「コラ……、止さないか」
「起きてた?」
「『起きてた』んじゃなくて、起きたんだ」
アンジールは仰向けに横たわっていた体を、ザックスの方に向けた。室内は常夜灯としてベッドサイドに置かれた小さなランプが朧気に灯っているのみ。
「何時だ?」
「さっき一時を過ぎた」
ベッドに入って瞼を閉じてから優に二時間は過ぎていた。これから本格的な眠りに突入するといったところだろうか。アンジールはザックスの返事に小さく溜息をついた。
日頃の疲れが溜まっているのか今夜はザックスの誘いを断って、アンジールは早々にベッドに潜り込んだのである。誘いといっても、録り溜めていた映画を一緒に観ないかというもので、決して色艶めいたものではない。今夜は。
「映画は観終えたのか?」
「うん、凄く面白かった」
映画はカジノを舞台にした手に汗握る駆け引きを描いたものだった。豪華な雰囲気漂う特別ルームで行われるポーカー・ゲーム。主人公が勝負に負ければ、国家予算がそのまま国際的なテロ組織の資金源になってしまうというものだ。目も眩むような金額を賭けた勝負、ディーラーの鮮やかな札捌きに惚れ惚れしてしまった。
ザックス自身は実はポーカーができない。ルールを知らないのだ。その事が何だか少しだけ恥ずかしくて、アンジールに教えて貰おうと思いつつも何となくそのままになっているのである。そのアンジールといえば、彼は勝負事全般に強かった。全般といってもカードとチェス、珍しいところで麻雀の類いである。カードはポーカーが好きらしい。ザックスは麻雀そのものを知らなくて、アンジールと一緒に行った旅先で初めて目にした。
その東方の異国の旅は妙にのんびりしていて、時間の流れが異なるように感じられた。街中には小さな水路が縦横無尽に張り巡らされている。ある通り沿いの茶房、店先に設けられた小さなテーブルで一休みしていたら、何やらジャラジャラと聞き慣れない音が聞こえた。ザックスが音のする方を見ると、馴染みの地元客らしき人と店主が所謂麻雀に興じているのであった。すると、こちらへ向かって何やら声を掛けてくる。ザックスはこの国の言葉が分からなかったが、アンジールが受け答えた。
「何て?」
「勝ったら料金をタダにしてくれるそうだ」
「これの?」
テーブルの上のトレーには香り豊かな茶と、深めの小鉢に寒天やフルーツが沢山盛り付けられたその上から、黒蜜らしきものがふんだんにかけられたこの街の名物甘味。
「あぁ、ちょっと行ってくる」
「あ、ちょっ……」
アンジールは小さく笑いながら、手招きされる方へと歩き出した。その表情は何処か楽しそうだ。ザックスはトレーを持つと慌てて後を追い掛けて、隣のテーブルに座った。
テーブルの上には緑のフェルトらしきものが敷かれている。アンジールは店主に勧められて席に着いた。彼を含む四人がテーブルを囲み、中央には牌という小さな直方体の駒が沢山置かれていた。ジャラジャラという音はこの牌を掻き混ぜる音だったのだ。各々が手元に牌を手際よく並べ始める。ザックスがアンジールの手元にきたそれを見ると全部で十三枚だった。それぞれに文字や模様が彫られていた。
「牌は全部で一三六枚。絵合わせみたいなものだ」
アンジールが牌を不思議そうに眺めているザックスに小声で告げた。
「アンジール、このゲームできるの?」
「麻雀か? できなければ、ここに座らないさ」
ゲームの始まりを告げる声らしきものが聞こえた。ザックスはトレーの上の甘味には目もくれず、ただひたすらに目の前で繰り広げられる光景を見つめ続けた。各々が順番に中央の山から牌を一枚取っては一枚捨てる。
「取る事を『自摸』、捨てる事は『打牌』と言うんだ」
ザックスに小声で説明するアンジールに、店主が何か話しかけた。ザックスにはその内容が分からなかったが、何となく会話の雰囲気からして「そっちの兄ちゃんは麻雀を知らないのか?」といったところだろうか。まったく以て余計なお世話だ。
「さっさと終わらせるから、次に行きたい場所、見たい場所を考えておけよ」
アンジールの雰囲気が俄に変わったのがザックスには分かった。初めて見る彼の姿に小さく震えると同時に、体の奥が熱くなった。
*
結局アンジールは勝負に勝ち、注文分の代金はタダとなったのである。「もう一局」と食いつく店主たちを何とか振り切って店を後にした。ザックスが麻雀をするアンジールを見たのは、未だ以て後にも先にもあの時だけである。
「なぁ、アンジール」
「ん……何だ?」
返ってくる返事は何処か夢うつつだ。
「ポーカー、教えて?」
「あぁ、いつでも教えてやるぞ……」
「麻雀も」
「……麻雀? 構わんが……」
アンジールは目を閉じたまま「牌がないな」と寝言のように言った。そして小さく寝息が聞こえ始める。ザックスはアンジールの体を仰向けにすると、その顔を覗き込むようにした。閉じられた瞼の微かな隙間から闇に溶けかけている蒼色が見える。小さく開いている唇に指先でそっと触れた。指の腹でまるで紅をさすように左右を往復させると、不意に指先が口内へと落ちる。小さく生温かさを感じた。
