「環境劣悪……だな」
その大して広くない部屋に一歩足を踏み入れて、ザックスは呟いた。
「ほら、後がつかえてるんだ。中に進んでくれ」
背中をアンジールに押されて、薄暗い部屋の中に入る。重たい鉄扉が、ガシャンと閉まる。少し遅れて、室内が少し明るくなった。
「うわ、今時珍しーね。骨董品」
天井からぶら下がる電球を、ザックスは物珍しげに見上げた。申し訳ない程度に光を放つそれは、時折ジジッと小さな音を立てて、瞬間パキッと消える。いつからここに、ぶら下がっているのだろう。うっすらと埃を被り、まるで今にも空気に溶けて消えてしまいそうだ。窓がなく、ひんやりと冷たい部屋。
「長居は遠慮したい場所だな、さて、始めるか」
アンジールは手元の紙を見て、部屋の中を見回した。床面積の殆どを、棚に取られている。段ボール箱やコンテナ、今はどうやって使うのかと思ってしまう、旧規格の記録媒体が大量に箱に入っている。「入っている」というより、「投げ込まれている」といった方が正しかった。其処ここに、乱雑に積み上げられた紙の山、山、山。床にも色々な物が置かれていて、狭い事この上ない。
ここは神羅ビル内にある、旧資料庫。使われなくなって久しく、存在自体が忘れ去られた場所だ。この部屋がある区画自体、殆ど人が来ない。辛うじて電気は通じているものの、普段使っている区画と比べたら、ここだけ時間が止まっている。
旧資料庫とは名ばかりで、現在は物置同然。それなりの資料も置かれているらしいが、それを使う人も現れず、ひっそりと部屋全体が眠り続ける。
大体、資料を保管するには、環境が劣悪過ぎた。空調設備が整っていないので、温度・湿度が一定ではない。これだけで致命的だ。締め切った部屋は、埃とカビの臭いがする。長時間いると、喉と目を痛めそうだ。
ザックスが、手近にある紙の束を手に取った。黒い紐で綴じられているそれは、角がギザギザと千切れている。不思議そうに見ていると、アンジールが教えてくれた。
「それはネズミが囓った後だ」
「マジかよ……」
どんな資料か確認する気にもなれず、ザックスは紙の束を放った。パサリと落ちて、埃が舞う。
静かだ。音が響く前に、空間に吸い込まれてしまう。
「なー、こんなところで一体何を探すんだ?」
「これだ」
アンジールが差し出した紙には、「旧資料庫・保管書類リスト」と書かれている。しかも赤い文字で「部外秘」なんて記されているが、本当かどうだか。
「これだけオンライン化された建物の中で、こいつらは紙でしか存在していないそうだ」
「ふーん。何で?」
「さぁな。ま、事情があったんだろ。いくらバックアップを取ったにしても、データだと消える時は一瞬。紙だとこうやって……」
アンジールが部屋を見回した。
「朽ちるまで眠り続ける」
「朽ちるまで……、か」
ザックスも部屋を見回す。唐突に、実家の物置小屋みたいだと思った。乱雑で、日の届かない薄暗い奥には、何が潜んでいるか分からない。幼い頃は、それが少し怖くもあった。
「取り敢えず、お前はこの棚から見てくれ。箱に貼られたラベル番号と、このリストの番号は一致している筈だ。一応、一度整理されているらしいからな」
一度整理の手が入ったものは、未整理のそれより遙かに探すのが楽だ。でも、箱は番号順には置かれておらず、部屋中から探し出さなくてはならなかった。
「了解、さっさと上げちまおうぜ。喉が痛くなりそうだし」
「だな」
アンジールとザックスは、それぞれ箱番号を確認し始めた。
「結構きついなー。色んな意味で」
ザックスが、何箱目か分からない箱を開けながら言った。嫌な染みの付いた文書も、何かは想像したくない干からびた個体も、パラパラと零れ落ちる紙片も、もう慣れた。時折、興味深い物が出てきたりもする。自分が生まれる前の新聞(既に紙の新聞自体が珍しい)なんかが束になって出てきて、思わず手を止めて読んでしまった。
