010.惚れる


 突然の豪雨に突然襲われて、突然ふたりきり。


 * *


 「あの洞穴が見えるなっ?」
 「はいっ!!」
 「そこまで走れっ!! 全力だっ!!」
 「了解っ!!」
 すぐ側にいる筈なのに、大声を出さないとお互いの声が聞こえない程だった。
 ザックスは夢中で、雨で煙る視界の先にある洞穴に向かって全速力で走る。「バケツをひっくり返したような」とは正にこの事だろう。足下の草地はみるみるととぬかるみ、水溜まりが瞬時に姿を現わしてどんどん広がり、やがてそれらは互いに繋がって川のように流れ出す。
 空が光る。天と地を切り裂くかのような激しい稲妻が走った後、大地が震えそうな程の轟音が辺り一帯に響き渡る。冷気を帯びた風が逆巻き渦巻いて、樹木の枝や葉などを一瞬にして宙へと巻き上げて放り出す。それが縦にぐるぐると円を描いて、ザックスに襲いかかる。
 「痛ッ!!」
 体に石が飛んできたのかと思ったが、どうも違うらしい。次から次へと止む事なく何かが体に当たってくる。一体何事かと思ったら、地面に直径二センチ程の氷の粒が次々と敷き詰められていた。雹が降ってきたのであった。
 『もう少しっ、あと少しっ』
 痛いとか言ってる場合ではない。後ろから聞こえる足音が「もっと速く走れ」と責め立てているようで、同時に絶対的に勝つ事が出来ない者に形だけでも「追い掛けられている」という事実が、ザックスの中に恐怖心を抱かせた。心臓がバクバクと破裂しそうな程に鼓動して、全身に物凄い早さで血液を送っている。それでも苦しくて、もっと酸素が欲しくて胸が焼けるようだった。
 ぽっかりと開いた暗い穴へ飛び込む。
 「ワッ!!」
 漸く辿り着いた洞穴の入り口で、岩に足を取られて体が前のめりになったと思った瞬間、派手に転がった。
 「痛ェ……」
 強打はしなかったものの、岩の壁に少しぶつけてしまった頭を押さえながら、ザックスはゆっくりと上体を起こした。外は分厚い雷雲で暗かったが、それより更に暗い洞穴の中から外を見ると随分と明るい。淡い逆光の所為で洞穴の入り口に立つアンジールが、まるで巨人のように大きく見えた。
 「暫く止みそうにないな……」
 外の様子を窺いながら息を整え、アンジールが独り言のように言った。豪雨に雷、竜巻に雹。局地的な気象の乱れはこの時期特有のもので、特にこの地域では頻繁に見られる。
 入り口付近だと雨が吹き込んでくるので、少し奥へと移動する。穴の奥行きはせいぜい数メートルだったが、この風雨を凌ぐには充分過ぎる程だった。
 「怪我はないか?」
 「あ……、はい」
 「そうか」
 アンジールが言い終えるや否や、空が光った。
 『何で……よりによって……』
 ザックスは小さく息を吐いた。
 実のところ彼は、今この場に一緒にいる1st……アンジールが少し苦手だった。
 ザックスが履修している演習の担当教官に二週間前に就任した彼は、別に理不尽な要求をしてくる訳ではないし、感情任せに無理難題を言ってきたりする訳ではない。逆を言えば、時々……本当に極希にだが、そういう教官もいるという事だ。
 アンジールという1stの存在は勿論知っていたし、噂話にも聞いた事がある。セフィロスやジェネシスと仲が良いとか、背中の大剣は実戦では使わないとか……。
 彼が行う演習は自身の経験を活かした実戦的なもので結構面白く、アグレッシブな内容も大変有意義なものであるが、実際の本人は見た目も含めて真面目すぎる程に真面目だし、冗談が通じなさそうで、少し話し難い感じがするのである。ザックスは比較的誰とも会話が出来る性格だが、アンジールの前だと何故だか妙に緊張してしまうのである。
