幻影


・モデオヘイムから、独自に数年後設定。
・ザックスが痛いです。
上記条件が大丈夫な方のみ、どうぞ。
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 ザックス・フェア。
 そのソルジャーは、ちょっとした有名人だった。
 クラス1stなのに、物凄く気さく。明るい性格で、人に懐きやすい。分け隔てなく人付き合いが出来るので、歩く度にどこかしらからか声が掛かった。
 2ndや3rdの演習に教官として参加しても、親しみやすい兄貴分のような感じで、冗談を言い合って盛り上がったりもしていた。
 実力の方も申し分なく、彼のトレードマークでもある大剣を振るう姿は、強いだけではなく、しなやかで美しかった。それはもはや、2ndや3rdの憧れでもあった。
 そして、今や彼の一番の特徴でもあるのは、その腰まで届きそうなまでに伸びた漆黒の髪の毛だった。
 前髪は後ろへ流し、逆立てるように整えられている。後ろ髪は無造作に流したままで、彼が歩く度に孤を描くように、ふわりと揺れた。その様は、背に羽根があるようで、逆光になるとキラキラと陽の光に透けて、尚の事だった。
 戦闘では、その長い髪の毛を悪鬼の如く振り乱して戦い、彼の駆けた跡には何も残らないとすら言われた。
 一度、誰かが彼に尋ねた事があった。「何故、髪の毛を伸ばしているのか」と。恐らく、何気ない会話の途中で、それこそ何気なく聞いたのだろう。
 しかし、その問いに対して、ザックスは曖昧に笑うのみだった。普段ハッキリ物事を言う彼にしては本当に珍しく、言葉を濁した。
 それ以来、誰も彼の髪の毛について、話題にする事はなかった。



 「ただいま、と……」
 ロックを解除してドアを開けると、空気の冷えた誰もいない部屋に入る。「ただいま」と言うのは、もうずっと染みついた癖だ。
 無機質な廊下から部屋の中に向かって、観葉植物があちらこちらに置かれている。部屋の中も緑色で満たされていた。このミッドガルでは、植物自体が珍しい存在だった。玄関先で装備を解く。大剣を静かに壁に立て掛けると、刀身が応えるように鈍く光った。制服を脱いでラフな格好に着替えると、水やりに回る。一つずつ、丁寧に水をやって具合を見る。場合によっては葉の汚れを拭き取り、不必要と思われる葉を取ったりもした。
 「結構、伸びたなぁ」
 葉に触れながら、ザックスはポツリと漏らした。その観葉植物は、この部屋に一番最後にやって来た。それ以来、もう増える事はない。
 全ての鉢植えに水をやると、バスルームへ向かう。夕食は、数人の2nd達と行きつけの食堂で済ませてきた。自分が教官として参加する演習には、必ず出てくる者達だった。やるべき事は真面目にこなし、楽しむ時はとことん楽しむ。そんなタイプの彼等に、ザックスは慕われていた。こうして今日みたいに、時々食事を一緒にしたりする。終始賑やかで、戦闘に関する具体的な話もすれば、馬鹿げた話題で盛り上がったりもした。
 軽く飲んだアルコールはすっかり抜け、妙に頭が冴えていた。さっきまでの賑やかさが遠い昔のように感じられる。部屋の中は、しんと静まり返る。微かな空調の音以外は、無音。まるで時が止まったみたいだった。
 バスルームへ向かい、バスタブに湯を注ぐ。服を脱ぎながら、ふと洗面台の鏡に映る自分の姿を見る。鏡に映し出された頬の傷に、そっと触れる。ソルジャーの身体能力を以てしても決して薄れる事のない傷に、医療センターの医師達も不思議がっていると噂に聞いた。「回復マテリアを使えば、そんな傷はすぐ消える」と言われた事もあったが、ザックスはそうする事を拒んだ。「そんな傷」と言われた事が腹立たしかったが、その感情を堪えて飲み込んだ。この傷は、消えて欲しくなかったし、消したくなかった。
 「強い念が込められた傷は、決して消える事はない」と、幼い頃、故郷の老人から聞いた迷信めいた事は、ザックスの中で確信に変わっていた。
頬に掛かる髪の毛を、そっと払う。さらり、と胸元へ流れた。
 「もう、こんなに長くなったのか……」
 肩口から流れる一房を手にした。髪質なのか、はたまたソルジャーの身体能力の所為なのか、大した手入れをしなくても、全く痛みはなかった。長期任務で満足に風呂にも入れない事が続いても、環境が劣悪な所に行っても、その髪の毛が痛み、擦り切れる事はなかった。ザックスの背を、守るように覆う漆黒。
 「…………」
 まるで愛おしむように、その一房を撫でて、ザックスはバスルームの扉を閉めた。



