体を受け止める感触が心地良い。さらりとして柔らかく、それでいて適度に弾力があり、まるで重力を感じさせない。ふわりと大きな掌で受け止められているようだった。
寝返りを打つ度に、自室にあるベッドが如何に固くて寝心地が悪いかを改めて思い知る。どんなに科学技術が進歩しても、この体に特殊な施術を施しても、所詮人間は寝ないと生きていけない生き物なのだ。一生のうちで睡眠に費やす時間が最も多いのは、生きるためだ。
あぁ、だからうっかり眠ってしまっても、怒らないでそっと見守っていてくれないかな。俺は生きるために眠っているのだから。
「…………」
眠りがぷつりと途切れて、ザックスの意識がゆっくりと戻ってくる。閉じられていた瞼が微かに震え、目縁に碧く細い線が入った。その薄い瞼の裏にはもう光を感じているだろう。ゆっくりと瞬きを繰り返す。蝶が羽根を揺らすように、静かに呼吸をするように。そして、漸く視点が定まった。
天井が見える。あぁ、自室の天井はこんなに白くて高かったっけ。
まだ眠気の方が充分に勝っていて、ザックスはブランケットを手繰り寄せて再び眠ろうと、仰向けの体を横向きにした。
これ、手触りいいなぁ……。こんなの部屋にあったっけ……。
「……ないだろっ、おい!?」
ザックスはガバッと勢いよく起きた。この体に満ちていた眠気なんてものは一瞬で吹き飛ぶと同時に、頭の中がグワリとした。思わずこめかみを押さえる。そして、目に飛び込んでくる景色に愕然とする。
知らない部屋。知らないベッド。改めて見ると、どういう訳か自分は下着しか着けてなくて、ベッドの下に制服が脱ぎ捨ててある。どうにもこうにも普通ではない状況だ。寧ろ、まずい。しかも、かなり。
「此処は……何処だ?」
しかし、焦る気持ちとは裏腹に、口からは残念なくらいありきたりの言葉しか出てこない。ザックスが昨夜の記憶を辿ろうとした時、部屋のドアがカチャリと小さく音を立てて静かに開いた。ザックスは思わず身構える。
「やっと目が覚めたか」
「え、あ……、嘘……」
目の前に立っていたのは、自分の教育係であるアンジールだった。動揺するザックスにはお構いなしに、彼は手にしていたカップをザックスに無言で差し出した。一瞬だけ迷ったが、素直に受け取る。しかしザックスはそのままカップの中を見つめるだけだった。アンジールが怪訝そうな顔をする。
「いらないのか?」
「……ストレート、苦手なんだ」
言ってからハッとする。しかし、時既に遅し。アンジールは小さく笑いながら、いや、笑いを堪えながら「待ってろ」と言って部屋を後にした。そして、ミルクと砂糖をトレーに乗せて戻ってきた。
「ほら」
「ありがと……ございます」
ザックスは顔を赤くしながら、ミルクと砂糖をカップに入れた。黒かった液体がまろやかなブラウンになる。ゆっくりと一口飲むと、甘さと苦さが口の中に広がった。胃の辺りがジワリと温かくなるのが分かる。気持ち悪さはないものの、頭の痛さは消えてくれない。
『えっと、昨夜は……確か……』
「お前、何も覚えていないのか?」
「えっ?! いや、ちょっ……」
ザックスは記憶の糸を辿る。昨夜は「慰労会」と称した食事会だった。アンジールも担当教官に加わっている短期集中型の特別演習が無事終了したので、受講している2ndと教官である1stを交えての所謂打ち上げだったのである。少人数構成の演習だから、こぢんまりとした店で食事をしたのは覚えている。場の雰囲気も良かったし、料理が家庭的な味で美味しかったのも覚えている。飲んだ飲み物が美味しかったのも覚えている。しかし、ここまでだ。
「あの……アンジール?」
ザックスは焦りや混乱を通り越して、最早情けない表情でアンジールに縋るような視線を送った。それがアンジールにとっては思った以上に破壊力を持っていたものだから、今更ながら目眩がしそうになる。
「状況説明が必要なようだな」
「お願い、します」
アンジールはデスクの椅子を引き寄せてベッドサイドに座った。ザックスは初めて見る私服姿のアンジールに、何故だろうと思いながら何処か恥ずかしさを覚える。流れるような動きで長い脚が組まれて、ザックスは思わずカップを持つ手に力を加えた。
