025.微笑む


 朝の光が輝き始めて、君が微笑む、夜香蘭匂い立つ。


 * *


 「まだ咲かないね」
 明け方、素肌にシーツを纏った恋人が、そう言いながら窓辺に置かれたガラス製の容器を眺めた。
 昨今は殆どプラスチック製のものが多い中、少々アンティークな雰囲気を醸し出しているガラス製のそれは、アンジールがふらりと立ち寄った古書店で見つけたものだ。狭い店内の然程背の高くない書棚、昔のものは総じて高さが今より低い気がする、の上にぽつんと置かれていたそれをアンジールは手に取った。思ったより重くて驚いたそれは、水栽培用の容器。厚めのガラスは薄雲っており、長い間この書棚の上に置かれっぱなしになっていた事を如実に物語っていた。ガラスは透明ではなくて微かに薄青い。固くて冷たいはずなのに、妙に柔らかく手に馴染む。昔、家の戸棚にあった菓子を入れていた大きな瓶に似ていると思った。瓶は小さな子供には両手で抱えるほどの大きさで、ある時は色とりどりのキャンディーやラムネがギッシリと詰まっていたし、またある時は母親の焼いた胡桃の入ったチョコチップクッキーだったりした。不意に思い出した幼き頃の温かい情景にアンジールは思わず微笑む。そして、店の奥の一角にまるで本に埋まるように座っている店主に声を掛けた。
 「すみません。これは譲って貰えますか?」
 大きな黒縁の丸い拡大鏡で何やら分厚い大判の古書の文字を追っていた店主がゆっくりと顔を上げた。本が大きくてまるで半身を乗り出して本に覆い被さるような格好だった。店の主はまるで子供のように小さい老婆だった。首元には細かい花柄のスカーフをくるくると巻いている。その殆どが白くなった頭髪は頭の高い位置でクルクルと無造作に巻かれ、ひとつに団子となっていた。縁が細く金色をした丸眼鏡越し、小さな眼はまるで皺に埋もれてしまいそうだったが、この店に集まった果てしない量の活字を追う事を生き甲斐としているかのように、静かながらも活き活きと輝いているのが分かった。
 「どれだい?」
 店主は椅子に座り直し、その細い指先で眼鏡をクッと上げた。椅子の上には大きなクッションが敷かれている。なるほど、これで机までの高さを補っているらしい。
 「この瓶です。恐らく、水栽培用の容器だと思うのですが……あの書棚の上にあって」
 「ふむ……」
 店主はアンジールが差し出した瓶と彼が指差している書棚とを交互に見た。しゃがれているが、柔らかさを持っている声で言う。
 「懐かしいね。昔良く水栽培に使ったよ。あんた、これが欲しいのかい?」
 「はい」
 「何故だい?」
 店主の問いにアンジールは困ったような笑みを浮かべた。
 「何だか懐かしい感じがしたのです。昔、母が菓子を入れていた瓶を思い出しました。用途は全然別なのに……手に持った感じも良かった。もし、よろしければなのですが……」
 アンジールは屈み込んで、目線の高さを店主のそれに合わせた。レンズの奥、皺に埋もれてしまいそうな瞳がジッと見つめてくる。一体今までにどれほどの景色を、場面を、世界のものを見てきたのだろうか。
 「……よろしい。あんたに譲ろう」
 店主の言葉にアンジールは笑顔になる。
 「有り難うございます。お幾らですか?」
 「お代はいらんよ。持って行きなされ」
 戸惑うアンジールを前にして店主は、「あんた、植物を育てるのが上手みたいだね」と、頷きながら言った。
 「はい、確かに植物を育てるのは好きですが……何故分かるのですか?」
 「あんたの手と目を見れば分かるさ」
 アンジールはじっと自分の両掌を見る。何の変哲もない、強いて言えば剣の柄を握るから、所々皮膚が厚く盛り上がって固くなっている。恋人との情事の際、敏感な部分を握り締めた時にこの固くなった部分が触れると、彼は「やだ」と言う。しかしその言葉とは反対に酷くその体をよがらせるのだった。
 突如思い出してしまった色事に、アンジールは思考を切り換えるべく小さく頭を振った。
 店主がぽつりと言う。
 「……夜香蘭にするといい」
 「はい、そのつもりです。花の色も豊富だ」
 店主は「夜香蘭」がどの花を示しているかをきちんと理解しているアンジールの返事が嬉しくて、フフと笑った。そして、隣町の何某という薬局を知っているかと尋ねる。アンジールが知らないと答えると、店主は紐で壁にぶら下げてあったメモ帳を引き寄せて店名と地図を書いた。
 「幼馴染みがやってる店だよ。薬局だが球根も色々と扱っている。行ってみるかい?」
 「ぜひ」
 店主は満足そうに頷いて、メモをちぎってアンジールに手渡した。
 「どうも有り難うございました。すみません、本も買わずに……」
 気にしないというように店主は小さな手をヒラヒラと振った。そしてまた元の場所にすっぽりと収まって、拡大鏡を手にする。店を後にしかけたアンジールに声が掛けられた。
 「微笑みはじめると一層可愛い」
 振り返ったアンジールが笑った。
 「はい、まったく同感です」


