甘いXXX


 それは、忘れた頃にやってくる。
 空調で適度に暖められた寝室で、アンジールとザックスは寝る前の穏やかな時間を過ごしていた。今夜はお互いにベッドの上で読書。アンジールは特集が面白そうだった雑誌を、ザックスは図書館で借りてきた写真集を眺めていた。
 最近のザックスは、空き時間に図書館へ行って、写真集を借りてくるのがブームらしい。資料探しに図書館へ行った時、たまたま写真集が開架されている棚の前を通った。大判の鮮やかな表紙が目に留まり、一通り棚を見て、気になるものを借りてきたのが始まりだ。この前借りてきて、今眺めているのは波の写真集。「ザックスらしいな」と、アンジールは本を見て思った。ベッドの上に、四角い海が広がる。穏やかな波、飛沫の舞うダイナミックな波、まるでそびえ立つ山のような神々しいまでの波。ザックスがゆっくりとページを捲る度に、様々な波が現れては消える。
 「そう言えば、もう海なんて久しく行ってな……、痛ッ」
 写真集を閉じながら、海に思いを馳せていたザックスが急に口元を押さえた。
 「どうかしたのか?」
 アンジールは雑誌を閉じて、隣で「痛ぇ」と呟くザックスに声を掛けた。
 「ん……、唇が切れた。今日の昼間からなんだよ」
 発端は今日の午後。親しい2nd数人でたわいのない話で盛り上がり、みんなで笑い合っていたら、急に唇に痛みを感じた。指で触れると、血が付いた。唇が割れてしまったようだ。確かにここ数日、乾燥しているな、とは感じていた。自分は乾燥肌でもないし、皮膚が弱い訳でもない。それでも唇が乾燥して、カサカサしているなとは思っていたが。
 その時は大して気にも留めていたかったが、実は思った以上に厄介だった。忘れた頃に、同じ箇所が割れるのだ。何度も繰り返えすと、さすがに痛い。ザックスは無意識に唇を舐めるのだが、却って乾いてしまい逆効果だった。
 「最近、特に乾燥してたからな。唇の割れは癖になるし……ほら、ちょっと見せてみろ」
 アンジールがザックスの顎に手を添えて、僅かに上向かせた。ザックスはそっと瞼を閉じる。その仕種はまるで唇を差し出しているみたいで、アンジールは思わずキスをしようかと思った。しかし、今回はそうも行かず、ザックスの唇の状態を見る。下唇のやや右側の部分が割れて、血が滲んでいた。チクチクと痛むに違いない。
 「あいにくだが、リップクリームがないんだ」
 アンジールが困り顔で言うと、ザックスが「大丈夫」と笑う。しかしその瞬間も、唇が痛むらしく顔を顰めた。一度割れると、話すにしろ食べるにしろ唇を動かす度に痛いものだ。
 ザックスが思わず唇を舐めそうになるのを、アンジールが制する。
 「舐めたら、却って乾燥する。気になるだろうが我慢しろ」
 「そっか……つい、無意識に舐めちゃうんだよな」
 ザックスは確かめるように、そろりと指先で唇に触れると「あーぁ」と息を付いた。
 「リップクリームはないが、代わりのになりそうなものがある」
 「それ、貸して欲しい」
 アンジールがベッドから下りて、寝室を出て行った。暫くして戻ってきた彼の手には、小さな瓶と小匙が握られている。
 「何それ」
 ザックスが首を傾げるようにして、アンジールに問うた。ベッドに上がりながら、アンジールは「ハチミツ」と答える。
 「ハチミツって、あのハチミツ」
 「それ以外に、ハチミツってあるのか?」
 アンジールの笑いを伴う返事に、ザックスは少し頬を膨らませた。機嫌を直せとばかりに、アンジールはその頬を優しくそっと撫でる。
 「ハチミツは、時に薬用として使われる事もあるんだ」
 「そうなの?」
 ザックスが、小さな瓶の中身を眺める。柔らかい、黄金色のとろりとした蜜が入っている。少し瓶を傾けると、中のハチミツがゆっくりゆっくりと動いた。じれったいまでの動きが、時として見ていて飽きないから不思議だ。
 「あぁ。殺菌と消炎作用があるそうだ。子供の頃、喉が痛い時に舐めたりしなかったか?」
 ザックスは思い出す。そう言えば、風邪を引いた時等に、ハチミツに漬けた果実やハチミツそのものを、舐めさせられた覚えがある。
 「うん、確かに……風邪引いた時とか、ハチミツ舐めた」
 「だろ? だから、何もしないよりは良いだろう。乾燥も防げるし」
