「ただいまー……、っと」
夜勤明け、眠気と任務完了の達成感その両方を引っ提げて、ザックスはアンジールの部屋に戻ってきた。もうすっかり彼の部屋で一緒に生活するようになってから久しい。最初はアンジールの生活空間に、自分自身が「ゲスト」として存在している雰囲気、よそよそしさが何処となく漂っていたものの、今ではちゃんと自分の居場所、空間が存在していた。ザックスにとって、それは凄く嬉しい事なのである。
「あれ? アンジール?」
いつもならすぐに返事があって、玄関まで出てくるアンジールが今日は返事もなければ姿も見えない。昼というには早すぎる時間帯は、朝の空気をまだ其処此処に残している。ザックスは玄関先で装備を解くとリビングを覗いた。
「へぇ……」
そこには珍しく、ラグマットの上でクッションを枕代わりにして眠っているアンジールの姿があった。彼は滅多に日中眠る事はしない。要するに昼寝をしないのである。仕事上、いつでも何処でも眠れるような体質にはなっているが、やむを得ない場合を除いて普段は日中に眠らないのである。
それとは正反対に、ザックスはすぐ眠る。窓際で太陽の光に当たっていると体が温かくなって、すぐに眠くなったりしてしまうのだ。それで、アンジールには「子供みたいだな」と言われる事も度々である。お互いにオフの日などは部屋で一緒にのんびりと寝転がっていたりしても、いつの間にか寝てしまうのはザックスだった。アンジールも、うとうとはするものの完全に寝てしまう訳ではない。
「疲れたのかな……」
アンジールは今日一日、オフである。ここ数日間、連日の会議やら打ち合わせで、外勤ではないものの忙しそうにしていたのは当然知っている。外に出ないのは楽かもしれないけれど、もしかしたら自分と同じように体を動かす方がアンジールも好きなのかもしれないと、ザックスは考えを巡らした。
「取り敢えず、シャワー浴びよ」
アンジールの姿を確認して安心したザックスは、そのまま静かに浴室へと向かった。
* *
「あー、さっぱりした」
タオルで髪の毛を拭きながら、ザックスがリビングに入ってくる。眠っているアンジールを確認しつつ、起こさないように気を付けてそのままキッチンへと向かう。冷蔵庫の中から冷えたミネラルウォーターを取り出すと、喉を潤した。
漸く落ち着いたところで、適度な疲労感がザックスの中に生じる。任務自体は簡単なモンスター駆除だったけれども、やはり夜勤は何となく体のリズムに無理が生じている気がして、任務の内容とは関係なく疲れる気がした。こういう時、人間の体は夜眠るように出来ているのだと、改めて感じてしまう。
「…………」
眠っているアンジールの側にしゃがみ込み、じっと見つめる。彼はとても規則正しく呼吸をしていた。時折、瞼がピクリと動いたりするものの、まさにすやすやと眠っているのである。
ザックスはおもむろに掌をアンジールの顔の上でヒラヒラと動かした。当然の事ながら、アンジールは何も反応しない。
「アンジール、ただいまー」
そっと声を掛けても、変化はない。指先にちょっと触れてみても、微動だにしない。どうやら彼は完全に眠っているようだ。
「……もしかして、初めてかも」
ザックスは少しワクワクする。こんな風に昼寝をしているアンジールを見るのは、初めてかもしれなかった。声を掛けても起きないし、触れてみても気付かないし。ザックスはアンジールの顔を覗き込んだ。
「…………」
明るい日差しの元で、こうして彼の寝顔を見るのは何だか少し胸がドキドキする。大好きな蒼色の瞳は、今は瞼の裏に隠されてる。思いの外、長い睫だと改めてザックスが思ったそれは、目縁に沿ってきちんと並んでいた。綺麗に通った鼻筋、生え際と髪の毛のコントラスト、心持ち薄く開かれた唇……。
思わず指先でそっと触れてしまう。サラリとした感触が妙にリアルで、ザックスは訳もなくひとり恥ずかしくなる。
ザックスが、そっと囁く。
「なぁ、アンジール……俺さ、」
午前中の陽光が溢れる室内は眩しくも静かだった。一日の始まり、躍動感を存分に漂わせている時間帯なのに、ひっそりと、ふたりきり。
「あんたが、好きだよ……大好き……」
誰も聞いていない、自分だけが聞いている、内緒の囁き。
「だーいーすーきーだー」
自分の口元に手を当てて、ちょっとおどけたような仕草をしながらの囁きに自分自身でクスリと笑う。
ザックスはアンジールの指先に自分の指先を絡ませた。静かに顔を近付けて頬を寄せる。彼の体温、彼の呼吸。確かに伝わってくるそれを、逃さないように逃さないように。
「こんなに、大好きだ……アンジール……」
愛しさがこみ上げる。
滑らかな頬、そのすぐ側の耳元でザックスは囁く。
「愛してるんだ……あんたを、凄く」
それはまるで呪文のように、何度も何度も。ザックスによって紡がれるアンジールへの愛の囁きが、部屋の中にゆうるりと溶ける。
ザックスはひとり嬉しくて、微笑んだ。
* *
「…………」
目を開けてすぐさま飛び込んできたのは、見慣れた寝顔だった。タオルもそのままに、いかにも風呂上がりという格好でアンジールにピッタリと寄り添い、すやすやと寝息を立てている。
「まったく、お前は……」
アンジールはゆっくりと腕を動かして、小さく頭を掻いた。
家事が一段落したところで、何となく体を横にしたら思わず眠ってしまった。ザックスの帰宅には気付かなかったものの、彼が風呂から出た頃にはもう目が覚めていたのである。何となく起きるタイミングを逃してしまって、そのまま寝たふりをしていたら、耳元で愛の告白の嵐である。囁きが少しばかりくすぐったいのと、あまりにも可愛い事を言うザックスを抱き締めてしまいたいのを我慢していたら、暫くして心地よさそうな寝息が聞こえてきて、今に至る。
アンジールはザックスの寝顔を見つめる。その寝顔は何処か嬉しそうな、満足そうな表情をしていた。
「ザックス……」
起きてしまうかもしれない事を承知で、アンジールはザックスの体を包み込むように抱き締めた。湯上がりから少し冷えたサラリとした肌の感触は滑らか。胸に頭を抱くようにして、まだ僅かに水気を含んでいる髪の毛に顎を埋めると、シャンプーの匂いが仄かに薫って鼻腔をくすぐる。
アンジールがそっと囁く。
「俺もお前が、大好きだ……愛してるさ」
胸が愛しさで満ちる。あぁ、何という至福であろうか。
太陽が空の一番高い所に昇るまでは、まだ少し時間が掛かりそうだ。愛おしい温もりを感じながらアンジールは瞼を閉じる。キラキラと透明な光に満ちた部屋で、ふたりの呼吸が静かに重なり始めた。
20120908