油皿に灯心を入れ、火をともす。框に貼られた紙越しの柔らかい明かりが、部屋の隅まで照らそうと伸びる。しかし、四隅までは照らす事は適わず、奥行きが曖昧になる程の闇が静かに潜んでいた。辛うじて明かりが届くところと闇との境目は、ゆらりゆらりと揺らめいて、まるで陽炎のようでもあった。
ザックスはじっと奥を見つめる。漆黒の椀の中を、無言で覗き込んでいるような錯覚に陥った。このまま自分が、するりと闇に飲み込まれてしまいそうだった。自分はこうして明るい場所にいるのに、突然現れる不安と恐怖。しかし何故だか、目が離せないのだ。部屋の隅に現れた、濃くて深い闇から。
すると、視界が突如変化して、闇が消えた。替わりに、花が風に舞う様が広がる。アンジールが衝立を置いたのだ。
「部屋の奥に、何か見つけたのか?」
「いや、何も。ただ……」
闇を遮った衝立の方を向く。あの奥には変わらずに闇がいて、こちらをじっと……。ザックスはアンジールの衣の袖を、ぎゅっと握った。
「目が離せなくて……」
「それは放っておけないな」
アンジールの指先が、ザックスの顎を掴んだ。多少強引に顔を向けさせて、口づける。閉じられた歯列を舌先でなぞると、小さく開かれる。するりと中に入って、熱い口内を蹂躙した。お互いの舌を、熱く絡め合わせる。発せられる水音が淫猥で、それが情欲を掻き立てた。
「ふっ……ん、ぁ」
唇を離すと、唾液が透明な細い糸となって、名残惜しげにお互いを結ぶ。ザックスが伏せていた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。目の前のアンジールがその様を見て、「ほぅ」と感嘆の声を上げた。
「全く以て、艶っぽいな」
「……ばか」
ザックスは拗ねたようにフイと横を向く。しかし、その頬はほんのりと赤い。素直じゃない恋人に、アンジールは小さく笑った。
「寒くないか?」
「うん、平気」
唐紅の衣一枚をしどけなく纏い、褥の上にたおやかに座る。裾から覗く肌の色はまるで雪のようで、妖しいまでに唐紅に映える。頬や首筋、果ては項までもほんのりと色付かせているのに、どこか凛として瑞々しく気品に溢れている。差し詰め、「座れば牡丹」の様相だ。
アンジールが、細工の施された外黒内朱塗りの蝶足膳を手元に寄せる。その上に置かれた朱漆の杯に、静かに酒を注いだ。小さな箱の蓋を開け、紙の包みを取り出す。そっと開けて、中に入っていた細かな金箔を酒に浮かべた。
「ザックス」
振り向いて伸ばされた腕を掴んで、胸元に引き寄せる。その体を背中から抱くようにして首筋に顔を埋めると、噎せ返るような薫香が鼻腔をくすぐる。白檀、丁子、桂皮等の香料を合わせた香を焚きしめた衣は、その高貴な香りを部屋に漂わせると同時に、纏うザックスの体にも移した。アンジールは項に口づけて、その皮膚を吸い上げる。ピクリとザックスが体を震わせた。項に朱い花弁が散らされた。
「ほら」
アンジールが杯を手渡す。浮かべられた金箔を見て、「綺麗だな」と呟いたザックスに、「お前の方が綺麗だ」と言う。予想通りの反応をした彼に、アンジールは楽しげに微笑んだ。
お互いを見つめながら、そっと掲げて杯に口を付ける。アンジールは、ザックスの嚥下する時の喉の動きに、思わず魅せられた。
「……ん」
白い喉元を晒しながら、ザックスがゆっくりと口から杯を離す。
「これ、美味いな……何の酒?」
「米から作った酒だそうだ」
「へぇ」
どうやら気に入ったらしい。ザックスの空になった杯に、静かに酒を注いだ。口に含ませたら、香りはふわりと広がって鼻に抜ける。今まで飲んだ事のない味を、ザックスは少しずつ楽しんだ。
「アンジールは? 飲まないの?」
何度目かの杯を空にして、ザックスは自分の肩口に顎を乗せるアンジールに尋ねた。
「飲んでるさ、ほら」
