009.悩む


 女々しいとか優柔不断だとか言う奴もいるかもしれないけれど。
 だって、やがてこの体の血や肉になるのだと思うと、重要な事だ。
 嗚呼、何て悩ましい!!


 * *


 「決めたのか?」
 メニューと睨めっこしているザックスに、アンジールはグラスに入った水に口を付けながら言った。ほんのりとレモンの香りが口中に広がる。なるほど、レモンの絞り汁を混ぜているらしい。たったそれだけの事だが、洒落ていると思った。
 平日午後、それも時刻は既に夕方近く、ティータイムには遅く夕食には早すぎる中途半端な時間のカフェは、人がまばらだ。紅茶を中心として軽食も扱っているこのカフェは、やはり女性客が多いものの、アンジールとザックスがお気に入りの店だった。ランチ時はそれなりに混雑しているが、こうして時間をずらせば、ゆっくりと過ごせる。
 さて、ザックスはと言えば、相変わらずメニューと睨めっこをしていた。
 「なぁ、この季節限定のオープンサンド、美味しそうじゃない? チキンの香草焼きが入ってる。しかもピクルスが添えられてる……」
 ピクルス好きなザックスには気になって仕方ない。
 「あぁ、確かに。しかも今の時期だけのようだな」
 「でもさ、こっちのパスタも気になる。暫く来てなかったうちに、新しくメニューに加わったみたい」
 指し示したメニューには「かりかりじゃこと水菜のさっぱりパスタ」。醤油ベースのパスタに、かりかりにローストされたじゃこが沢山降りかかっている。水菜の歯ごたえも楽しめそうな一品だ。
 食事にドリンクを付けたセットを頼もうとしているのだが、肝心の食事を決めかねているのである。
 ザックスがメニューを見ながら悩むのは毎回の事だ。最初の頃はちょっと意外で驚いた。「俺、これっ!!」と迷いもせずに選ぶのだと勝手に思っていたのである。ところが実際はそうではなかった。結構迷うのである。あれもこれも食べたいのだけれど、当然の事ながら全部注文する訳にもいかないので、選ばなくてはならない。本人は至って真剣にメニューを見ている。
 「あーもーどっちにすっかなー。ごめんっ、もうちょっと待って!!」
 「あぁ、気にするな。とことん迷って決めろ」
 アンジールの言葉にザックスは「サンキュ」と笑った。
 まるで迷う自分に呆れつつも、選ぶのを楽しんでいるようなザックスを見るのがアンジールは好きだった。
 「んー……」
 ザックスの双璧が僅かに細められ、綺麗な弧を描く眉がほんの少しだけ顰められる。深く思索に耽っているような、それでいて何処かアンニュイな雰囲気。メニューを見つめる思いの外真剣な眼差しに、アンジールは密かに小さく息を呑んだ。それと分からないように、さり気なく目の前のザックスの表情を盗み見て、なかなか決めあぐねているザックスに声を掛けた。
 「両方とも注文すればいい。ふたりでそれぞれ半分ずつ食べよう」
 「いいの? アンジールは飲み物だけのつもりだったんだろ?」
 「別に構わないさ。それに、半分ずつにしたらお前は両方食べられるし、問題ないだろう?」
 アンジールの提案にザックスが笑顔になる。
 「さぁ、ドリンクも迷っているのがあるなら両方頼め」
 「やったっ!!」
 こうしてザックスは、グリーンハーブティーと季節限定のマスカットジュレソーダを選んだのだった。


 * *


 「なぁ」
 「何だ?」
 「アンジールってさ……悩む事とかって、あるの?」
 眠る前の穏やかな時間、先にベッドの中に入ったザックスがアンジールに尋ねた。タオルで髪の毛を拭いているアンジールが、手の動きを止めてザックスの方を振り返る。彼はブランケットから頭だけを出し、もぞもぞとアンジールの方を向く。
 「ほら昼間……、カフェでメニュー選ぶ時とか、アンジールはいつもすぐに決めるから。俺は毎回あれこれ迷って悩んじゃうからさ」
 「俺だって悩みはあるさ。俺には悩みがないように見えるか?」
 「いや、何て言うかさ……アンジールは自分の信念とか、ルールみたいなのをきちんと持ってる気がするから……、悩む事なんてないのかなって」
 アンジールはベッドの縁に座った。ザックスからは照明が逆光となって、アンジールの顔に深い影が落ちる。
 「実は今、悩んでいる……」
 「え、そうなの?」
 「あぁ」
 アンジールの腕がゆっくりと伸びて、ザックスの頭を優しく撫でる。洗いざらしの髪の毛を静かに梳いて、耳の後ろへそっと掌を流した。ザックスが気持ち良さそうに目を閉じる。アンジールは体を屈めて、その薄い瞼に唇を押し当てた。唇を瞼に残したまま囁く。
 「このままお前を抱いてしまおうか、どうしようかと悩んでいる」
 「え、」
 ザックスが起き上がろうとしたのをやんわりと制して、アンジールはそのまま続ける。
 「でも、翌日の任務の事を考えると、止めておいた方が良いだろうと思う。しかし、隣で無防備に寝ているお前を見ると、そのまま触れたくなってしまう。しかし、いやいや、ちょっと待てと……そんな事で毎日悩んでいるんだ」
 「…………」
 アンジールの声が細かな振動となって、瞼から眼球へと伝わる。体温が近くて、ザックスはそのまま瞼を舐めて欲しいと密かに思った。
 「俺はお前を、毎晩だって抱きたいくらいだからな……」
 そんな大胆な事をさらりと言ってのけて、漸くアンジールが顔を上げた。ザックスは自分をまっすぐと見下ろしてくる蒼い双璧に、ほんのりと頬を薄紅に染める。
 「……エッチ」
 フイと視線を逸らしたその素振りから、ザックスが照れている事が充分窺える。
 「あぁ、その通りだ。俺はお前にはいやらしいんだ……あぁ、悩ましいな」
 ブランケットを少しだけ捲ると、綺麗な首筋が露わになる。ザックスが腕を伸ばして、アンジールの頬に触れる。
 「今夜は一緒に悩もっか?」
 「悩むか? でも、どうやら結論は一緒のようだな」
 アンジールがクスクスと笑う。前髪が無造作に散った彼は、日中とは酷く印象が異なる。きっちりと隠されていた色気が、緩やかに滲み出てくるようだった。
 風呂上がりの素肌からは、仄かに石けんの香りが漂う。伸ばした腕と伸ばされた腕がお互いの体を抱き締めたのはほぼ同時で、ザックスは安堵したように息を吐いた。それから探るように首筋に顔を埋めて、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺に満ちる、微かに湿度を含んだ空気。
 ザックスが呟く。
 「悩まなくて、いいのに……」
 「そうは言っても、悩んでしまうものなんだ」
 うん、知ってる。それが、あんただ。
 ザックスは嬉しくて、アンジールの体にぎゅうっと抱き付いた。


 * *


 思い煩う、それが恋。
 嗚呼、何て悩ましい!!




 20120701