この時期は空気さえも薄紅色に染まる。
僅か数日しか見る事が出来ない桜なる樹木の花に、人々は一喜一憂する。自分が幼い頃、いやもっと以前には今より開花時期が長かったらしい。それなのに、自分が知るこの花は三日も咲けばいい方で、ともすれば一晩で散ってしまう年もあった。気候の変化なのか、それとも品種の変化なのか、はたまた何かの予兆なのか……。
兎に角、今年も桜は咲いた。発達した科学とテクノロジーによって気象さえ操ってしまいそうな昨今にも関わらず、その予想より五日も遅れて。
* * *
「桜の開花予想はどうにも精度が上がらないようだな」
キッチンからリビングのテレビを覗いたアンジールが言った。テレビの中のアナウンサーは気象予報士と共に「本日、ミッドガルで桜が開花しました」と告げている。結局、毎日のように予想は変化し人々はもうすっかり当てにしていないのだが、テレビ局はこの季節の風物詩のように毎年毎年開花予想を出し続けているのであった。
アンジールの手には菜箸が握られたままだ。和風出汁のいい香りがほんのりと漂っている。今日の夕食は春キャベツとベーコンの和風パスタ。パスタを茹でる湯に白出汁を予め加えるのがポイントだ。キャベツとベーコンは塩昆布や昆布茶なるもので味を付けながら炒める。どちらもミッドガルではあまり馴染みのない食材だが、アンジールが贔屓にしている乾物屋には置いてあるのだ。いつだったかアンジールが店主に「ちょっと珍しい食材だが」と話したら、興味を持った店主が仕入れてくれたのである。
「今年もハズレ。難しいのかなぁ……」
リビングのソファにだらりと体を横たえてテレビの天気予報を見ていたザックスが大きく伸びをした。同じ姿勢で縮こまっていた筋肉が伸びて、同時に血流がよくなるのが自身でも分かる。画面がコマーシャルに切り替わったのを機に立ち上がってキッチンへ入ると、アンジールが茹で上がったパスタをフライパンへと移しているところだった。食欲が刺激されるいい匂いにザックスの胃袋が途端に空腹を訴える。
「美味しそう」
「自分で言うのもなんだが美味しいと思うぞ」
手際よくパスタに具材が絡められていく。ザックスは戸棚から皿を取り出して並べ、グラスにミネラルウォーターを注ぐ。明日が休日ならワインでも開けたいところだ。
「よし、これでいいだろう」
皿の上にパスタが綺麗に盛り付けられた。好みでブラックペッパーをかけてもよしと、アンジールが調味料が並んだ場所からミルを取る。
「少しだけ飲むか?」
ザックスが顔を上げるとアンジールがワインのボトルを持ち上げていた。
「料理用にと買ったお手軽ワインだが……なかなかいける」
よく見ると既に開栓済みだ。ザックスはアンジールの予想通りの答えを言った。
「飲む!」
「今年も何処かへ桜を見に行くか?」
「んー」
アンジールの問い掛けにザックスは取り敢えず口の中のパスタを咀嚼する。これはアンジールの教育の、あるいは躾の賜物で、アンジールと出会う前のザックスは口の中に食べ物が入った状態でも喋り出していたのだ。
「んっと……そうだなぁ、折角だから見に行きたいけれど……、俺近々の休みがないよ」
「そうだったな。すまない、俺が失念していた」
自分がザックスの教育係なのに、その彼の予定をすっかり失念していた。春の陽気、桜の開花によって何となく街の人々の気持ちも浮ついているようだが、それが自分にも移ったらしい。
「大丈夫」
パスタを口に入れようとしていたアンジールが動きを止めてザックスを見た。目の前でミネラルウォーターが入ったグラスが小さな音を立ててテーブルに戻される。
「見ようと思えば、何処ででも見られるよ。取り敢えず、このマンションのベランダからも……一応」
「……そうだな」
アンジールの返事を聞いてザックスはニッと笑った。ある意味もっともな答えにアンジールもつられて小さく笑う。この思い切りの良さ、割り切りの良さがザックスのいいところだ。アンジールはザックスから言わせると「神経質」な部分があって、ひとつの事柄に対して時にはあれこれと考えを巡らせてしまう。それはアンジール本人曰く「熟慮している」との事だが、これまたザックスの言葉を借りれば「悩みすぎ」なのだそうだ。
アンジールがザックスの教育係になるまでふたりの間に然程接点はなかったので、アンジールは書類上の情報と何処からともなく聞こえてくる評判くらいでしかザックスの事を知らなかった。それなのに教育係に就いて日も浅い頃、トレーニング中だったか野外での移動中だったかザックスはアンジールに「悩みすぎ」とずばり指摘したのである。これにはアンジールもさすがに面食らってしまったのだが、相手が1stだからとの遠慮も何もなく言ったザックスに興味が湧いた。ある意味、好感が持てたのである。
『あの時は、まさかこいつとこうなるとは思いもしなかったものだ……』
目の前でフォークにくるくるとパスタを巻き付けている恋人を見ながら、アンジールはゆっくりとグラスに手にした。
* *
「花弁、集めてこようよ」
「集めてどうするんだ?」
「浮かべんの……」
ザックスがゆっくりとアンジールの胸にもたれ掛かる。ちゃぷと柔らかな音を立てて、水面にゆるやかな筋が描かれた。熱くもなく温くもない湯は皮膚と湯の境を曖昧にする。するすると溶けてしまいそうだった。アンジールはザックスの首筋に顔を埋めた。小さく舐めるとくすぐったそうに動くが嫌がっていない事は確かだ。
