「なー、もう寝た?」
「いや……、眠れないのか?」
「うん」
ザックスはごろりと寝返りを打って、アンジールの方を向いた。
チラリとベッドサイドの時計に目を遣ると、時刻は間もなく午前一時。早く寝ないと日中眠気に襲われてしまうかもと、少し焦る。でも、そうすると余計に眠れなくなってしまうのだ。
明日、もう日付が変わってしまったので正確には今日だが、午前中から講義なのだ。ただでさえ眠くなってしまうのに、寝不足なら尚の事。
あれこれ考えていたら、アンジールの指先がザックスの前髪に触れた。そのまま掌で両の瞼を覆うようにする。
「目を閉じたら、眠れるさ」
「閉じたけど眠れなかったから、困ってんの」
手首を掴んで掌を退けながら、ザックスは心持ち頬を膨らませた。アンジールはやれやれと言った表情で息を吐く。
「ホットミルクでも飲むか?」
「うーん……、そうする」
「ちょっと待ってろ」
アンジールがベッドから下りて、キッチンへ向かった。やがて、薄暗い寝室のドアの向こうからキッチンの灯りが小さく差し込み、ガス台を使う音が聞こえ始めた。
窓の外を見ると、数は減ったものの幾つもの灯りが瞬いている。
「眠らない街……、か」
ひとり眠れなくても、世界では何処かで誰かが必ず起きている。同じように眠れない人、仕事をしている人、様々だろう。途端に妙な連帯感を感じた。
世界が完全に眠りに就く事なんて、決してないのだろう。
ザックスはそっとベッドを下りた。
キッチンに入ったザックスはアンジールにそっと近付き、彼の背中に額を押し当てた。
「ごめん、アンジールは眠いのに……」
「そうだな。正直、俺は眠い」
マグカップにホットミルクを静かに注ぎ入れながら、アンジールはクスリと笑った。何だかんだ言っても、ザックスに付き合ってやるのだ。
棚から取り出した小瓶にスプーンを入れ、黄金色の蜂蜜を一掬い。マグカップに入れて混ぜると、優しい味のホットミルクの出来上がり。
「ほら、出来たぞ。少し温めにしたから」
「ん、ありがと」
その場で一口飲んで、ザックスは両手でマグカップを持ったまま寝室に戻った。アンジールはキッチン周りを再度確認して、パチンと灯りを消した。
アンジールはサイドテーブルの間接照明のスイッチを入れた。明るさを最小にする。部屋の中がサイドテーブルを中心に仄かに明るく照らされる。
「おいし……」
ザックスはベッドに座りながら、ゆっくりとホットミルクを口に含む。ミルクの温かさに蜂蜜の優しい甘さが口に広がって、気持ちが落ち着いてくる。
「ほら、冷えないように」
隣に座ったアンジールがブランケットを手繰り寄せて、肩から掛けてくれた。
「アンジールは?」
「俺は平気だ」
「でも、」
「……何だ、一緒にくるまりたいのか?」
少し意味ありげに笑いながらのアンジールの言葉に、ザックスは思いの外真剣に「うん」と返事をした。それがアンジールには予想外だったので、驚いた反面嬉しさが込み上げる。アンジールはザックスの隣に体を寄せて、ふたりの背中を覆うようにブランケットを掛け直した。
「まるで子供みたいだな」
「あんたから見れば、充分子供なんだろうな、俺なんて」
マグカップの中身を見つめたまま、ザックスがポツリと呟く。
「怒ったのか?」
「うぅん……本当の事だな、ってさ」
確かにそうだ。自分は彼と比べると、まだまだ子供だ。色んな場面で年齢差を思い知らされるのも事実。強がっても、意地を張っても、彼から見れば自分は結局まだ子供なのだ。
自分が眠れないと相手を起こし、作って貰ったホットミルクをただ飲むだけ。
面倒見の良い彼が、自分に付き合ってくれているのだ。
「お前今、下らない事考えてるだろ」
「……どうしてそう思う?」
「泣きそうな顔してるから」
一口分中身が残ったマグカップを取り上げられた。コトリと音がしたので、マグカップはサイドテーブルに置かれたに違いない。
「バカだな」
頭に腕を回されて、グイと引き寄せられる。掌で髪の毛をクシャクシャにされて、こめかみに頬を寄せられた。
「お前はお前だ。それで良いじゃないか」
「あんたとの年の差が、時々嫌になる……」
「そればかりは仕方ないだろ」
そう、仕方ない。どうしようもないのだ。
決して縮まる事のない年月の差。近付きたくても、決して近付けない。時間とは誰にでも等しく与えられたものであると同時に、無慈悲に流れ続ける残酷さを持っている。
ザックスが身を捩るようにして、アンジールの肩口に静かに頭を乗せた。ほぉっと息を吐く音が聞こえる。アンジールはその背中を、そっとさすった。
「横になろう」
「ん」
