006.願う


 彼が、自分と同じ「好き」を持っていますように。
 心の中でそう願いながら、涙が出た。
 夜の真ん中で、ひとり。


 * * *


 もう、そろそろ……、帰らないと。
 この歳になって門限らしきものがあるのはどうかと思うけれど、規則だから仕方がない。
 気分はまるで、シンデレラってお姫様。
 ザックスの歩く速度が緩やかに落ちる。アンジールの隣にいたのに、ゆっくりと後ろへと下がっていく。
 「ザックス?」
 立ち止まって振り返ると、彼はぽつんと立ち尽くしている。少しだけ顔を俯かせて。
 『やれやれ……困ったものだ』
 アンジールは小さく息をついて、すぐにザックスの側に寄る。通りに人の姿はまばらで、見かけても皆帰宅を急いでいるのか足早に何処かへ去って行く。
 「ザックス、ほら……門限に間に合わなくなるぞ」
 宿舎には一応門限なるものが定められていて、日付が変わる前にはエントランスを通らなければならない。確認した腕時計の針は、日付が変わるまで10分を切っていた。
 アンジールはザックスの体を、通りの端へとさりげなく移動させる。「closed」の札が掛かった店先は、昼間の賑やかさとは対照的にひっそりと静まり返っていた。
 ザックスの指先が、無言でアンジールのコートの合わせを掴む。ほんの僅かに震えているように見えて、アンジールはザックスの体を優しく抱き寄せた。柔らかくもしなやかな髪の毛に顎を埋めると、良く知ったシトラスの香りが鼻孔を掠める。
 「また明日、会えるさ」
 「明日にならないと……、会えない」
 切なげに発せられた声は、普段の賑やかで明るいザックスからは想像もできない。でも、これも彼なのだ。自分しか知らない、自分しか見ることのできない彼の姿だ。
 ザックスは額をアンジールの胸元に押しつけた。頭の隅に、門限と現在時刻がよぎる。どちらも消えてなくなってしまえば良いのに。
 「またな」とか「じゃあ」は、何気ない言葉だけれど切ない。もう次の瞬間には、会えなくなるかもしれない。
 自分たちは普通の人たちと比べると、酷く死と隣り合わせの場所にいるのだ。
 アンジールはチラリと腕時計を見やる。いよいよ時間が迫ってきて、このままだとザックスに門限破りの減点が課せられてしまう。
 胸に埋まる顔を上げさせて、少し冷たくなってしまった指先で頬に触れる。涙のしずくがこぼれ落ちてしまいそうな目尻に、唇を寄せた。
 「いつだって一緒にいたい……お前だけじゃないさ」
 「ん、」
 「本当はこのままお前を、連れ帰ってしまいたいくらいだ」
 大きな腕がザックスの体をきつく抱き締める。
 一時だって離したくない。離したくない。門限や時間や規則なんて、クソくらえとも思う。
 ずっとずっと、一緒にいられればいいのに。愛しいお前をこうして抱き締めながら、心の底から切に願う。
 「アンジール」
 「何だ?」
 「……好き、だよ」
 神様お願い、あと少し……あと少しだけ俺たちに時間を。
 「俺もだ」
 「凄く、好きだよ」
 「知ってるさ」
 「……ッ!!」
 重ねられた唇は酷く熱くてすぐ濡れて、多少の強引さで以て舌先を舐め採られた。自分より大人の彼の内に秘められた激しさを僅かに垣間見たようで、胸が切なくも熱く震えた。
 永遠にも続くような錯覚に陥りながらも口づけはすぐに解かれて、腕を痛いくらい強く掴まれたと思ったら引っ張られる。アンジールは走り出す。距離にしてあと少し先の区画にある、ザックスの宿舎に向かって。
 ザックスは慌てて体のバランスを取りながら、自身も必死に走る。
 前を走る彼に手を引かれながら願う。
 このままずっと、着かなければ良いのに。彼と一緒に、夜を越えて走り続けたい。誰も居ない、誰も知らない場所へ、ふたりで行きたい。
 「IDカードは、持ってるなっ?」
 アンジールの声にザックスは大きく頷いて、もう一方の手で腰に付けたチェーンの先を探る。ポケットの中から現れた、数種の鍵と共に取り付けられたカードケースを見たアンジールは、「良し」と頷く。
 「間に合うから安心しろっ」
 そして、蒼い瞳が優しく笑った。
 その瞬間、ザックスは胸の奥がギュッと掴まれたようになって、切なくて泣きそうになった。泣きたくなった。
 どうしてこんなに、胸が痛い。どうしてこんなに、好きなんだろう。
 好き好き大好き、大好きです。大好きすぎて、もう窒息してしまいそう。
 お願い……この苦しいまでの思いが彼に少しでも、伝わりますように。
 「ザックスッ!!」
 一段と強くグイと引っ張られたかと思ったら、まるで投げ出されるように体が前へ出た。アンジールが反動を付けてザックスの体を前へと出したのである。

 5、4

 エントランスの中に入って、チェックだけ通せば取り敢ず大丈夫。

 3、2

 手の中からカードが舞い落ちそうになって、ザックスは慌てて力強く掴むと、壁に取り付けられている認証機器に叩き付けるように押し当てた。

 1

 「認証完了。ザックス・フェアと確認。ロックを解除します」
 アナウンスと共に、エレベーターへ続く扉のロックが解除される音がする。同時に、エントランス部分に赤外線センサーが作動した事を知らせるアラーム音が小さく響いた。以後、明朝にセンサーが解除されるまで、緊急時に発せられる特別解除コードを持っている者以外の出入りは不可能となる。物理的には出入り可能なのだが、セキュリティ上すべて記録が残り各方面へ連絡が行くため、それ相応の処分がなされてしまうのであった。
 「間に合っただろう?」
 アンジールが、センサーに引っかからない距離からザックスに話しかける。
 「あ、うん……。ありがと」
 ザックスもギリギリの場所に立って、アンジールを見つめる。手を伸ばせば、すぐに届いてしまいそうな距離なのに、今は何て遠い。
 ふたりは暫し、無言で見つめ合った。それはまるでお互いに自分からその場を立ち去る事ができなくて、きっかけを見つけあぐねているようだった。
 『…………』
 見つめ合う視線はそのままで、アンジールの体が小さく動いた。
 コツ、
 靴の踵でコンクリートの地面を蹴る。
 『あ……!』
 その動作だけで、アンジールの意図するところを読み取ったザックスが小さく頷く。
 コツ、コツ……
 節をとっているかのように響く音。音が示す言葉に、ザックスは思わず泣きそうになる。それを堪えて手の甲でグッと目元を拭うと、精一杯笑った。
 「俺……俺もっ……、ありがと」
 「あぁ。さぁ、明日も早いから……、もう戻るんだ」
 「うん……、また明日」
 ザックスが小さく手を挙げると、アンジールもそれに応える。
 「また明日な……おやすみ」
 「おやすみ」
 アンジールが立ち去る足音と、エレベーターへと向かうザックスの足音が、夜の空気に重なって溶けた。


 * * *


 『あいしてる』
 彼がくれた音は愛の言葉。同じ言葉を言いたくて、ザックスはひとり、ベッドの中で願う。
 早く、朝になりますように。
 早く……、彼に会えますように。




 20120603