夕食後の穏やかな時間。
ザックスはダラリと床に寝そべりながら、テレビを観ていた。リモコンで頻繁にチャンネルを替えている辺り、どうやら興味を惹かれる番組はやっていないらしい。そっと顔を上げて、ソファに座るアンジールの方を見やる。
彼は相変わらず、何やら小難しそうな分厚い本を、熱心に読んでいた。ザックスにはそれが、政治に関する本なのか、歴史に関する本なのか、はたまた古典文学なのか、それさえも分からない。興味がないと言ってしまえばそれまでだったが、その書物はここ数日、ずっとアンジールの関心を引きっぱなしなのだった。
テレビを消して、そっとソファの足元に近付く。床に座ったままソファに凭れると、丁度アンジールの膝の辺りに頭がくる。見上げると、装丁の綺麗な表紙が視界に広がった。
静かに頭を膝に寄せると、アンジールの指先がザックスの頭を一撫でした。その目線は、本に落とされたままで。
ザックスは、ローテーブルに置かれたカップを覗き込んだ。中身が既に空になっていて、コーヒーがうっすらと底に残っていた。
「コーヒー、飲む?」
「あぁ、すまないな。有り難う」
ザックスはアンジールのカップと、床に置いたままにしてあった自分のカップを持って、キッチンへ向かった。
『余程、面白いんだろうな……』
青白いガスの炎を見つめながら、ザックスは思った。いつもなら、自分が声を掛けたり側へ寄ったりすると、アンジールは必ず構ってくれる。それなのに今は、顔も上げずに本に夢中。
『別に、構って貰えなくて寂しい、って訳じゃないっての』
何だかグズグズと言い訳じみた事を考えている自分が、酷く子供じみていて嫌だった。そんな事を考えている内に、ケトルから白い蒸気が上がり、湯が沸いた事を教えてくれる。
『ブラックは胃壁に良くないんだとさ』
いつもより湯の量を減らしてコーヒーを作り、減らした分ミルクを加えた。これでは既にカフェオレだが、何となくそんな気分だった。いつもは入れない砂糖も加えて、甘くする。自分と全く同じものを作って、アンジールのカップにも入れた。二つのカップを持って、静かにリビングへ戻る。
「はい」
アンジールを見下ろす形でカップを差し出すと、彼は本から顔を上げて笑顔を浮かべ、「有り難う」と受け取る。カフェオレで、しかも甘い事を何か言うかな、と思ったが、アンジールはカップの中身を口にしても無言のままだった。
『ふーん……』
ザックスが再び床に腰を下ろすと、アンジールがローテーブルにカップを置いた。両手でカップを抱えるように持って、そっと一口飲む。温かくて、甘くて優しい味が口内に広がる。
アンジールが時折本のページを捲る音以外、何も音がしない静かな夜だった。ザックスは、何となく眠くなってしまった。
空になったカップを置いて、自分の隣にあるアンジールの足に凭れた。掌で、膝の辺りをそっと撫でる。すると、アンジールの腕が下りてきて、ザックスの頬にそっと触れた。
ザックスは、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように、アンジールの掌に触れる。組むように合わせたり、指先の爪を丁寧に観察しては、その滑らかな曲線をなぞる。節に触れて、骨格を確かめるようにしたり、掌の皺を見ては「生命線ってどれだっけ?」と手相を思い出したりした。
アンジールの掌を大事そうに、そおっと頬に寄せて瞼を閉じた。これはザックスのクセだった。こういう何気ない時も、情事の時も、アンジールの掌に自分の頬を寄せるのだ。
「ザックス、お前、眠たいんだろう」
不意に頭上から声が降ってきた。見上げると、本から顔を上げたアンジールが、目を細めて自分を見下ろしていた。ザックスは、とろんとした目で小さく頷く。
「ほら、こっち来い」
アンジールが自分の隣を、ポンポンと叩く。ザックスは、のそりと体をソファに上げると、そのままアンジールの上に跨って、首に両腕を回した。
「おいおい」
アンジールは、突然の重みに驚き、手にしていた本を閉じようとした。しかし、ザックスがそれを制する。
「本、読んでて良いよ」
「ん? そうなのか?」
「うん」
そのままアンジールの肩口に、大人しく頭を預ける。ふんわりと、彼の匂いが鼻腔を掠めた。ザックスの背をアンジールの掌が、静かにあやすように撫でた。
ザックスはアンジールの肩に、額を擦り付ける。首に回した腕を解いて、鎖骨の辺りに触れた。いつもは制服で隠されている部分が、今は露わになっている。窪んでいる部分に、指先を引っかける。小さな魚が泳げそうだな、と思った。そっと首を横にすると、目の前に彼の首筋が広がる。耳朶に指先を当てて、親指と人差し指で摘んでみた。自分とは違って、何もはめ込まれていないそこは、滑らかな玉のような手触りだった。それが気持ち良くて、暫く触っていた。
ザックスは、とても穏やかな気持ちで満ちていた。温かな湯に、ゆらゆらと浸かっているような浮遊感。再び両腕をアンジールの首に回して、ぎゅっと抱き付いた。
「ザックス」
「ん」
そっと顔を上げると、アンジールが覗き込んでいる。いつの間にか本はローテーブルに置かれ、自分の頭が静かに撫でられている。いつからだろう。
「怒っているのか?」
「どうして?」
「俺がずっと本を読んでいたから」
「いや、怒ってないよ」
「そうか」
実はザックスの機嫌を損ねてしまったのではないかと、内心気になっていた。コーヒーではなくカフェオレで、しかも砂糖が入っていた事も気付いてた。自分もザックスを構ってやりたいと思いつつ、以前から読みたかった本を手に入れたので、時間がある時に集中して読んでしまいたかったのも本音だった。
ザックスはザックスで、最初のうちはやっぱりアンジールに構って貰いたかったものの、こうして彼に寄り添って触れているだけでも、充分自分は嬉しいのだと自覚したら、それだけで満足な気持ちになったのだった。
ただ同じ空間にいれば、それだけで幸せなのだ。
ザックスは半分微睡みながら、アンジールの頬に自分の頬を寄せる。そのまま、ゆっくりと唇を当てて、こめかみの辺りをたどる。
「ザックス」
「……ん」
「お前、セックスしたいのか?」
「んー……、こうしてるだけで良い……」
アンジールのあからさまな問いに、驚きもしない。アンジールが肩口からザックスの顔を上げさせると、嬉しそうに微笑んで、そしてやっぱり少し眠そうな表情をしていた。触れている部分が若干熱い。体が眠りに向かって、体温を上げているのだ。
「あのな、アンジール」
「何だ?」
「こうしてたいんだ……俺、嬉し……」
ザックスは瞼を閉じて、アンジールに体を預けた。規則正しい呼吸音が、アンジールの耳を掠める。どうやら、完全に眠ってしまったらしい。
「全く……、どうしてくれるんだ?」
微かに燃え始めてしまった体の奥の熱を思って、アンジールは小さく息をついた。
「でも……可愛いな、本当に」
優しく微笑んで、腕の中の愛しい体をそっと抱き締める。小さく「おやすみ」と、その耳元に囁いた。
20091226