アンジールに促されて、ザックスはベッドに上がると横になった。間接照明のスイッチを切って、アンジールがザックスのブランケットを整える。隣に体を横たえると、ザックスがその身を寄せてきた。
「呆れてる?」
ザックスが窺うように聞いてくる。
「いや。それより、」
「……それより?」
アンジールは一瞬言葉を止める。自分よりやや下にある頭をゆっくりと撫でた。
「変に大人ぶるお前より、そのままのお前が好きだ」
「手が掛かるだろ?」
ザックスの口調は何処か楽しげだ。アンジールの胸に顔を寄せると彼の匂いがする。良く知った、とても安心する匂い。ゆっくりと息を吸い込んで、肺を彼の匂いで満たした。髪の毛を何度も何度も梳かれる。好きな感触、好きな温もり。
「それが良いんだ……。ほら、眠るならもう大人しくしろ」
アンジールの腕が、ザックスの体をやんわりと抱き締めた。この胸に愛しい体温と息遣いを感じる。
「なぁ、アンジール」
「ん?」
胸元からザックスが顔を上げた。前髪が下りている彼は、いつもと比べて尚の事幼く見えてしまう。可愛らしいのだ。そんな彼の唇が小さく言葉を紡ぐ。
「三つ、お願い」
「三つ? 一つじゃなくて、三つなのか?」
「ダメ?」
アンジールはザックスとの会話の遣り取りが何だかおかしくて、彼に気付かれないように小さく笑った。
「聞いたら、寝るか?」
「うん、寝る。きっと眠れる」
「じゃあ、聞いてやる。一つ目は何だ?」
「……おやすみのキ、」
言い終えないうちに、額に掛かった前髪を退かされて、「おやすみ」とキスされた。
ちゅっ。
ザックスはこそばゆさと嬉しさに、自然と笑みが溢れてしまう。
「一つ目だ」
「うん」
「二つ目は何だ?」
ザックスが小さく腕を動かす。
「手を……手を繋いで」
アンジールの大きな掌に自分の掌を握られる。ザックスは指先を絡ませて手を繋いだ。彼とこうするのが大好きだった。
「これで良いか?」
「うん、ありがと」
「お前は、手を繋ぐのが好きだもんな」
「うん。大好きだよ」
言葉に吐息めいたものが混じり、薄闇の中、彼の声が妙に艶っぽく聞こえてしまってアンジールは耳の奥に心地良い痺れを感じた。
「さて……、三つ目は何だ?」
ザックスがじっとアンジールを見つめる。薄闇に浮かぶ碧い瞳。だがアンジールはその瞳を閉じていて、碧色を見る事なくザックスの言葉を待っている。ザックスは繋いだ指先を、きゅっと握った。
「三つ目は……、」
どうしたものか、待ってもザックスは三つ目の願いを言わない。怪訝に思ったアンジールは、その目をうっすらと開けた。すると、ザックスの碧い瞳と正面からぶつかった。その碧が、ゆらりと揺れたように見えたのはきっと気の所為だ。気の所為に違いない。
「どうした、ザックス。三つ目は良いのか?」
すると、ザックスはその首を伸ばすようにして、アンジールの唇に自分の唇を寄せた。そして、触れるか触れないかの距離で、消えそうな声音で囁く。
「もう一度、キス。俺の頬を撫でて、キスして」
アンジールがその頬に触れた時、ザックスが再び言葉を紡ぐ。
「そのまま、首筋にもして……、抱き締めて、触れてよ」
薄く開かれたザックスの唇に吸い寄せられるように、アンジールは口づけた。舌を絡めるより先に絡め取られ、頭の芯がじんとした。そのまま唇を滑らせて望み通り首筋へと伝わせると、ザックスの体が小さく震えた。
「おい……、大人しく寝るんじゃなかったのか?」
「寝るよ、きっとそのまま寝ちゃう」
いつの間にか会話に、色めいたものが混ざる。ついさっきまで、「自分はまだ子供だ」とか言って拗ねてぐずっていたのに。
アンジールはチラリと時計を見た。このまま肌を合わせると、起床時間から逆算しても睡眠時間は確実に短くなってしまう。かと言って、自分の体の奥には既に情欲の炎が小さいながらも灯ってしまった事に間違いはない。
そんなアンジールの気持ちを知ってか知らずか、ザックスが繋いだ指先に口づけながら言った。
「時間なんて……、気にしないでよ」
「あのな。翌日の事を考えるのが、大人なんだ」
「それなら俺は、子供で構わない」
「子供はこんな事、しないだろ」
「…………」
「とにかく、このままじゃ眠れない。だから……お前も、眠らせない」
力強くぎゅっと抱き締められたと思ったら、熱い掌が体のラインをなぞり始めた。待ち望んだ感覚に肌が震える。静かに、でもほんの僅かに忙しなく、衣擦れの音が響き始める。
「全く、お前って奴は……」
「……怒った? あっ、」
敏感な部分を撫で上げられて、ザックスは体をピクリとさせた。その様を見て、アンジールが唇の端を持ち上げる。
「いや、」
「なら、何だよ」
「……言わせるな」
「んっ」
アンジールは目の前の愛しい唇を塞いだ。
拍手お礼画面時は全4話。4つに分けてました。