019.寂しがる


  肌寒い季節になると、ザックスはより一層甘え出す。
 ザックスと親密な、文字通り一線を越えた間柄になってアンジールが驚いた事のひとつ、当の本人には失礼かもしれないが、見た目とは裏腹にザックスは非常に甘えたがりなのである。全然そんな風には見えず、思いもしなかったアンジールにとって、これは意外であった。
 ザックスのそれは鬱陶しいような甘え方ではなく、さり気なく、でもアンジールの胸を強く掴んで離さない甘え方だった。
 意識しているのか、それとも無意識なのか。いつだったかアンジールがそれとなく指摘すると、ザックスは顔を真っ赤にして、何度も何度も撫でていたアンジールの手をパッと離してしまった。そして、恥ずかしそうにそっと離れるのである。どうやら本人は無意識だったらしい。
 そして、恥ずかしさの余り拗ねたような態度を取るザックスをそっと抱き締めて耳元で囁くと、自分より幾分か細い腕がそろりと抱き締め返してくるのである。アンジールは思った。自分はどうしようもなく、この腕の中の彼が愛おしくてならない、と。
 ザックスの甘えたがりはアンジールに対してのみで、しかも「ふたりきり」の時だけだった。しかし、任務中でも「ふたりきり」の時だとザックスはうっかり体を必要以上にアンジールに寄せてしまったり、はたまた指先で触れてみたりしてしまうので、その都度アンジールは小さく笑いながらさり気なく告げるのであった。「あとでな」と。
 このように普段からアンジールに対しては甘えるザックスだが、季節が寒くなると「より一層」だ。甘え出すのは同時に寂しがる事で、人肌恋しい季節ならではの事だともいえる。
 でも、それだけではない。
 それはアンジールにもどうしようもない、根本から消し去る事のできない、ザックス本人の奥底深いところに澱のように存在するものだった。


 * *


 その夜もそうだった。
 ここ数日と比べると気温がグッと低くなって、アンジールは冬用の起毛したブランケットを一枚余分に引っ張り出した。ソファで文庫本を読んでいたザックスは、読みかけのページを折って閉じる。よって、この文庫本はザックス自身のものであると知れる。アンジールは基本的に、本に折り目や書き込みを行う事を嫌う。反対にザックスはそれが結構高価な本でも、折り目を付ければ書き込みもする。だから、アンジールから本を借りた時は、うっかり折らないように気を付けなければならなかった。例え少し折ってしまっても、そんなに酷く怒られたりはしないのだけれど。
 風呂上がりから幾分時間が過ぎてしまったたためさすがに肌寒さを覚えたザックスは、ブランケットが一枚足されたベッドにせっせと潜り込む。
 「今夜、結構冷えるね」
 「あぁ、予報通りだな。電気、消すか?」
 どうやらアンジールはまだベッドに入らないらしい。ザックスは何故と問うような視線で見上げた。蒼い瞳が小さく細められる。
 「あと二、三、片付けを終わらせたらな」
 「うん……じゃあ、これ付けとく」
 ザックスはサイドテーブルに置かれた小さな卓上ランプのスイッチを入れた。アンジールは頷いて部屋の電気を消す。蝋燭の炎に似せた揺らめいた灯りは、どこか暖かみがあってほっとする。ザックスは柔らかなブランケットにくるまれながら、ランプの灯りを見つめ続けた。


 *


 それは、冷たい。
 沼のように、一度足を踏み入れたら抜け出せなくなる。
 『落ち着け、大丈夫だ……大丈夫』
 そんな風に思っても、冷静さを装っても、無意識に足掻いてしまう。そして、足掻けば足掻くほど、ずるずると引きずり込まれてしまうのだ。
 どうしてなのだろうと、いつも思う。
 どうして自分は、こんなに寂しいのだろう。
 この不安は何だ。好きであれば好きであるほどに、その反対側にいつもいる黒く冷たいもの。落ちてくるのを、ぽっかりと無の口を開けて待っているようだ。
 ひとりじゃないのに、すぐ隣にいるのに、近いほどに遠い。
 遠い遠い遠い。こんなにも遠くて、こんなにもひとりだ。
 あぁ、何という。