 ザックスの手から瓶を取り、蓋を開ける。ベッドの上に、ふわりと甘い香りが漂う。ミツバチは何の花から蜜を集めたのだろう。クローバーかアカシアか、はたまたレンゲか。花から花へ飛び移り、花の香りと花粉をその身に浴びて、こんなに綺麗で甘い蜜を作り出す。
 「ザックス、ほら」
 「ん」
 やっぱりザックスは、その瞼を伏せる。カツン、と小匙が瓶と触れ合う、小気味良い音がした。アンジールが小匙の先に、ハチミツを掬う。瓶から伸びた蜜が途切れたところで、薄く開かれているザックスの唇から、小匙を口に含ませる。
 「……甘い。塗るんじゃないの?」
 舌先に広がる甘さを味わいながら、思わず聞いた。
 「どうせ、『舐めたい』と言い出すんじゃないかと思ってな。違ったか?」
 「うー……」
 実はその通りだったので、ザックスは小さく「当たり」と呟く。何でもお見通しのアンジールが、ほんの少し恨めしい。でも、それ以上に嬉しいと思う自分がいた。
 「そのハチミツ、何だか美味い」
 「香りが良いだろ。クローバーのハチミツらしい」
 「へぇ、クローバーね」
 ザックスは、クローバー畑を飛び交うミツバチを思い描く。濃い緑の絨毯のように一面のクローバー畑。白くて丸い、まるで小さな生き物の尾のような花が、そよぐ風にゆらゆらと揺れる。ブンと羽音を立てながら、花から花へ飛び交うミツバチ達。
 「ザックス」
 アンジールの声に、ザックスは再び瞼を閉じた。
 瓶から小匙に、先程より少し多めにハチミツを掬う。掬い上げたハチミツが、細い糸となってとろとろと瓶に流れる。細い細い糸はやがて途切れ、重たげな滴となって、すうっと小匙に溶ける。アンジールが瓶を持ったままの左手で、器用にザックスの顎を上向かせた。ザックスの唇が、自然に薄く開かれる。小匙を下唇に当てて、ハチミツを静かに唇に移した。小匙の背で丁寧にハチミツを塗り広げる。割れた部分をハチミツが覆った時、僅かにザックスが唇を震わせた。その部分にハチミツを僅かに厚塗りにして、アンジールはそっと小匙を唇から離した。
 甘い香りのする艶やかな蜜に、薄紅の唇が柔らかく包まれる。
 「ほら、塗れたぞ」
 「サンキュ」
 ザックスが瞼を上げた。アンジールの碧い瞳とぶつかり合う。僅かに細められたそれは、じっとザックスを見つめていた。
 「な……に?」
 「キスしたい」
 「えっ……、でも、折角塗ったの、に」
 そう言っている間にも、アンジールの顔が近付いてくる。ザックスは頬を染めて、再び瞼を閉じる。唇に、温かな感触。でもそれは、すぐに離れた。
 「……やっぱり甘いな」
 「だって、ハチミツ……だし」
 アンジールが手にしていた瓶と小匙を、サイドテーブルの上に置いた。そのまま、流れるような滑らかな動作で、ザックスを抱き寄せる。
 「ハチミツの香りがする……、甘い唇にもっと……触れたい」
 「アンジール、ハチミツが舐めたいんだろ?」
 ザックスがクスクス笑いながら、アンジールの唇にそっと指先を当てた。
 「舐めたい」
 指先を舐められる。ザラリとした感触に、ドキリとする。そのまま耳元で、そっと囁かれた。
 「もっと舐めて……触れたい」
 「えっ……」
 ザックスの頬に触れた手は、するりと後頭部へ流れて、そのまま彼を引き寄せた。ハチミツに濡れた艶やかな唇が、照明の光を僅かに反射して、小さな光の粒をきらりと零す。
 触れて、重なる唇。体温で温められたハチミツが、お互いの唇の間にさらりと薄く広がって、甘い甘い芳香を漂わせる。
 さり気なく口内に差し込まれる舌先に、自分のそれを絡め取られて絡ませて。深まる口づけ、濃密に溢れる水音。
 「ん……、ぁ」
 ザックスが吐息を漏らす。蕩けるような口づけに、頭の奥が麻痺するようだった。うっとりとした瞳で、アンジールを見つめる。
 「甘い……」
 「甘い、な」
 甘いのはハチミツの所為なのか、それとも……。
 ザックスの指先が、アンジールの指先を捉えて絡ませる。その動きは、どことなく色めいて。
 至近距離で見つめ合う。その瞳の奥に、熱を揺らめかしながら。どちらからともなく瞳を閉じると、静かに唇を寄せ合った。

 甘い甘い、XXX……




 20091231