「では、状況を説明しよう。まず、昨夜はお前たちが計画してくれた食事会があった。さすがにこれは覚えているだろう。その席で、お前は俺の隣に座った」
確かに覚えている。その通りだ。
「その際、お前は俺の飲み物を間違って飲んだんだ。覚えているか? 少し濁りのある柑橘系の匂いがするやつだ」
「あ、」
ザックスが俯いていた顔を上げた。
「……飲んだかも。でもあれ、俺が頼んだグレープフルーツジュースでしょ?」
「違う。あれはそこそこの度数のアルコールだ。グレープフルーツを始め、何種類かの柑橘類をブレンドしてある。悪酔いしないから俺がいつも頼んでいるやつだ。それをお前は自分のものと間違って、あっという間に飲んでしまった」
思い出した。確かに飲んだ。味付けが濃い上に油がかなり使われている料理を食べたので、喉が乾いていた気がする。さっぱりとした口当たりと同時に美味しかったから、一気に飲んでしまった気もする。
「俺も他の奴と話していたから気付かなかったが、お前が頼んだグレープフルーツジュースが来た時には、既に俺のグラスは空っぽだった。その時点で既にお前はフラフラしていたんだ」
ザックスの教育係でもあるアンジールは、やむを得ず介抱する羽目になった。元来の世話焼きな性格に加えて、これは監督不行届にもなりかねないと自らザックスを連れ帰ったのである。
「という訳で、今に至る。何か質問があるか?」
「はい」
ザックスは小さく挙手をする。
「えっと……ひとつどうしても分からない点があるんだけど」
「何だ?」
「どうして俺は……その……下着だけなんでしょう」
しどろもどろになりながらも、一番の懸念事項を恐る恐る尋ねた。そんなザックスを見て、アンジールはクツクツと笑う。
「覚えていないのか?」
「う、ん……」
「そうか。それは残念だな……俺もあんな事は初めてだ」
ザックスはいよいよ本気で泣きそうになった。
* *
「思い出しても恥ずかしい」
ボソボソと独り言を言いながら、ザックスはアンジールの体にギューギューしがみつく。
「ザックス、苦しいぞ……おい」
擦り付けてくる額をやんわりと押し返すと、ザックスがじっと見上げてきた。綺麗な碧色に惹かれて、その瞼にキスを落とす。
「何を思い出していたんだ?」
「……初めてのチュウ」
「誰との?」
「あんたに決まってんだろっ!!」
拳をアンジールの腹に一発入れる。勿論本気ではないし、アンジールもわざと「うっ」なんて呻き声を上げたりする。例え本気で殴ったりしても、まだまだ到底敵わない相手だ。
「初めてって……、あの介抱した時の事か?」
「そーだよ」
あの時、アンジールは驚く事だらけだった。すっかりアルコールが回ってしまった教え子であるザックスを部屋に連れ帰り、ふにゃふにゃの体をベッドに投げ置いたら、彼は突如制服を脱ぎ始めた。念のため聞いてみると「いつもそう」と答える。そして下着だけになると、大の字になって電池が切れたように眠り始めてしまったのである。この時点でアンジールは、今夜リビングのソファで眠る事が確定した。
アンジールが一通りの家事を終えてザックスの様子を見に来た時、彼が何やら寝言らしきものを口にした。それは寝言にしては妙にはっきりとしていた。そして、アンジールは確かに、間違いなくこう聞いたのだ。
「あんたが好きだ」、と。
しんと静まり返った部屋。規則正しい寝息。アンジールはザックスに、そっと指先を伸ばした。
アンジールとザックスは、それぞれあの日を思い出す。今こうして、肌を寄せ合える仲になるきっかけとなったあの日を。
本当はザックスが知らないあの夜の事実がまだあるのだけれど、それは当分、場合によっては永遠にアンジールだけの秘密だ。その秘密を思って、アンジールは小さく笑う。
二の腕に小さな痛みを感じだ。見るとザックスが小さく頬を膨らませながら、二の腕をつねっている。アンジールはその頭を優しく撫でて、こめかみに唇を寄せる。碧い瞳が満足そうな色を帯びて、そして瞼がそっと閉じられた。
* *
思い出す
何度でも思い出す
共に重ねた時間を
今、ひとり、思い出す
20130216