アンジールが手にしている杯を見て、ザックスは安心したように頷いた。目元は潤み、頬も耳朶も先程より色付きを濃くして。はだけた胸元も足先も、熱を帯びたかのように色付き始めている。
「少し、酔ったか?」
自分に寄り掛かってくるザックスに、アンジールはその体を撫でながら声を掛ける。「酔っていない」と首を横に振るが、目はとろんとしていた。身動いだかと思ったら、おもむろに体を返して向かい合うように座った。そっと胸元に額を押し当てる。空になったふたつの杯を、アンジールは蝶足膳の上に戻し、膳を少しだけ奥へ動かした。
アンジールの衣の合わせ目に、そっと指先を忍ばせる。多少は着崩しているものの、それは彼の色香を引き立てる要素となっている。なのに、自分は帯さえも結んでいない。湯上がりの素肌に、唐紅を一枚纏うだけ。そんな状況に今更ながら抗議せんとばかりに、ザックスは合わせ目につつと指を這わせ、帯に手を掛ける。
「随分と積極的だな……」
アンジールは蒼い双璧を細めた。
「何か……、ずるい」
ザックスの指先を手に取って、アンジールはそっと口づけた。その指先には、鳳仙花の花で爪紅が施され、淡く色付いている。朱い指先を、赤い舌先がチロリと舐めた。
「んっ……、アン……ジー、ル……」
唇から零れる吐息が熱い。上気する頬や火照った体が、アンジールの情欲を激しく揺さぶる。
「色っぽくて、綺麗だ」
「も……ぉ」
ザックスがアンジールの頬に、軽く唇を押し当てる。すると、ふと何かを思い出したように、ザックスが動きを止めた。
「どうした?」
「……なぁ、アレ、どうした?」
言いながら、ザックスは自分の唇に薬指を当てた。その仕種で、アンジールは何かを悟る。
「あぁ……、ほら、ここにあるぞ」
腕を伸ばして、蝶足膳を引き寄せる。杯等に紛れて、蛤の貝殻が乗っている。アンジールをそれを手に取って、ザックスに差し出した。貝殻を受け取り、そっと開ける。内側には金地に白百合が描かれており、そこに紅が入っている。
「……見たい?」
ザックスがクスクスと笑いながら、上目遣いでアンジールを見上げた。その表情は酷く妖艶で、匂うように色艶めいている。アンジールは唇の端を持ち上げると、ザックスの朱く色付いている耳朶を口に含んだ。鼻に掛かった声が宙に舞う。そして、いやらしげな口調で囁いた。
「染まったお前を、見たい」
ザックスが、ゆっくりと頷く。貝殻に入った紅を、アンジールに差し出した。
「染めて……」
アンジールは差し出された紅を、薬指の先に取る。左手をザックスの顎に添えて、僅かに上向かせた。ザックスは瞼を閉じて、うっすらと唇を開く。その下唇に、アンジールの薬指が静かに乗せられた。
まるで時が止まったかのようだった。静寂が部屋を支配する。火桶の木炭が微かな音を立てた。行燈の揺らめきが、ふたつの影を蜃気楼のように障子に浮かび上がらせる。聞こえるのはお互いの微かな息遣いと、衣擦れの音。香炉からは絶えず香が薫ずり、立ち上る白く細い煙が衝立の向こうの闇に向かって、広がっては霧散する。
下唇に乗せられた紅を、左右に薄く広げる。そのまま上唇にも。艶に唇を彩る紅、その奥から小さく覗く白い歯。紅と白の鮮やかな対比が、アンジールの目に焼き付く。そっと指先を唇から離すと、ザックスが瞼を上げた。その碧い瞳の奥に、アンジールは情欲を見た。
「凄艶たる事この上なし……、だな」
「…………」
ザックスは手にしている貝殻を合わせた。紅と白百合が、その姿を貝殻の内にひっそりと隠す。それを再び、蝶足膳の上に戻した。
コトリ。
まるでその音を合図にしたかのように、アンジールがザックスを力強く抱き寄せて、紅い唇に自分の唇を重ねた。ザックスがアンジールの背中に腕を回して、指先に力を込める。性急な衣擦れの音が、ふたりの気持ちを更に逸らせた。
「んっ……フッ……ぁ」
