「嫌じゃ、ない?」
「別に嫌じゃないさ」
「嫌いじゃないって事?」
「勿論」
「…………」
「どうした?」
「だってさ……嫌いって言われた事もなければ、その反対も、その……言われた事がないから……」
そう言いながら、ザックスは微かに鼻の奥がツンとしてくるのを感じた。マズイ、きっと自分は今にも泣きそうな顔をしているに違いない。そう思った瞬間に視界がじわりと滲んだ。
* * *
お互いを思う気持ちの種類はきっと同じだ。間違いない。ザックスは確信していた。でも、言葉で伝えて欲しい。彼の口から、その声で。そう思う事は我が儘なのだろうか。
アンジールが自分の事を好きである事に間違いはないと思うものの、やはり自分から好きだと伝えるのも何だかほんの少し怖くて。伝えた事によって今のお互いの距離感や感情がマイナスに変化する事が嫌だった。だからもどかしくも明確に「好き」という言葉を言わずに、こうしてふたりで会って同じ時間を共に過ごしている時の心地よさと安心感にも似た妙な何かに酔い痴れ、それがいつまでも続けば良いと思っている。それこそ、門限までのあと数時間でも。
多分お互いがそうなのだろう。そうして気付けば二ヶ月ほどの日々が過ぎて、毎日暑苦しいほどに鳴いていた蝉の鳴き声も止み、朝夕に肌寒さを覚える季節になっていた。
* * *
南国の装飾を施した店内は妙に閑散としている。平日のディナータイムが始まったばかりではこんなものだろう。木材を多く使って作られた店内は全体が焦げ茶色のような色調だ。テーブルの上に置かれている小さなガラスの器には色鮮やかな花が浮かべられていた。水面に水滴が落ちるような独特の音色が重なり合うように静かに響き渡っている。
「わざわざ出てきてくれてすまなかった」
アンジールは正面に座ってドリンクメニューを見ているザックスに言った。
「大丈夫だよ。アンジールこそ、仕事上がりなのにわざわざありがと。今日はずっと会議だったんでしょ?」
「お前達が受ける演習の検討会議だ。昨日から二日続きでやっているが……座りっぱなしが多いとさすがに疲れるな」
「そっか……お疲れ様。よろしくお願いします」
心持ちザックスは申し訳なさそうに言った。そのうち自分も受ける演習なのだ。ザックスは穏やかに笑いながらグラスに口を付けたアンジールをそっと見た。額に掛かる前髪が小さく揺れている。嫌味なく清潔に整えられた髭。グラスに当てられた薄い唇と小さく上下する喉元。ザックスはアンジールの落ち着いた中に潜む色気のようなものを感じて、自分より七つも年上の男とはこういうものなのだろうかと思いながら何故かひとり恥ずかしくなった。
「どうかしたのか?」
「いや……別に、何でもない」
ほんの僅かに頬を赤らめさせたザックスを見てアンジールは楽しそうに笑った。
きっかけは何だっただろうか。自分が教官として担当している演習に参加していた2ndとこうしてふたりで食事に行ったりするような仲、しかもそれに恋愛感情にも似たくすぐったいような楽しい気持ちが伴っている事をアンジールは今でも不思議に思う。これは恋なのだろうか。それとも自分を慕ってくる年下に対する思慕や保護欲なのか。
いずれにせよ目の前の青年と共に過ごす時間は自分にとって心地良くて楽しいものには違いはない。ザックスはまだドリンクメニューを捲っている。アンジールがそっと目を細めた。1stであり教官である彼の鋭い眼光がザックスを射貫く。
間違いなく1stになる。アンジールは演習で初めてザックスを見た時にそう直感した。荒削りな部分はあるものの実技はすべてにおいて平均値以上の結果を叩き出した。驚いたアンジールはザックスの過去のデータをすべて見返した。
ソルジャーへの志望動機は「英雄になりたい」の一言のみ。施術前の健康状態も良好で筋力などは平均をやや上回っていた。出身地がなるほど南国地方となれば幼い頃より熱帯の森の中を駆け回り、自然と肉体が鍛えられたか。