 いつもより長く湯船に浸かってしまったらしい。軽い湯あたりを感じながら、冷蔵庫内から冷えた水を取り出した。喉を潤して、息をつく。水気の残るままバスルームから出てきてしまった為、床には所々に水滴が落ちていた。
 「きちんと拭いてこい、ってな」
床を見て、小さく笑いながらリビングの窓から外を見る。人工の光しか見えない。例え綺麗でも、所詮作り物に過ぎなかった。今夜は月も星もない。ザックスは、何かから遮るように、窓のカーテンを閉めた。
 ソファに座りながら、髪の毛の水気を取る。適当なところまで乾かして、あとは放っておく。それで充分だった。グラスにアルコールを注いで、リビングの照明を消した。
 寝室へ向かうと、ベッドサイドの照明を付け、サイドテーブルにグラスを置く。それはコトリ、と静かな音を立てた。ドアを閉め、カーテンを閉める。
 気付けば、こうしないと眠れなくなっていた。寝室を、完全に密室にしてしまわないと、不安で眠れないのだ。ほんの僅かにカーテンの隙間があっても、閉め忘れて少しドアが開いていても、外から嫌な何かがこちらを伺って、忍び込んでくる気がしてならないのだ。
 ベッドに座り、グラスの中のアルコールを少し舐める。サイドテーブルに置かれた、銀色の小さな缶を開ける。そこには、小さく割られた板チョコレートが入っていた。一欠片を摘んで、口に含む。舌先に甘さと、カカオの苦みが広がった。
 「笑うなよ。好きなんだからさ」
 ザックスは少しむくれたような、それでいて楽しそうに呟く。アルコールを飲みながら、ビターチョコレートを囓るのが、彼の好きな飲み方だった。甘くて苦いチョコレートは、何時しか苦さばかり強調されている気がする。そう思ったら、アルコールを含む。そして、またチョコレートを小さく囓った。
 ベッドサイドに敷かれたラグマットは、その長い毛足でザックスの足を優しく包み込む。同じもので異なるサイズのものが、リビングにも敷かれていた。肌触りが気に入ったので、寝室用に買い足したのだ。小さく揺らす足先が、毛足に触れてこそばゆい。この感触が好きだった。何度も繰り返して楽しむと、おもむろにサイドテーブルに手を伸ばす。
 「一本だけ、な……」
 小さな金属音が響いて、咥えた煙草の先が赤く色付く。それは、チリッと網膜に焼き付く。目を閉じても、まだ残る光。ザックスは、静かに照明を落とした。碧い魔晄の瞳は、すぐに薄闇に慣れる。紫煙で肺を満たすと、ゆっくりと細く吐き出した。紫煙がその唇から、ゆらりと立ち上る。唇から指先から細く立ち上るそれは、まるでザックスを包み込むようだった。まだ長さの残る煙草を、灰皿に押し当てる。そのまま、瞳を閉じた。
 とても、良く知っている香り。彼の纏っていた香りを自らに纏わせて、ザックスは静かに待つ。
 空気が、僅かに動いた。
 髪の毛が、さらりと肩から零れる。指先が、触れている。
 「……ぁ」
 薄く開いた唇を触れられて、熱を帯びた声が漏れた。頬を撫でられ、その傷の存在を確かめるようになぞられる。背筋が、ゾクリとした。項を掻き上げられると、その気持ち良さに堪らずに眉を寄せた。髪の毛に指先を絡ませて、優しく微笑む彼を感じる。
 「待ってたんだ」
 ザックスは、瞼を閉じたままベッドに体を沈めると、自分の掌に口づけて、頬を擦り寄せた。そして、今、自分にキスを与えてくれる、愛しい彼の名を何度も囁いた。
 「アンジール……」



 その幻影は、もう何年も彼を捉えて離さない。
 時折、頭の片隅に現実を冷静に見つめる自分がいて、「これではダメだ」と叫ぶ。でも、頭では分かっていても、自分の心が到底ついていかなかった。
 離れるには、あまりにも側にいすぎて、あまりにも自分の一部になっていたのだ。まるで、片割れを失うと、もう一方も死んでしまうかのように。
 自分の姿が、彼の蒼い瞳に映し出される事が、この上なく誇りだった。気付けば、優しくも強い眼差しにいつも包まれていた。
 力強い腕が、自分を掴み、引き寄せて抱き締め、触れた。ある時は守られ、またある時は烈風の如く何もかも奪い浚われ、その切なさと苦しさと喜びに、熱い涙を流した。
 名を呼ばれる度に、鼓膜が色づくように震える。任務や訓練の最中、自分を叱咤する声に唇を噛み締めて耐え、褒める声に歓喜した。二人きりの時は、限りなく優しくて、時に残酷だった彼の声音。耳元での熱い密やかな囁きに震え、恥じ、酔い痴れた。愛しさ故の無慈悲な言葉が、狂おしくも求めて止まないものだった。薄闇の中、あの激しさと凶暴さを隠した熱い声音に、脳髄を何度も犯された。
 そんな声を発する唇を、自分のそれと重ねる度に、溶けてしまいたいと思った。額に、こめかみに、閉じた瞼に。耳朶に、首筋に、胸元に。頭の天辺から足の爪先まで、彼の唇がこの体で触れなかった部分などなかった。指先を咥え、舐める舌先の、ざらりとした感触が今でも鮮やかに甦る。
 「あぁ……ッ」
 胸元を這う彼の舌先に、甘い声が漏れてしまう。長い髪の毛が、シーツの海に淫らに広がる。指先が耳朶に触れては離れ、そのまま体のラインを確かめるようにたどって、腰の窪んだ箇所を押すようにされると、ザックスは髪の毛を振り乱した。敏感な肌を髪の毛が打って、それが更に体の熱を上げさせた。
 「もっとぉ……して、くれよ」
 ザックスは薄闇に向かって、切なく声を上げた。