ザックスが息を継ぐ。混ざり合った唾液がお互いの唇を酷く濡らし、飲みきれずに顎を伝った。アンジールの手がザックスの後頭部をまさぐり、項から掻き上げるようにすると、気持ち良いのかザックスは首を反らした。
抱き締め合って口づけたまま、ふたりの体が褥に沈む。ひとしきり唇を貪り合って、漸くアンジールが静かに顔を上げた。ザックスの両脇に腕を突いて、彼を見下ろした。
白い褥に、淫らに広がる唐紅。その間から覗く、白くも朱く色付いた四肢は、しどけなく投げ出されている。
「紅、付いてる」
笑いながらザックスが、朱い指先でアンジールの唇を拭うようにした。
「今度は俺が、お前に付ける」
言うや否や、アンジールはザックスの首筋に顔を埋めて、きつく肌を吸い上げた。朱い鬱血の跡が、艶めかしく浮かび上がる。ザックスは嬉しそうに微笑んだ。ふと、視界の隅の花器に目が留まる。腕を伸ばそうとすると、アンジールが花器を引き寄せてくれた。生けられている牡丹を手に取る。薄紅の花弁が幾重にも折り重なって、掌に溢れんばかりの大きさ。ザックスは牡丹を頬に寄せて、その花弁の滑らかさと折り重なる感触とを楽しむ。そして、外側の一枚をおもむろに摘み取ると、頭上に腕を伸ばして、そのままひらりと落とした。音もなくひらひらと自分の上に舞い落ちる花弁。一枚、また一枚とザックスは花弁を摘んでは散らす。
「綺麗……」
「あぁ」
アンジールも花器から牡丹を手に取り、おもむろに立ち上がった。不思議そうに見上げるザックスに微笑むと、少々乱暴に手にした牡丹の花弁を毟り取る。それをザックスに向けて散らした。沢山の薄紅が、ザックスとその回りに舞い落ちる。
ひらひら、ひらり。
ザックスにせがまれて、生けられていた全ての牡丹の花弁を散らした。沢山の花弁に埋もれるように横たわるザックスは、壮麗ながらも微かに恥じらいを滲ませていて、まるで牡丹の花言葉そのもの。
「なぁ、アンジール……」
「何だ?」
抱き寄せて額に口づけながら、その頭を柔らかく撫でる。
「花に……埋もれてるみたいだな」
ザックスは言いながら、うっとりとした目でその指に摘んだ花弁を眺める。
「『願わくば花の下にて……』、なんて言うか?」
ククッと笑う。アンジールの腕が、ザックスの肌を緩やかに辿り始める。時折、敏感な箇所に触れては、ザックスが身を捩って「嫌」と囁く。「嘘付きだな」言うと微かに眉を顰めて、フイと顔を反らす。その様が本当に可愛らしくて、アンジールはつい微笑んでしまう。
零れる言葉とは裏腹な反応をする体を、今すぐにでも掻き抱いてしまいたいのを我慢して、優しく丁寧に愛撫した。
「はぁ……、ん、ぁ……」
ザックスの紅い唇から、纏わり付くような熱い吐息が漏れる。
やがてその体は、アンジールの腕の中で綺麗にそれは見事に色付いて、その姿は今まさに咲き乱れんとする花そのもの。彼自身から、甘く魅惑的な香りが漂っているかのよう。
「花の下でも、良いけど……」
ザックスは手を伸ばし、自分を見下ろすアンジールの頬に触れる。蒼い瞳が自分を静かに熱く見下ろしている。それだけで、体の奥がさらに熱を上げる。熱くて熱くて、堪らなくなる。この熱に触れられるのは、目の前の彼ひとり。
アンジールが目を細めた。
「花の下でも良いけど?」
「……あんたの下が、良い」
綺麗な笑みを浮かべたザックスの唇に口づける。下唇と上唇を交互に甘噛みして、触れ合わせながら睦言を交わす。
「この手で……散らしたい」
「散らされたい」
その力強くも優しい手で。
ねぇ、早く手折って。
「あぁ……ッ」
短く小さな歓喜の声がして、衣擦れの音。それは止む事なく、徐々に激しさを増してゆく。散らした牡丹の花弁が、時折宙をひらりと舞った。
やがて、淫靡な水音を止め処なく溢れさせながら、絡ませ繋がり合った影が衝立にゆらりと映る。色鮮やかに美しい様は、まさに百花繚乱。しかし、何て淫らな情景か。
願わくば……
20100104