面接官による所見も「明朗闊達」「前向き思考」、「誰とでも親しく話せる」などの言葉が並んでいた。実際にその通りである。施術後の肉体にも特に拒絶反応は見られず、身体能力は飛躍的に向上。肝心の成績は3rdの頃はそうでもなかったようだが、2ndに昇格後は目を見張るように一気に伸び始めた。座学は少々苦手なようだが、それを補って余るほどの成績を実技では出している。
類い希な存在である。久し振りの逸材にアンジールは指導者の立場として、ザックスへの期待が膨らむのを感じた。同時に同じソルジャーとして興奮を覚えた。戦闘能力に特化しているソルジャー故、強い者が現れると全身の血がざわざわと騒ぐのである。とはいえども、ふたりの実力にはまだまだ天地の差があるのだが。
「飲みたいものは決まったか?」
「えっ、あ……ジンジャーエール」
アンジールは慣れた仕草で店のスタッフを呼ぶと、ドリンクといくつかの料理を注文した。この店を利用するのはお互い初めてだが、友人たちから聞いた評判はなかなかのものだったので楽しみである。
「アンジール、あのさ」
ザックスが気を取り直したように話を始める。「あのさ」と「そういえば」で話を切り出すのはザックスの癖である事は、割と最初の頃に分かった。アンジールは穏やかな笑みを浮かべる。
「何だ?」
ザックスの髪の毛の跳ねた毛束を見ながら、アンジールは彼の話に耳を傾けた。
*
さて、どうしよう。
さて、どうしたものか。
何となく会話が途切れて訪れた沈黙に対してふたりがとった行動はそれぞれだった。半分ほど中身が残っているグラスにゆっくりと口を付けたのはアンジール。一方でザックスは平静を装っている振りをしているようだが心持ち瞬きの回数が増え、どことなくそわそわとして見える。それなのに何となく俯き気味。そんな姿が何だか仔犬のように見えてきて、アンジールは心の中で「仔犬のザックス」と呟き、気付かれないように小さく笑った。
「ところで、リンゴは好きか?」
「リンゴ?」
突然の問い掛けにザックスはガバッと音がせんばかりに顔を上げた。
「あぁ、リンゴだ」
「好きだよ。美味しいよなぁ……俺はちょっと酸っぱいくらいが好き」
「俺の故郷は一年中リンゴができるんだ」
「一年中?! 夏も食べられるの?」
「勿論」
アンジールは自分の故郷バノーラ村の事をザックスに話して聞かせた。
「一年中実をつけるから俺たちはそのリンゴの事を“バカリンゴ”と呼んでいる。当然親しみを込めて、な」
「バカリンゴ、ね。一年中リンゴが食べ放題かぁ」
村中の木にリンゴがなっている風景を想像した。辺りの空気が甘酸っぱい匂いになっていそうだ。
「見てみたいな」
「行くか?」
アンジールの問いにザックスの目が思わず大きくなる。
「いいの?」
「だが、田舎だから遠いぞ」
「それを言ったら俺の故郷だってめちゃくちゃ遠いよ」
アンジールは「そうだな」と小さく笑いながら、ザックスの故郷が南国のゴンガガである事を思い出した。
「んー……でも、」
突然ザックスが声のトーンを落とした。伏し目がちに何か言いたげな、それでいて何処か不安げな表情をしているザックスをアンジールは静かにじっと見つめた。
何か言葉を発しなければ。
そう思いながらザックスは目の前のグラスに付いた水滴が、音もなくツツと伝い落ちるのを見つめた。頭の中が真っ白で、何が何だか分からない。
伝えるという事は、なんてこんなにも難しい。
なんて、こんなにも。
「……あのさ、」
こうして唇から言葉がこぼれ落ちた瞬間、もう進むしかないのだ。ザックスは覚悟を決めた。
「嫌じゃ、ない?」
*
俺も案外情けないものだ。こんなにも意気地がないとはな。
お前の笑顔が見られなくなるのではという恐れにも似た不安と我が儘から、この居心地のいい生温い関係に身を置いてずるずると今日まで甘えてしまった。
何て事だ。お前に今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔をさせてしまうだなんて。
本当にすまなかった。だから、
さぁ、伝えよう。
この溢れんばかりの想いをお前に。
20141228