「あぁ、確かに。しゃがみっぱなしも辛いだろ。あと幾つだ?」
棚の間から、アンジールの声が聞こえた。
「あと2つ。アンジールは?」
「あと1つ……良し、見つけた」
リストの資料タイトルと、箱から出した資料のタイトルを照合する。間違いなし。リストにチェックを入れて、アンジールは箱を棚に戻した。箱から取り出した資料は、まとめて入口付近の棚に置く。これを現在メインで使用している資料庫まで運ばなくてはならない。
手を叩くと、埃が舞った。明るいところで自分を見たら、物凄く薄汚れているに違いない。額の汗を拭ったら、肌がザラリとした。
ザックスの様子はどうだろうか。アンジールが棚の間を移動する。
「どうだ?」
しゃがみ込んで箱の中身を確認しているザックスに、アンジールが声を掛けた。
「この箱でラスト……、おっしゃ!! 終了」
手に古びた紙の束を持ちながら、勢い良く立ち上がる。ずっとしゃがみ込んでいた所為か、足がジワリとする。
「間違いない……な。よし、これで全て完了だ」
受け取った資料を確認して、リストに最後のチェックを入れた。アンジールは、ざっとその数を数える。
「アンジール、埃凄いな」
目の前の彼を見て、ザックスは思わず呟いた。それを聞いて、アンジールが眉間に皺を寄せた。
「何言ってるんだ、お前だって凄いじゃないか」
「うわっ!! 俺、凄くきたねーな」
ザックスが、自分を叩くと出てくる埃に驚く。アンジールは、ザックスの髪の毛に被っている埃を手で払った。
「あ、サンキュ。あー、何だか口の中まで、埃っぽいよな」
「……あぁ」
だから、埃っぽいって言ってるのに。
ザックスは、アンジールが自分にキスしようとしているのが分かった。
「ちょ……アン、ジール?」
「何だ?」
何だ、じゃなくて。後ろはすぐ壁、左右は棚。「コの字型」って、一ヶ所しか出口がないんだよな。そんな事を思っていたら、アンジールの腕が頭の両脇の壁に突く。逃げ道を塞がれてしまい、ザックスは動揺する。
「何だ、じゃなくて……、き……勤務中」
「だな」
「それに、見られる……」
ビルのあちこちにはセキュリティを兼ねたカメラが設置してあって、それらが見ていると思うと居ても立ってもいられない。マズイってば。
「この部屋には、設置されていない。部屋に入る時、確認しなかったのか? ……まだまだ、だな」
この状況で、微妙に説教じみた事を言われる。それどころじゃないのに。その蒼い瞳が眼前に迫る。
ザックスは頬を赤くして、ぎゅっと目を閉じる。何だか今は、「キス」より「恥ずかしさ」の方が勝った。きっと、勤務中だからだ。
「…………」
アンジールはそんなザックスを見て、クスリと笑った。どうやら、予想以上に驚かせてしまったらしい。キスしなくても、この表情だけで満足だった。
壁に付いた腕を退けて、そっと体を後ろへ引く。
「さ、行くか」
『え?』
ザックスは目を開けた。アンジールがリストを持って、棚の間から出ようとする。首だけ振り返って、「行くぞ」と声を掛けられる。
「待っ、た」
ザックスが、アンジールの二の腕をグイッと掴む。手からリストが、バラバラと床に落ちる。体ごと振り向かせて、キスをした。
触れる唇が、乾いていて砂っぽい。そっと舐めて、キスが深まる前に離す。
「あ」
「恥ずかしいんじゃなかったのか?」
アンジールが自分の唇に触りながら、ほんの少し意地悪そうに言った。ザックスが、ばつの悪そうな顔をする。
「さぁな」
悔しくて、プイと顔を背けて扉へ向かう。しかし、うっかり腰に腕を回されて引き寄せられた。
「おぁ!?」
背中から抱き締められる。思わず掴んだ逞しい腕は、砂埃にまみれてザラリとしてる。本当に今の俺たち、汚いな。