 彼はもう、いない。
 半身を、永遠に失った。
 自分がこの手で、殺めてしまったのだ。
 最期に彼の手によって付けられた頬の傷は、敢えて治さなかった。この体に残しておきたかった。証、として。
 この髪の毛も。彼が撫でて、掻き上げて触れたこの髪の毛も、もう切れなくなってしまった。気付けばかなり伸びていて、月日が経った事を否応なく思い知らされたが、それ以上にこの背を彼に包み込まれているようで、そう思うと彼を近くに感じられた。
 彼を永遠に失ってしまったと同時に、自分は永遠に彼のものとなった。
 今でも、そこかしこに彼の気配を感じてしまう。こうして瞼を閉じれば、目の前にはいつでも彼の姿が浮かび上がる。キスをして、優しく熱く触れてくれる。望む快楽を、ふたりだけしか知らない方法で与えてくれる。
 まだ、この熱を冷まさないで。もっと、ずっと奥に沈んで。奪い去って、焼き尽くして、何もかも。 
 白い熱でこの体を満たして、隙間なく埋めてくれ。
 この色彩のない現実から、俺をさらってくれ。
 連れてってくれ、あんたの側に。
 「い……やぁ、あぁ……んッ」
 一際切ない声を上げて、ザックスは熱い涙を溢した。



 毛布の中の閉じられた世界は、自分と彼だけの世界。暖かくて、柔らかくて、甘い闇の世界だ。
 そっと口に含んだ指先は、彼の指先。背後から抱き締められる時は、必ずこうした。緩く噛んで吸うと、背後からクスリと笑い声が聞こえる。戯れを越えた熱が欲しい時は、いやらしく音を立てて、淫らにしゃぶる。そうすると、彼の腕が自分をきつく抱き締めて、快楽を与えてくれる。全身を余すところなく、艶っぽい朱に染め上げてくれるのだ。
 「なぁ……、もう一度、して」
 指先が胸元を下りて、そっと下肢に触れる。もう、熱くて堪らない。
 「うん、それ……好、き。……そう、……はぁ、ぁ」
 快感に、じわりと目縁に涙が滲む。全て知っている彼の指先が、愛しく絡み付く。
 「泣い、て……ない。笑う、な……ぁ……あぁッ」
 昂ぶって形を変えた自身を、容赦なく捉えて攻め立てる。自分が感じる場所を、全て知り尽くしている指先に、何度も何度もしゃくり上げて泣いた。
 「嫌っ……、キス……キ、スしてッ」
 唇を舌先で湿らせて、噛み締める。もう何度目の口づけだろうか。言葉なんていらなかった。何もかも余すところなく、全てを伝えてくれる手段だった。
 快感の果て、その先にある場所へ向かって、ザックスは駆け上がる。早く、連れてって。お願い、早く。
 「もう、ダ……メッ、嫌だっ、嫌だーっ!!」
 いきたい。
 行かないで。
 掌に迸った熱さをどこか遠くで感じながら、ザックスは意識を失った。



 もう、目覚めたくない。
 朝も昼も夜も、何も来なければいい。
 目を開けたら、彼のいない現実が待っているだけだ。
 気付かせないでくれ。思い知らさせないでくれ。
 なぁ、もう良いだろ。
 彼のいないこの世界は、俺にとっては無意味なんだ。
 でも、目を閉じたら、いつでも彼がいるんだ。
 だったら、ずっと目を閉じてる。
 もう、これ以上、現実を俺に見せないでくれ。
 彼が好きだったこの碧い瞳に、彼の姿を映したまま、もうこれ以上穢さないで。
 触れないで。
 呼ばないで。
 来ないで。
 ほら、瞼を閉じた先には、


 素晴らしき哉、この世界




 20091226