急いで駆け寄る。
「ザックス!!」
二の腕をぐいと掴む。ザックスがゆっくりと碧い瞳でアンジールを見つめる。何て綺麗で澄んだ碧。薄紅の唇が、そおっと言葉を紡ぐ。
「永遠に俺だけを愛すると……、誓って」
アンジールの指先に、ザックスの指先が触れる。アンジールは、静かに力強くザックスの指先を絡め取った。自分を愛した指先と繋がる悦びに、ザックスは小さく震えた。
ザックスの耳元に、アンジールが唇を寄せる。
「お前しか、愛さない……だから、」
肩口から顔を上げて、アンジールがザックスを見つめる。「ほら、そんな泣きそうな顔をするな」と思いながら優しく微笑み、そっと抱き寄せると唇を触れ合わせた。
桜よ、この想いを聞け。
「だから……、一緒に連れて行け」
そのまま強く抱き締め、深く口づけた。
お前をひとりにはしない。決してしない。させない。
愛しさ故の切なさや苦しさに涙を流したのは、お前だけじゃない。俺だって同じだ。この胸の内に潜む荒ぶる感情、烈風の如くの激しさで、お前の全てを奪ってしまいたいんだ。俺だけのお前にしてしまいたいんだ。
淡い吐息を漏らしながら、そっと唇が離れる。艶やかに濡れた唇で、ザックスは儚くも妖艶な笑みを浮かべた。アンジールは酷く、この手で「穢したい」と思った。
「離さない……」
風が強く吹き、枝を揺らして花弁を散らす。枝を離れた無数の花弁は、風と溶け合って空間を満たす。もつれ絡まり、捻れ、やがてひとつになって天へ昇る。
刹那の夢、まぼろし。
静寂が訪れる。
降り積もった薄紅の花弁が、微かな芳香を漂わせていた。
「ッ!!」
ザックスは思わず飛び起きた。目の前の見慣れた寝室の風景に、思わず安堵の息を付く。
「夢、か……」
酷く疲れた夢を見た。その証拠に、動悸が鳴りやまない。耳の奥でドクドクと音がしている。内容を詳しくは覚えていないが、桜が咲き乱れていた風景だけは鮮明に覚えていた。アンジールと一緒に、桜を見ていた気がする。
ザックスがそっと振り返ると、アンジールがこちらを見ていた。
「ごめん、起こした?」
ちょっと驚きつつも、自分が飛び起きた所為で、彼を起こしてしまったのではないかと気にした。すると、予想外の言葉が返ってきた。
「夢を見た……。それで、目が覚めてしまったんだ」
アンジールはベッドサイドに腕を伸ばすと、間接照明のスイッチを押した。灯りが小さくふたりを照らす。
「アンジールも? 実は、俺も」
ザックスは腕を引き寄せられて、アンジールの胸に体を預けた。彼の鼓動が心なしか早い。
「アンジール、どきどきしてる……」
「あぁ、何故だろうな」
ふたりはそっと指先を絡ませ合った。
額にキスを受けながら、ザックスがぽつりと呟く。
「桜、綺麗だったよね」
アンジールの指先に、僅かに力が込められた。「やっぱり彼も同じだ」とザックスは確信した。
「あぁ、満開だったな」
「花弁に埋もれて、消えちゃうかと思った……」
「……その時は、一緒だ」
力強く抱き締められた。息もつけない程、激しく口づけられる。
愛してる。
全て、奪って。
触れ合わせた唇が僅かに離れた瞬間、ザックスが囁いた。
「穢して、欲し……い……」
この胸がざわめく。
熱く淫らな吐息を漏らしながら、アンジールの肩越しにザックスは見た。
薄闇に舞う、桜の花弁を。
20100403