 * *


 「もうすぐ、咲きそうだよ……」
 ザックスが体を伸ばして、窓辺に視線を向けた。水が満たされた容器の底に何本もの根が届いている。
 窓の外は闇夜。それでも完全な闇ではなくて、そもそもこの街に完全な闇なんてものはないのだが、眠らない街ミッドガルに灯る人工的な明かりが、夜空をぼんやりと発光させていた。
 「今朝には咲きそうな感じだな」
 「うん……ふ、ぁ」
 アンジールはザックスの体を抱き締めると、再びシーツの海へと引きずり込んだ。少し前に汗やら体液やらにまみれた互いの体は、今は僅かに湿り気を帯びているだけ。音もなく静かに動く空調が肌をサラリとさせた。
 「ザックス」
 「な、に……? んっ」
 指先がスルスルと背骨に沿って下り、腰骨をさすって、そっと後孔に触れた。まだ先刻の余韻が充分に残っているそこは、アンジールの指先を僅かに受け入れただけで疼き出す。
 「や、だ……もぉ」
 「まだ、したい」
 「エッチ」
 クスクスと笑い合いながら、甘い睦言を交わす。与えられる愛撫をくまなく受け入れるザックスの体は、ほんのりと上気し、甘い香りが漂うかの如くだった。
 先程の激しさとは打って変わって、アンジールはゆっくりとザックスを抱いた。ともすれば焦れったいくらいの口づけや愛撫は、ザックスの体に確実に情欲の火を灯す。アンジールによって絶え間なく与えられる快楽に、いつしかザックスは啜り泣いて自ら懇願した。
 繋がりながら何度も何度も互いの名前を呼び、愛の言葉を囁き、このまま死んでしまってもいいと思う。
 「ずっと、こうしてたい」
 泣きながらそう言ったザックスの首筋に、アンジールは無我夢中で噛み付いた。


 *


 明け方。東の空が白んでくる。ゆっくりと世界に色が広がり始める。眠っていたものが目覚め、動き出す。
 「…………」
 ふと目が覚めた。長めの睫が微かに震え、瞼の裏に隠されていたザックスの碧い瞳がゆっくりと姿を現わす。夢うつつ、ぼんやりとした視界にはアンジールの寝顔。美しく均整の取れた顔はとても穏やかだった。ザックスは視線だけをゆっくりと動かした。部屋の中に、まだ生まれたばかりの朝の光が漂うように入り込んでくる。
 起きるには早過ぎる。もう一度目を閉じて眠ろうと思った時、鼻先に微かな匂いを感じ取った。何だろうと思い、今度は意識して鼻から空気を吸い込む。しかし、何も匂わない。
 『気のせい、か』
 そう思って目を閉じたら、またしても鼻先に微かな佳芳。
 「……ん、」
 ザックスが頭を動かすと、二の腕を彼の枕代わりにさせているアンジールが気付く。アンジールはザックスの頭を優しく撫で、こめかみに唇を落として小さく囁いた。
 「……どうした? 起きるには早いだろう」
 「ん、何か……、いい匂いがして……」
 「匂い?」
 アンジールは確かめるように何度も鼻をスンとさせたが、ザックスの言う匂いらしいものを感じる事ができない。
 「気のせいではないのか?」
 「そうかな……」
 「あぁ、多分そう……いや、待て。あぁ、確かにする」
 瑞々しさを含んだ匂いを感じて、アンジールは何かに気付いたようにゆっくりとベッドから下りる。ザックスは「何?」と言った表情で彼の背中を追う。窓辺に置かれていたガラス製の容器を手にして戻って来たアンジールは、それをサイドテーブルの上に置き、再びベッドへと上がる。
 「これの……夜香蘭の匂いだ」
 ザックスを背中から抱き締めるようにして横になったアンジールは、蕾が綻び始めている夜香蘭を示す。夜に見た時より、更に開花が進んで花弁の色が姿を現わしていた。今この瞬間も、見ただけでは分からないけれど、ゆっくりと確実に蕾は開いているのである。
 「そっか、これか……。でも、何でアンジールは夜香蘭って呼ぶの? この花って、ヒヤシンスの事でしょ?」
 「夜香蘭という名前の方が好きだからだ」
 「ふぅん……」
 ザックスは口の中で「やこうらん」と呟いた。全然別の花のような気がした。でも、何だか自分もこっちの名前の方が好きかもしれない。
 「夜香蘭の花言葉を知っているか?」
 「うぅん、知らない。何?」
 「『悲しみを超えた愛』、だ」
 「そうなんだ……強いね……」
 「あぁ、そうだな」
 まるでそれが合図だったかのように、ザックスはアンジールを振り返り、そんなザックスにアンジールは口付けた。
 何かがジワリと胸を締め付ける。
 何故、こんなに切ない。何故、こんなに苦しい。
 ザックスは泣きそうになる。鼻腔の奥に、夜香蘭の香り。
 この先、自分たちにどんな悲しみが襲い掛かってきても、変わらないものがある。その事を確かめたくて、伝えたくて、アンジールとザックスは互いの体を抱き締めた。
 「ずっと、アンジールが好きだよ。ずっと……、愛してるよ」
 「あぁ、俺もだ。ずっと、お前を愛してる」
 「もし、俺がアンジールの事を……、ひとりにしたら、ごめんね」
 「それでも、お前だけを愛してる」


 死ぬのは怖くない。
 怖いのは、愛する人をひとりにしてしまう事だ。
 ひとり、残してしまう事だ。


 ふたりは長い間、何も言わずにただただ抱き締め合っていた。言葉は不要だった。ただ、抱き締め合うだけですべては伝わった。
 涙に濡れた目縁にキスをして、瞬きをしたザックスにアンジールは嬉しそうに、幸せそうに笑った。
 朝の光が部屋の奥深くまで差し込む。キラキラとした光の粒が宙を漂い、その眩しさにザックスは目を細めた。ゆっくりと部屋の空気が温められると同時に、芳香も心なしか強くなっていくようだった。
 更に夜香蘭の蕾が綻んでいた。
 「ほら……、花が少し開いた」
 「うん」
 眩しくも淡い光の中で、ザックスがまるで匂い立つように綺麗に微笑んだ。




 20130622