 それに、アンジールは物凄く怖い。一度、こっぴどく叱られた時があって、明るさとポジティブさが自慢のザックスも、さすがに数日間落ち込んでしまった程だった。
 そんな中、この地域には短期集中の野外演習で昨日から訪れていた。二日目の今日、午後から実戦に即してのプログラムを展開、森の中を移動していた所に急な豪雨である。皆、演習実施範囲内に散らばっていて、たまたまザックスはアンジールの近くにいたのである。そこそこの降雨なら演習は続行されるが、雷雨となると命の危険が生じるので別である。取り敢えず、雨を凌ごうと辺りを見回しながら走っていたら、アンジールに声を掛けられて現在に至る。
 「そのままでは風邪を引くぞ」
 ザックスが顔を上げると、アンジールがバスターソードを背から下ろしているところだった。重そうな大剣を軽々と扱う腕は、太く逞しい。
 「毎年の事ながら、この季節は雷雨が多いな」
 額に派手に乱れて散っている前髪を、両手で掬うようにして後ろへと撫で付ける。髪の毛の先から、払うような仕草を見せた指先から、雨の滴が宙へと飛び散った。いつもとほんの少し異なる印象を受けるのは、後ろへ流されたその前髪の所為だろうか。
 雨水を充分に吸って色が一段階濃くなった制服に手を掛けると、アンジールは一気に脱ぎ払った。
 その様はまるで、連続写真のようにザックスの目に映る。
 全身を覆うしなやかな筋肉は、まるで鍛え上げられた鋼のようだ。美しく隆起して流れるように動く腕の筋肉。肩から二の腕、そのまま手首、指先にかけてのラインが、水の流れを描いているように滑らかだった。体の中心である背骨部分に沿って流れる水滴は、まるで谷間を流れる一筋の雪解け水。果てしなく広く大きく見える背中を覆う筋肉は、さながら彫刻のような美しさで隆起沈降している。見事なまでの逆三角形のシルエットは、単なる肉体美を超えて神々しささえ感じられた。
 先程まで着ていた制服を、アンジールがおもむろに絞る。両腕の上腕二頭筋が躍動した。それと同時に、地面にボタボタと水滴が落ちる音が響く。
 ザックスは、目が離せなかった。瞬きさえも忘れてしまう程だった。
 心を奪われるとは、こういう事をいうのだろうか。目の前の男の何でもないような動作が、一瞬にして自分のすべてを掴んで離さない。それは、憧れや尊敬などを孕みつつも、もっと違う何かだった。その何かが自分の中に突然現れて、消えない。消えないどころか、ジリジリと燻って全身に燃え広がるかのようだった。
 胸の鼓動が、耳の奥で煩く響く。あぁ、何でこんなに。
 「……ザックス?」
 「えっ、あ……」
 怪訝そうに自分を見つめてくる蒼い瞳。今まで何とも思わなかったその瞳が、こんなにも胸を抉る。どうして、こんなに。
 あぁ、胸の鼓動が何て煩いのだろう。
 また空が光る。一際大きな轟音が耳をつんざくようだった。近くに落雷したのかもしれない。
 ザックスはひとり思う。雷に打たれたのは、自分自身なのだと。


 目の前の彼が、まるで稲妻のように。


 * *


 「こういう天気の時は……、あの時を思い出すよ」
 「あの時……? いつだったかの野外演習の事か?」
 「ん……」
 「懐かしいな」
 「アンジールという名の雷に打たれた日だ」
 「何だ、それは」
 ザックスはゆっくりと上半身を反らしてフフと笑う。柔らかく、まるで蕩けてしまいそうに笑う。伸ばされたアンジールの腕が頬を撫で、耳に触れ、そっと髪の毛を梳く。碧い瞳が嬉しそうに、そして何処か懐かしそうに細められて、


 「あんたに……、一番最初に惚れた日」




 20120903