「桜湯か……別の意味でだが」
「桜湯って?」
ちゃぷんと湯が小さく跳ねる。後ろを振り向いたザックスの額に貼り付いている幾筋かの前髪を退けて、アンジールはそっと唇を寄せた。滑らかな額のその下で、長めの睫毛が小さく震える。
「桜湯とは桜の塩漬けを湯に入れたものだ。祝いの席で茶の代わりに飲まれるらしい」
「何でお茶じゃないんだ?」
「『茶を濁す』に通じるからと、祝いの席では茶が好まれないからな」
「へぇ……」
ザックスに説明したものの、アンジールも知識として知っているだけだ。桜の塩漬けは桜饅頭などに付いているものを食した事があるが、桜湯として飲んだ事は一度もない。ほんのり塩味に桜の香りが漂うのだろう。一度試しに飲んでみたいものである。
「まぁ、湯船に桜の花弁を浮かべる『桜湯』とは全然意味が違うがな」
「いいねぇ、桜湯……俺、飲んでみたい」
「桜の塩漬けを買わねばな」
そう言いながら脳裏に思い浮かべたのは例の贔屓にしている乾物屋である。明日にでも時間を見つけて早速行ってみよう。
「……何だ?」
「何でもない」
自分の腕に縋り付くようにしたザックスをアンジールは見つめる。ほんのりと上気した頬が初々しさの中に混じる得も言われぬ色気を感じさせた。碧い瞳の奥に自分の姿が映っている。フイと先に視線を逸らしたのはザックスだった。
「ん……、甘えたいだけ」
二の腕に頬を擦り寄せながらもどことなく少し拗ねたような口調に、まるで猫のような気紛れさを感じさせた。アンジールは背後からザックスをゆっくりと抱き締めた。
* * *
「ふぅ」
所定の場所に着いてザックスはゆっくりと腰を下ろした。ここは神羅ビル上階のとある場所。メンテナンスや清掃以外で普段この場所に誰かが来る事は滅多にない。特に立入り禁止になっている訳でもないし、眼下にミッドガルの街並みを一望できるこの場所はザックスのお気に入りだった。建物の端から下を覗くとクラリとする高さだ。落下したら一般人は即死、ソルジャーでも場合によっては重症を負うだろう。吹き上げる風に前髪が乱れる。頑丈とは言いがたいような作りのフェンスが申し訳ない程度に設置されていた。
持参したボトルの栓を捻るとプシュッと炭酸が漏れる音がした。市街地巡回からビルに戻った時、エントランスで配布していた新商品らしい炭酸飲料のサンプルを貰ったのだ。ラベルにはエネルギーチャージやら低カロリー、アクティブ云々と書かれている。大凡自分が飲んでもあまり関係なさそうだと思いながらも飲んでみると、思ったより美味しかった。ザックス好みの味だったのである。
ボトルを置いて、仰向けに寝転がる。手足の血液が背中に集まって体内の血流が均一になる。ザックスの薬に頼らない手っ取り早い疲労回復方法のひとつだった。自分の体は小さな錠剤で思うようにコントロールできるけれど、実はあまり好きではなかった。
太陽は西に傾いていた。見上げた空は高くて、一瞬遠近感がおかしくなる。薄い雲の群がゆっくりと流れていく。ザックスは目を閉じて、暫し体の力を抜いた。
「……?」
頬に何かが触った感じがしてザックスは手を当てる。見ると指先に薄紅の花弁が一枚。
「ここまで飛んできたのか」
指先に花弁を摘まんだまま起き上がった。自分と彼が暮らす街、ここミッドガルを望む。所々が薄紅色で、それは中心から離れていくに従って帯状のように繋がっていた。あの辺りは桜並木だなと、去年アンジールと一緒に歩いた事を思い出す。
『来年も一緒に見よう』
どちらからともなくそんな言葉を交わした。しかし桜の気まぐれがない限り、もしかしたら今年は一緒には見られないかも知れない。でも……、
「見てるよな」
アンジールもこの桜を見ている。この街の、何処かから。今の自分と同じように。
一緒に見よう。来年も、再来年も、そのまた次の年も。ずっとずっと一緒に見よう。
でも、どんなに強く願っても、いつかは終わってしまう。
いつか、ひとり。
「…………」
ザックスは胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みを感じる。不意に涙が出そうになって、スンと鼻を鳴らした。
どうして離れなくてはいけないのだろう。どうしてずっとずっと一緒にいられないのだろう。
どうして、もっと早く出会わなかったのだろう。
こんなにもこんなにも、好きなのに。
「アンジールが……好きだよ」
どこか苦しげで切なげなザックスの囁きが春の風に溶ける。
恋をすると、どうしようもない悲しみに突然襲われてしまう。生きる事は死に向かって進む事。生まれたと同時にその命の終わりに向かって歩き始めるのだ。そんな生物にとって当たり前の事が酷く悲しくて苦しくて、自分もいつかアンジールと離れなくてはならないとザックスはひとり憂うのだった。
「好きだよ……、大好きだよ」
思わず声に出す。風で舞い上がってきた花弁がちらほらとザックスに降り注ぐ。薄紅の花弁だけが聞いている永遠の告白。
「俺もだ」
「え、」
思いもよらぬ返答にザックスは振り返った。逞しい両腕に抱き締められたと同時に思わず涙が溢れる。
聞いて
好きだよ、ずっとずっと……。
20150415