 *


 「ッス……ザックス、おい」
 「ぁ……」
 ザックスは目を開けた。目の前にアンジールの顔があった。心配そうな目で自分を見つめている。
 「どうした、うなされていたぞ? 大丈夫か?」
 頬に触れ、目尻に溜まった涙を拭おうとするアンジールの手に、ザックスはしがみついた。離さない。離してはならない。
 この手は、黒く冷たい沼から自分を引き上げる手、だ。
 「うっ……うぅ、」
 縋り付いてくる体をアンジールは抱き締めた。手足の先が冷たい。寒さは寂しさを伴って、ザックスの全身へ静かに広がろうとしていた。
 誰しも不安になる。意味もなく、訳もなく、そしてどうしようもなく。
 「大丈夫だ。さぁ、寝よう」
 ザックスの背中を優しくさすりながら、アンジールは少しだけ乱れたブランケットと枕を整えた。あれからものの三十分も過ぎていない。ランプの疑似的な灯りだけがふたりを浮かび上がらせた。
 「アンジール……」
 「どうした?」
 「う、ん……、」
 外で風がヒューと音を立てている。この音はどうも好きじゃない。地の底にある冥府から聞こえてくる、幾筋ものか細い叫び声のようで。
 アンジールはザックスの指先を握った。それを合図にしたかのように、唇から小さく声がこぼれ落ちる。
 「……寂しいと、」
 そっと静かに見つめてくる瞳。碧にオレンジが映り込んで、揺れる。水分を湛えた瞳が見上げてくる。
 「……死ん、じゃ」
 それ以上言葉を紡がないように、唇に指先を当てる。そして、涙がこぼれ落ちる前に目尻に唇を寄せた。僅かに、極僅かに海の味がしたそれは、碧い瞳から止めどなく溢れ出す。
 寒いのは嫌だ。冷たいのは嫌だ。寂しいのは嫌だ。あんたがいないのは嫌だ。ひとりは嫌だ。自分ひとりは、嫌だ。
 「あぁ、うっ……うぅっ」
 「大丈夫だ、ザックス。ほら、ずっとこうしてる」
 呼吸を落ち着かせるように背中を優しく叩き、頭を撫で、頬を寄せる。子供のようにただただ泣くザックスを、アンジールは守るように抱き続ける。
 「寒くないし、寂しくない。俺がここにいるし、お前はひとりじゃない」
 アンジールは思う。いつか、ザックスは彼自身の奥底に潜む寂しさに食われてしまうのではないかと。「寂しいと死ぬ」というのは、本当なのではないだろうか。
 「……ッ」
 思わず唇を噛む。
 「ザックス、俺の手を離すな……」
 厚い胸板に額を押し当てていたザックスが、動きを止めてそろりと上を見る。そう、こんな時のアンジールはいつだって優しく笑っている。
 「いいな、ザックス。寂しさに……飲み込まれそうなお前を、俺がこの手で引き上げる。だから、」


 手を 離すな


 * *


 「……嘘つき」
 握っても引っ張っても、握り返してくれなければ引っ張り返してもくれない。
 きっと、思った以上にここは寒いのだ。だって掴んでる手が、指先が、恐ろしい早さで冷たくなる。
 「寒いのは嫌だ……、冷たいのも嫌だ……っ」
 でも、離したらダメだ。だって、この手だけが俺を。
 「寂しいのは、嫌だ……あんたが、いな……のは、嫌……だ」
 ひとりは嫌だ。自分ひとりは、嫌だ。
 叫びたくても、泣きたくても、それさえも叶わない。引き上げるはずの手が、引きずり込もうとする。でも、そこが酷く優しくて甘い場所のように思えてならない。
 闇に、甘い匂いが、満ちる。
 ザックスは目を閉じた。


 あぁ、何という。




 20130114