耳元で、「素直じゃないな」と囁かれる。もう一度、壁際へ逆戻り。
「な、に……アンジール!」
「声、響くぞ」
「ッ!」
誰も来る筈はないし、聞かれる筈もないけれど、ザックスは声を飲み込んだ。アンジールが、背後からそっと耳朶に口づける。こそばゆさに思わず首を竦めた。顎に添えた手を、ザックスが掴んだ。
「これ、嫌だ……」
グローブを外して、床に落とす。ザックスも自分のそれを外すと、アンジールの方を振り返った。
「『勤務中』って知ってんの?」
言葉とは裏腹に、ザックスは自分の指先をアンジールのそれに絡ませた。
「勿論だ」
「なら、どうして? あんたらしくないな」
「それは……『ここ』だから、だ」
ザックスの項に手を差し込んで、地肌を撫で上げる。すると、心持ち顎を上げ、気持ち良さげに目を伏せる。アンジールに、こうされるのが好きだった。
「『ここ』だからって……ここ、旧資料庫だろ?」
「あぁ、そうだ」
制服の下から、背中をゆっくり撫でられる。背骨をたどる指が、くすぐったくて気持ち良くて。ほんの少し、ザラザラして。ザックスはアンジールの胸に額を付けた。
「何で? ここって、他に何かあんの?」
「あぁ、ある」
アンジールの言葉の意味が、さっぱり分からない。ザックスの頭の中の疑問符は、増えるばかりだ。
「だから、何が?」
あぁ、もう。
「頼むから少しだけ、黙っててくれ」
アンジールの唇が、ザックスのそれを塞いだ。砂埃なんて気にしない。そっと舌先で唇を割ると、すぐに応えてきた。眩暈がするような、ゆっくりとした濃密な口づけ。ザックスの腕が、堪らずアンジールの背中に縋る。
「ん……」
どちらのものか分からない吐息。ジジッと音がして、光が途切れた。役目を終えた電球は、それでもずっとぶら下がり続ける。窓のない部屋。時間の感覚がなくなる。ここは何処で、今は何時だ。
棚の隙間から、何かがこちらを伺っている気がする。静かに、じっと。ザックスは、無意識にアンジールの制服を握り締める。
「ザックス」
「んっ……ぁ、アンジール」
目元を微かに赤くしているザックスを、アンジールは力強く抱き締めた。
「『残す』……だ」
アンジールの唐突な言葉に、ザックスは「は?」と声を上げた。唇が腫れ上がってしまいそうなくらい散々口づけて、ようやく「勤務中」に戻った途端に、だ。
「何を残すんだ?」
探し出した資料を、番号順に並べる。手を動かしながら、話し続けた。
「今日、この場所にいる……俺とお前、だ」
次にいつ、この旧資料庫に来るかなんて分からない。もう、二度と来ないかもしれない。でももし、もう一度ここに来たら、その時の俺は、今日の俺とお前を思い出すだろう。この埃とカビの臭いに満ちた小さな部屋に、お前とふたりでいた事を思い出すだろう。
そして、二度と足を踏み入れる事のないままに、この部屋が存在を消したとしても、確かに今日の俺とお前がいたという事実を連れて、消えるだろう。
残るもの。残らないもの。残そうとしなければ、残らないもの。形あるものは、朽ちる。
ここは、物言わぬものが充ち満ちて、静かすぎてうるさい。
この空間に保存される、記憶。
朽ちずに、誰にも知られる事のない、記憶。
______。
「……アンジール?」
ザックスが怪訝な、少しだけ心配そうな顔で覗き込む。
「あぁ、悪かった。すまん」
そっと抱き締められる。拗ねてる訳じゃない。子供扱いするなよ、と思ったが、アンジールの表情を見て、素直に大人しく抱き締められた。
だって今のあんた、何だか泣きそうな顔じゃないか。
堪らず、ぎゅっと抱き締めた。
「どうした?」
「アンジールの気持ちは、伝染するんだ……」
「すまなかった」
こめかみにキス。ザックスは、アンジールの肩口に頬を擦り寄せた。
20091226