その感触はいつだってなまめかしい。濡れて薄闇に小さく光る指先。そっと指先を引くと、唾液がまるで蜘蛛の糸のようにふたりを繋ぐ。思わず自身の指先を舐めた。決して甘くはないのに、何故か甘くて堪らない。ザックスは胸を切なくて小さく身震いした。
『こういうのって、運なの?』
『勝負は「運」ではない。あくまでもその相手との戦いだ』
あの時、そう言ったアンジールを酷く格好いいと思った。例えそれが思いつきの余興であったとしても、小さなテーブルの上で繰り広げられる勝負に挑むアンジールの姿に見惚れた。それと同時に、自分だけが一歩下がったところから傍観する事しかできない事への苛立ちにも似た寂しさ。勝負相手は当然の事として、それよりもっと、あの場で一番アンジールのすべてを受けて、受け止めたあの小さな牌。扱い慣れた指先で選び取られ、並べられ、その視線を一身に受けた小さな牌が羨ましいほどだった。滑らかな牌の表面をなぞる指先の動きに息を飲み、興奮して肌がゾワリとしたのだった。
ザックスは堪らずにアンジールの指先を手に取ると、指と指を交互に組み合わせてそっと握り締めた。そして、指先一本ずつに順番に口づけると今度は順番に口に含んだ。指紋の凹凸までもが舌先に感じられて、滑らかな爪をなぞる。何度も何度も馬鹿みたいに繰り返したら、アンジールの指先が少しふやけてしまった。堪らずにきつく握り締めて、そのまま胸に抱くようにした。
「どうした?」
不意にかけられた声にザックスは顔を上げる。見ると、アンジールがこちらを見つめていた。いつから起きていたのだろう。いや、いつ起こしてしまったのだろうなどと、さっきからさんざん話しかけたりあちらこちらを触っていたのを棚に上げてぼんやりと考える。
「随分と弄ばれてしまったな」
アンジールは自身の指先同士を擦り合わせるようにした。水分を含んで少しふやけてしまっていた。ザックスはその滑らかな額をアンジールの肩口にそっと付けて、窓の方に顔を背けた。薄いカーテン越しに街の灯りが朧気に差し込んでくる。
「……愛して、るんだ」
溶けてしまいそうな声音。それを宙に放った唇でザックスはアンジールの指先をそっと咥えた。舌先に触れる皮膚の感触と熱。酷く安心すると同時に、無性に切なくなるのは何故だろう。目の奥が俄に熱くなって、ザックスは指先を緩やかに吸った。
「知ってる……」
アンジールは反対側の腕でザックスを抱き寄せた。
* *
「ザックスさんっ!!」
振り返ると、2ndの制服を着た青年が駆け寄ってきた。最近、自身が受け持つ演習に積極的に参加してくる奴だ。明るくて、いつも何かと声を掛けてくる人懐っこさがある。
「ん? どうした?」
「今日、仕事上がったら皆で麻雀やるんですけど、どうですか?」
「へぇ……、お前、麻雀できるのか?」
ザックスは少し驚いたように言った。ここミッドガルではカードゲームの方が盛んで、麻雀は余程好きな者じゃないとやらないマイナーなゲームだ。
「はい。最近ちょっとした流行りですよ。それで、ザックスさん、結構強いって聞いたんで」
「誰に? ……って、決まってるか」
情報通の友人の顔を思い浮かべて苦笑いした。あの頃はルールを覚えたばかりで取り敢えずゲームがしたくて、よく捕まえては付き合って貰ったのだ。
ザックスの中で牌を掻き混ぜる音と触れた感触、そしてあの指先の動きが、牌を見つめる視線が鮮やかによみがえる。
『お前は癖が出るから、すぐ分かる』
『マジで?!』
『それを直さん限り、負けるぞ』
ザックスは少し考える素振りをしてから、ちょっと困った顔をして「わりぃ、今日は都合悪いんだ」と言った。
「分かりました。じゃあ、またの機会に」
「あぁ。明日も演習あるんだし、寝不足には気を付けろよ」
ヒラヒラと手を振りながら、ザックスは廊下をあとにした。
*
ビルの屋上に上がると空がとても近くなる。警備上の問題で、この場所に来る事ができる者は極限られていた。だから、こういう時には打って付けの場所だ。ザックスは手摺りに凭れて、空の彼方を見つめるようにした。
「……麻雀、か。懐かしいな」
もう、何年も牌には触れていない。象牙と螺鈿でできた年代物の牌一式はアンジールが骨董品店で見つけてきた掘り出し物で、安価なプラスチック製のそれとは手触りも適度な重みも、何もかもが異なる。そう、あの旅先の店で見た牌に似ていた。部屋の棚の奥で、あの日から眠ったままだった。
「癖を直してからは、そこそこ強かっただろ? あんたが仕込んでくれたからな」
笑ったつもりなのに、目の奥からジワリと涙が滲んできた。頬の傷跡が鈍く疼く。
覚えてからというもの、徹夜でゲームに興ずる事もしばしばだった。飲み込みが早いのかセンスが良いのか、ザックスの上達にアンジールは驚いたほどだった。
「もう、やらない……、やれない」
彼が触れた牌に触れたくても触れられなくて、ザックスは嫌というほど牌一枚一枚を見つめてから封印するようにしまい込んだのだ。「彼が触れた」という事を残しておきたくて、「自分が触れた」事によってそれを上書きしたくなかった。
止めどなくこぼれ落ちる涙を嗚咽をそのままに、ザックスは空に一番近い場所から長い間動かなかった。
20130310