008.見つめる


 あの頃は、彼に気づかれないように見つめるのが好きだった。
 そっと、遠くから。
 口の中で、彼の名前を何度も甘く溶かしながら。
 今思えば、とうに気づかれていたのだと思う。
 気づかれないようにと思いながらも、「熱さ」だけは抑える事ができなかったのだから。
 でも、今は。
 彼の蒼い瞳に見つめられるのが好きだ。
 堪らなく好きだ。


 * *


 「なぁ、これどうかな?」
 ザックスは薄手のジャケットを自身の体に当てながら振り返った。丈は少し長めで裏地はなく、ジャケットといえどもカジュアルな着こなしが楽しめそうだ。色はライトグレーで見るからに涼しげだ。
 「なかなか良いじゃないか」
 アンジールがザックスを見て言った。彼の手には、幾つもの紙袋が提げられている。
 「お客様、そちらの商品は色違いでもご用意しております」
 店員が色違いのライトベージュのジャケットを手にして、ザックスの側に寄った。
 この度の久し振りのオフは、ふたり揃って買い物と相成った。少し足を伸ばして訪れたショッピングモールでは、有り難い事に丁度今日から期間限定のセールが始まったらしい。10〜30%オフはやはり魅力的だ。アンジールはこの機会にと、以前から欲しかったシリコーン製の調理器具を購入した。ふたりで使用する生活用品の類いもあれこれと買い足した。一番の収穫は、以前から気になっていたシルクのシーツがセール価格で買えた事である。さらりとした滑らかな肌触りと光沢のあるシルクは、快適な眠りへと誘ってくれそうだ。
 広い敷地面積を持つショッピングモール内を回りながら、最後にこうしてザックスの服を見ている訳である。
 「どっちの色が良いかなー、どう思うアンジール?」
 ザックスはふたつのジャケットを取っ替え引っ替え体に当てる。彼自身としては、ライトグレーの方が気になるのだろう。そちらの方を何度も体に当てては、姿見で確認している。
 「着てみたらどうだ?」
 「うん、そうする。ごめん、もうちょっと待ってて」
 「気にするな」
 ザックスが嬉しそうに笑った。その場で着ていたパーカーを脱いで、五分袖のカットソーの上からジャケットを羽織る。
 『なるほど、これはもてるのが分かる気がするな』
 ほんの僅かにアンジールは目を細めた。それなりに身長もあり、顔立ちや見た目も良いザックスは、街中を歩いていると女の子に振り向かれたりする。今も本人にはまったく自覚はないのだろうが、店内にいる女の子がさり気なくザックスを見ているのだった。
 「こっちの方が似合う気がするな」
 ライトグレーのジャケットを示して、アンジールは小さく頷いた。
 「やっぱり? 俺も何となくそうかなと思ってさー……っと、これはセール価格じゃないの?」
 ジャケットに付けられた値札を見たザックスが、店員に確認する。どうやらセール除外品らしい。アンジールがさり気なく他の商品を見る。値札には小さなシールが貼ってあるものと、そうではないものとがあり、シールが貼られているものがセール対象品のようだ。
 「申し訳ございません。こちらは通常価格での取り扱いとなります」
 「そっかー……」
 ザックスは手にしたジャケットを見ながら残念そうな顔をした。ジャケット自体の値段はさほど高い物ではないのだが、折角のセール期間中は何となくセール価格で買い物がしたいと思ったのである。
 「やめるのか?」
 「んー……いや、やっぱり買ってく。これ、お願いします!」
 「かしこまりました。では、レジの方へご案内します」
 目で「ちょっと行ってくる」と合図をしたザックスに、アンジールは小さく頷いた。


 * *


 「見てたでしょ?」
 「何がだ?」
 分かってるくせに。ザックスはアンジールの腕を小さくつまんだ。
 「昼間、買い物してる時。俺が会計しに行った時……」
 あの時、アンジールが自分を見ているのが分かった。見つめているのが分かった。背中越しに、彼の視線を感じた。振り返らなくても分かる。彼が俺を見ている。
 「あぁ、だってお前を待っていたからな」
 「そうだけど……、じろじろ見すぎ」
 「じろじろとは失礼だな」
 「じろじろ」ではないが、見ていたのは事実だ。
 何を拗ねているのか恥ずかしがっているのか分からないが、ザックスはひとり思い出しながら唇を尖らせてぶつぶつ言っている。店内を回っていればいいのにとか、商品を見ていればいいのにとか。
 「嫌だったのなら、謝る」
 「別にそういう訳、じゃ……」
 ザックスは俯いた。時々、自分の気持ちに素直になれなくて、アンジールに駄々をこねるような態度を取ってしまう。でもそんな自分をすっかり理解しているアンジールは、彼が悪い訳ではないのにこうしてさっさと謝るのだ。それがほんの少しだけ、ザックスの気持ちを切なく、苦しくさせた。
 本当は、見つめられるのが好きなのに。
 「…………」
 そっと視線を上げると、アンジールの蒼い瞳が自分を見下ろしていた。何処までも深く深く、吸い込まれてしまいそうな蒼い瞳の奥に自分の姿を見て、ザックスは得も言われぬ気持ちが胸に広がっていくのを感じた。
 「本当は、好きなんだ……」
 「あぁ……知ってるさ」
 アンジールが熱く静かにザックスを見つめたまま、ゆっくりと彼の手を取って、そっと手の甲から指先に口づけた。
 「っ……」
 ザックスの小さく息を飲む音に、アンジールは綺麗に双璧を細めた。
 射竦められる。
 「アンジー、ル……」
 口の中で甘く溶かした名前を、そっと宙に放つ。蕩けて濃密な音が緩やかに何度も放たれる。
 「その目に」
 碧い瞳がアンジールを見つめ、そして悩ましげに重たげに瞬く。
 「殺され、そう……」
 次の瞬間。


 指先に小さな痛み。
 冷酷にも感じられるほどの、美しい微笑。
 蒼く燃える視線が、灼熱の温度で俺を射貫く。
 そして、
 貫いて、突き抜ける。


 堪らなく好きだ。
 この瞬間が。




 20120610